江戸小咄では「鵜が飲み込むのに難儀したから鵜難儀、うなんぎ、うなぎ」と語られている

鰻・江戸時代

江戸前大蒲焼き

鰻屋は元禄時代には存在していましたが、蒲焼は酒の肴だったので、鰻屋に集まるのは酒飲み客でした(鰻の飲み屋)

今でいえば高級店

安永6年・1777

 「女嫌変豆男

江戸前 大蒲焼つけめしあり 

つけめしは、ご飯を付けたことで(鰻とご飯が食べれる)

 

天明2年・1782

鰻屋が付け飯を始めたいきさつ」七福神大通伝

 

うなぎ飯の始並に蒲焼のこと

文化4年・1807年以降

堺町(日本橋人形町)大久保今助(※)鰻めし考案した。

芝居見物用に、大きな丼ぶりに飯と鰻をいっしょに入れまぜ、蓋をして熱いまま用いた。

100文(約3000円)

※宝暦7年(1757年)誕生 17歳のとき江戸にでて,水戸藩の御用達として富を得る。

文化4年(1807)年には中村座の金主となり,歌舞伎の興行師となった。この後鰻めしを考案

 

安政4年・1857年

真佐真のかつら」青葱堂冬圃

著者の幼少時(40年くらい前?1817)に葺屋町堺町の隣町)の裏長屋で鰻丼が売られていた 

64文(約1800円)

堺町には中村座葺屋町には市村座があって、まとめて二丁町と呼ばれていた。

上の話と時代背景が合います

 

当時の鰻丼

  • 主食とご飯と一品料理の盛り合わせ

  • 小鰻を使用9~12cm(小さいから安いし、弁当に入れやすい) 

  • 蒲焼より安い値段で提供(大蒲焼は200文 約5000円 現在の高級店と同じくらい)

  • タレにみりんを使用(江戸前の甘辛い味)

明治18年・1885年 

俗事百工起源」宮川政運 

鰻の蒲焼(歌川国芳)

うなぎは冬は漁獲量が減ります。

そこでうなぎ漁師は、鴨などの鳥猟を、山間部の漁師は猪や鹿などを捕って鰻屋に売っていました。

鴨や獣肉を使い、焼とり、鴨鍋、牡丹鍋なども置く店が多かったので、その名残で今でも鰻屋で鶏肉料理などを扱う店が残ってます
(山くじらは猪)
 
見立て五行 火 「かがり火」(歌川国芳)

桜の季節、川遊びをするにはまだ肌寒いので、鰻漁も釣りなどの餌を使う漁は、まだ始まっておらず、後ろの船ではかがり火を焚いて「四つ手網」を使い漁をしています。

その捕れた魚をたらいに入れて鑑賞しているのでしょうか。

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こうしてみると、鰻のお値段って今とあまり変わらないんですね。
昔から高級食材だったことが分かりました。
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さあ、鰻を食べに行きましょう🤗