バロン吉元さん。知らないでしょう?
バロン吉本さんを求めて、初めての弥生美術館に行ってきました
東大の裏道ですね この道良く抜け道として使っていました
竹久夢二美術館と併用しています
竹久夢二はあまり好きでなくてじっくり見たことがありませんでしたが今回拝見しました
竹久夢二
岡山県の南東、邑(おく)郡本庄村に生まれる。本名竹久茂次郎。父・菊蔵は造り酒屋をいとなむ。現在、生家は夢二郷土美術館分館となっている
私のイメージは
「女たらし」
子どもの頃より絵に魅かれた夢二は、神戸中学に進み、エキゾチシズムの洗礼をうける。しかし、父の事業欲により一家は九州に移住するも、夢二は家出をし上京、画家を志望する。父の反対で早稲田実業入学。キリスト教者や幸徳秋水ら社会学者と交わる。時に夢29歳
一方、生活のために絵ハガキ製作をはじめ、23歳の時、早稲田鶴巻町で絵ハガキ店を開いた未亡人、岸たまきと出蓬い、結ばれる
お葉、山田順子など女性遍歴は続く
昭和六年に渡米。昭和八年、病で帰国
その後の台湾旅行の後、病状悪化
北野恒富 「花」
日本画家。石川県生。名は富太郎、号は夜雨庵。画家を志して大阪に移り、稲野年恒に歌川派の浮世絵を学ぶ。新聞小説に挿絵を描き、美人画家として次第に注目を集める。
昭和22年(1947)歿、67才。この方は知りません
しかし、いい絵です
間違えると変な方向に今なら走りそうな・・
危ない感じ(笑)
ここも暫時にして辞め、以後独習で挿絵を続けた
明治44年中将湯の商標である中将姫を書いて一躍その名を知られるに至った。その後大正に入ってから講談社出版雑誌(講談倶楽部、面白倶楽部、少年倶楽部他)単行本、新聞挿画等広汎な出版物の挿絵、装画に筆をふるった。
しかし戦時に入ってからは、感傷的雰囲気をもつその画風から第1線を退き、戦後は児童向出版物などに執筆していた。
大正時代~昭和時代に掛けて活躍した画家・高畠華宵
人物画を多く手がけた高畠華宵の作品は西洋のテイストを多く取り入れつつも、異国情緒に溢れた独特な妖艷さを放っています。
少年少女向け雑誌や婦人向け雑誌の挿絵なども手がけ、当時、人気画家であった竹久夢二らとともに活躍しました。
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