永井荷風⑤〜晩年〜

戦後あの寅さんで有名になる渥美清が荷風が通っていたストリップ劇場(浅草ロック座)の雑役係のころ、渥美が結核で入院したことを知って荷風は「これでストレプトマイシン(結核の特効薬)を買ってあげなさい」と大枚を叩いたと云われる

 

浅草はストリップ全盛期を迎え、目の肥えた常連客に揉まれ、渥美清や萩本欽一、坂上二郎、ビートたけしをはじめ、多くの喜劇人を輩出しました


証言

永井荷風さんは、踊り子さんと一緒にお風呂に入るんですよ。

当時は、もう結構な歳ですからね、「俺は人畜無害だから、俺と入ったって平気だよ。」なんて言っていましたね。

永井荷風さんは、また一風変わった人で、マスコミを一切受け付けなくてね。マスコミが「永井荷風先生が来ているという事ですが」と尋ねて来ても「俺、いねえって事にしておいてくれ」って。

本人に会って留守だってんですからね、愉快な人でした

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東京・小石川に生まれた永井荷風は、大久保余丁町、麻布、岡山と転々と暮らすが、終戦後の1946年に千葉県市川市に移り住み、79歳で永眠するまでこの地で暮らしました(市川市内でも3度引っ越し)

 

荷風が終の棲家としたのは、78歳で購入した八幡の一軒家

六畳と四畳半、三畳、そして台所とトイレという小さな戸建でした

 

年中敷きっぱなしにされた布団と机、作りかけの本棚、そして七輪や鍋、タバコや空き缶

これらが畳の上に無造作に置かれ、手を伸ばせばすぐに届いた

 

夕食は1人、粥を煮て食べるなどしたそうです

 

独り暮らしだった荷風は、1959年4月30日未明、六畳間の書斎兼寝室で血を吐いて倒れた。誰にも看取られない孤独死でした

 

1959年3月1日、長年通い続けた浅草アリゾナで昼食中「病魔歩行殆困難」(日乗)となる

その後は自宅に近い食堂大黒屋で食事をとる以外は家に引きこもり、病気に苦しむ荷風を見かねた知人が医者を紹介しても全く取り合わなかったという

そして、4月30日朝、自宅で遺体で見付かった

 

通いの家政婦が血を吐いて倒れているのを見つけ、最後の食事は大黒屋のかつ丼で血の中に飯粒が混ざっていた

胃潰瘍に伴う吐血による心臓麻痺と診断

 

傍らに置かれたボストンバッグには常に持ち歩いた土地の権利証、預金通帳、文化勲章など全財産があった

中身の通帳の額面は総額2334万円を越えており、他に現金31万円余が入れられていた

 

全財産を常に持ち歩いていたんですね

 


これで永井荷風の物語はお終いです。

今まで読んで頂いた方々には感謝します

 

ありがとうございます