まずは、この九州を襲った地震での犠牲になられた方に、心よりご冥福をお祈りいたします。そして、被災された方には早く日常が戻りますように。
この日記は、今回の地震にあった私の備忘録です。この恐怖を忘れない為に、今後の私が突如襲い来る災害に備えられるように書くものです。
15日の夜。
日曜日に子供会の行事を控え、それに必要な物を買い忘れていたので、夜になってから、必要な物を隣の市まで買いにいって、用事をを終えてから、車で眠っていた娘と運転してくれた母と深夜に帰宅。
母と別れ、眠そうな小6の娘を布団に入れ、部屋を離れて5分程経った時でした。
カタカタと小刻みな揺れを感じた時、娘が寝てる部屋から警報が聞こえてきました。
「!!!」
同時に娘が何かを叫び、それを聞いた私は、慌てて部屋に戻ろうとしました。すると大きく揺れ、部屋の前の壁に軽く衝突。揺れによろけながら部屋に飛び込み、慌てて布団ごと娘を抱えた瞬間、大きく大きく揺れ、荷物が降り注ぎ、突然部屋は真っ暗に。
叫んだのか、恐怖で声も出なかったのか……よく覚えていません。
ただ手が震え、鼓動がはやくなり、自分が自分じゃないような感覚でした。
前日の揺れで、「地震来なかったじゃーん!」と笑い話で済めばよし。と用意しておいた懐中電灯。それを点灯させるための簡単な手順すら一瞬忘れてしまう程の恐怖でした。
懐中電灯がつき、少し我に帰った私は簡素だけど用意しておいた荷物を抱え、前日のTwitterを思い出して、何とかブレーカーを落とすと外へ……玄関(本来は勝手口)は靴箱で塞がれて出られずにとなりの勝手口(本来なら玄関)へ。そこは何とか出られたのでそのまま脱出。
玄関は外からあけ、靴をとりだすと履き替えて、車を建物のない空き地へ移動。
ガスボンベの元栓を閉めた時点で、気が緩みそうになったけど、緩む間もなく、余震の連続。とにかく体感できる揺れが多く、警報音も度々鳴り、恐怖は増すばかり。
「大丈夫?」
そのメールやラインに「怖い」と泣き出して、とにかく怖いんだと聞いて貰いたい気持ちに。けど、守らなきゃいけない娘が泣かずにいたので、私が泣いちゃダメだと奮起。建物が廻りにない空き地にご近所の方と各自の車で一晩とりあえず待機することに。
2回目の大きな揺れの後、娘とトイレを探して徒歩移動。近所の公民館のトイレを貸して貰った。
そこには沢山の方が、震える身を寄せあって避難されていました。中継しようと集まったテレビ局の方々や地元の消防団の方もいました。
話を聞くと、トイレ使えてると言うので、公民館のトイレを貸して頂きました。
車に戻り、毛布にくるまって娘と手を繋ぎただひたすらに朝を待ちました。
続く揺れの中、不安で心の中はいっぱい。
携帯の充電が切れそうで、連絡出来なくなったらどうしようとか、余震もあるし、もっと大きな揺れが来たら娘をどう助けていこう?それ以前に娘を助けられるの?とそればかりが頭をグルグル回りました。
友人、知人に身内の安否もなかなか取れず不安になるのを何かと気を紛らしながら真っ暗な時間を過ごしました。
いつもならすぐに朝になるのに、とにかく時間が過ぎない。1分が長く、もう1時間経った?朝まで何時間?そう思っても経っているのは数分。このまま夜は明けないんじゃないかと思えてくる位に感じました。
恐怖しか感じない時間でした。
明け方、街灯が灯った時は娘とホッとして、近くの自販機に行き「スポーツ飲料」を1本購入。それを二人で一口ずつ飲み、少しだけ眠りました。結局は、余震が続くので目が覚めるのですが、それでもちょっとの仮眠は、夜が明けてから動く気力に繋がりました。
朝、6時過ぎになりトイレを貸して貰いにみたび移動しました。その際に娘がお友だちの心配をしていたので、避難場所になっている小学校まで行くことに、途中で色々な場所を通り、被害状況を目の当たりにしました。
倒れた植木鉢、落ちた壁や瓦。
なぎ倒された酒瓶、壊れたブロック塀、ひび割れた道路。
避難場所になっている小学校でさえ、グラウンドに地割れが起きていました。
結局、お友だちの安否は分からないまま、車に戻り、様々な事を考えてフォロワーさんや様々な人の話を聞いて「ガソリンの確保」「携帯の充電」「食料の調達」を決行することに。
車で携帯を充電しながら、あちこち行ってみましたが、どこも被災されていて営業しておらず、ガソリンのみ入れることに成功。後に沢山の方が来ており、早めに動いて正解でした。
