明治期に郡山市へ福島県庁が移転していたら・・・ | 花かつみ

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明治期に福島県庁が郡山市へ移転していた場合(実際に明治18年には県議会で可決・上申されながらも内務省によって強引に却下された歴史的経緯があります。)、「郡山市と仙台市の関係性」は、中国地方における「広島市と岡山市の関係性」に非常によく似た形になっていたと考えられます。

 

1. 「圧倒的な西の経済・交通拠点」と「北の政治・歴史都市」の二極化

中国地方における広島市と岡山市は、それぞれが強い経済圏と高い都市圏人口を持ちながら、役割分担とライバル関係を築いています。

 

広島市(西の横綱・総合力)

中国地方最大の経済・人口規模を持ち、広域的な支店経済や交通の要衝として機能する都市。

 

岡山市(東の横綱・交通結節点)

「日本の十字路」とも称される卓越した交通アクセスを背景に、高い商業集積や独自の経済圏を誇る西日本の重要拠点。

 

もし郡山市に県庁が移転していれば、東北地方の勢力図は大きく変わっていました。

 

郡山市(政治・経済・交通の結節点)

 東北本線・磐越西線・磐越東線・水郡線が交わる圧倒的な交通の利便性と、安積開拓以降の強靭な商都としてのエネルギー、そして県庁の行政機能が1点に集中します。これにより、福島県内にとどまらず、南東北の経済・流通の真の心臓部として急成長を遂げたはずです。

 

仙台市(北の広域拠点・歴史都市)

 東北最大の都市としての地位や東北全体の中心(支店経済の首都)としての性格は維持するものの、南側から猛烈な勢いで迫る「郡山市経済圏」との間で、広島市と岡山市のような「西日本を牽引する双眼の巨大都市圏」に擬えたライバル関係を形成していたと考えられます。

 

2.  地理的距離感と「双子・対抗都市」としてのシナジー

仙台市と郡山市の物理的な距離(約70〜80km圏内)は、広島市と岡山市の距離感(約160kmよりもさらに近い)に匹敵します。 これほど近い距離に、強大な経済・行政機能を持つ都市(郡山市)と、東北最大の求心力を持つ都市(仙台市)が並び立つと、お互いが刺激し合う形で回廊型の巨大都市圏(メガロポリス)を形成した可能性が高いです。中国地方で広島市と岡山市が互いに牽引し合いながら中国地方全体のプレゼンスを高めているように、東北地方においても「仙台市一極集中」とは異なる、強固な二極体制が築かれていたと言えます。

 

3.  明治期の「成長ポテンシャル」の方向性
明治初期、郡山は安積疏水の開削による一大フロンティアとして、東北屈指の近代化の象徴でした。そこに県政の頭脳(県庁)という最高次の行政機能が加わっていれば、民間資本と行政が一体となった爆発的な都市成長が起きたことは確実視されています。岡山市が山陽道の要衝として独自の発展を遂げたのと同様に、郡山市も「東北の十字路」としてのポテンシャルを極限まで開花させ、仙台市の強力なカウンターパートとして並び立つ存在になっていたでしょう。

 

4. 郡山市の予想人口:約60万〜70万人規模

現在の岡山市(人口約70.5万人)を最も近いベンチマークとして、同等かそれに迫る規模に成長していたと考えられます。

 

成長の要因

・県庁や国家機関の地方出先機関が集中することで、行政・公務関連の雇用が爆発的に増加。

・「郡山大学(旧帝国大学または主要な国立大学)」のような総合大学が置かれ、若年層の人口流入が恒常化。

・東北本線・磐越西線・磐越東線・水郡線、さらにその後の交通網のハブとして、北関東および南東北全域を網羅する商業・流通の巨大集積地(支店経済都市)として機能。

 

市域の拡大

周辺町村(須賀川市や三春町など)との大々的な平成の大合併や広域都市圏化が進み、実際の現在人口(約31万人)の倍近い、政令指定都市に匹敵する規模(60万〜70万人)を維持していた可能性が高いです。

 

5.  仙台市の予想人口:約100万〜110万人前後

現在の仙台市(人口約109万人)、および中国地方の広島市(人口約117万人)の関係性から見ると、仙台の人口自体は現在と大きく変わらない、もしくは微減程度に収まっていたと考えられます。

 

影響の性質

広島市が中国地方全体の圧倒的な「西の横綱」であるように、仙台市も東北最大の広域拠点・文化的中心地としての地位は揺るぎません。ただし、本来であれば仙台市に一極集中していた南東北(福島・会津・浜通り)の経済・行政の求心力が、強力なカウンターパートである「郡山市」に一部分散されます。そのため、仙台市の一極集中による肥大化はやや抑制され、両都市が健全な競争と役割分担を行う「双眼型」の広域圏を形成していたと言えます。