しかし、娘の食欲が湧きそうな食品は確保出来ずに途方に暮れていると、自宅前のクリニックの先生がロビーに入れてくださり、休憩させてくれました。さらにお店がどこも空いてない事を知り、ご自分のオニギリを娘に分けてくれました。
ロビーで少しウトウトしてから、テレビ見せてくれたので、炊き出しが始まった事を知り、移動することへ。
小学校へいき、自衛隊の方々に声をかけて「暖かいご飯に梅干し」と飲料水を分けて貰い、梅干しに誘われて娘に食べさせる事に成功してひと安心。
その後も続く余震、警報音にビクビクしながら、母と連絡を取り一先ずは「おばさんの家に行き、1度顔を見せる。充電をさせてもらう」と言うことに。
おばさんの家も勿論、例外なく被災していましたが、流石と言うか……かなり片付けててビックリ、バナナと温かい紅茶を食べさせて貰って、念願の充電をさせて貰いました。
「腹が減っては戦(片付け)はできん!」
だそうで、モリモリ食べては動き回っていたおばさんが印象的でした。
午後は、仕事から帰ってきた弟と自宅に戻り、揺れるなか「大丈夫」と弟の言葉に勝手に励まされながら、言われて気付いた腐りそうな食品などをまずは片付けて、必要な物を詰めたり、詰め直したり。そして再び家を後に。揺れが比較的少ない、妹の所に行く事にしました。(妹は3ヶ月前に出産したばかりで赤ちゃんを抱え、旦那さんが公務員で出勤になり、さらにこの状況。故にパニックになってたと言うのも理由の1つ)自宅は気になりますが、娘の状態や自分の精神状態、身体的状態を考えて、弟と決めた結果。
結果的に移動してよかったです。
揺れが少ない、警報音が鳴らない。
なによりお風呂に入れた。
それに身内が揃っていると言う状態に安堵しました。それは娘も同じだったようで、朝から殆ど食べなかったご飯を食べる(空腹を感じる)ようになり、眠気も襲ってくるようになりました。
ただ、音には反応が早く、親子で僅かな音にビクビクしていました。
そして、夜が再び明けました。
まだまだ被害が出ている現状。
続く余震。
片付かない我が家。
悲しいニュース。
避難所生活を余儀なくされている方々。
頑張らなければならない日が続きます。
まだまだ。
けれど、人の温かさや大切な人の大切さ、家族の有り難さ。
色々なモノにも触れられました。
だから良いって事じゃないけど、頑張って日常を取り戻そうと思えます。
そう、思えました。
今回、用意しておいて良かったモノ。
今回、あっ!と思った気付いたモノ。
用意しておいたモノ。
懐中電灯(災害用の充電タイプ)
*携帯の充電にも多少ですが使えました。電池も用意しておくと安心して、充電することが出来そうです。
着替え
*と言うより、防寒具。毛布も持って逃げたのは良かったです。着替えも役立ちました。夜間の地震のため、パジャマで逃げたので、朝着替える事が出来ました。
お菓子
*言わずもがなですが、何もない時に飴を舐めると喉の渇きが少し和らぎ、子供の気を紛らせることもできました。
お腹は……お菓子ではあまりいっぱいにはならないです。
薬類
*娘が蕁麻疹もちなので塗り薬、私の循環器の薬、解熱&鎮痛剤、絆創膏、マスク、冷えピタ。今回は娘が熱を出してしまい特に冷えピタと解熱剤は助かりました。マスクも防寒、飛沫感染防止などかなり役立ちました。欲しがる子供もいた位です。
定番ですが「非常持出袋」
*応募したら、昨年の夏にセットで当たったものです。簡易的な食料、水、救急セット、アルミ箔のような防寒具、簡易ト
イレ用のビニール、雨合羽、圧縮の軍手&タオルが入っていました。そこに、トイレットペーパー、生理用品、防災ラジオ、電池、ペンライトを入れておきました。あると言うだけでちょっと安心出来る、精神安定剤的な位置付けでした。その位置付けで済んだ事に感謝ですね。
小銭、お金も必要な物でした。
あっ!と思った事は……
もしかしたら子供とはぐれるかも!
と言う事。
突然、昼間に災害にあった時は無理でしょうが、一緒に家にいる夜間の災害の時は持たせる事が可能です。
弟と自宅に戻った時に、娘用に小さな避難袋を作りました。
中身は、住所、名前の分かる名札。お財布(1,000円いれました)。生理用品、飴。ハンカチ、ティッシュ。蕁麻疹の薬、鎮痛剤。防犯ブザー(外付け)。
小6の娘なら、はぐれてもこれだけあれば何とか一晩、避難場所を見つけて飢えや渇きををしのぎ、万が一の場合はブザーで場所を教えてくれて、私の元に帰って来てくれるんじゃないかと。
少しでも確率が上がればいいなと。
少しでも帰るんだ!と娘が思える希望になればいいなと。
また、夜が来ます。
不安な夜が始まるけど、みんなで乗りきりましょう!