私と祖母は中学3年生から同居していた。
祖父母宅兼店舗だった築60年の家を建て替えて二世帯住宅になったのだ。
母が別居したのは引越し後1年以内なので、私は祖父母、父、兄、弟たちという祖母以外男しかいない家庭で育ち、一番下の弟は小学3年生だった。
高校に入学してから、本格的な父子家庭となり、母がいなくなり寂しがる弟の寝かしつけを私がしていた。(中途半端に寝て、23時頃起きて宿題風呂等をしていた私は結構しんどかった記憶がある。)
高校生の思春期だったが女がいなくて困ることは多々あった。
生理だ。
私は少し生理が重い方だった。
痛くて寝込むこともあったし、家庭環境の変化で、あの頃は常に胃腸炎を患っていた上にPMSも重く、よく生理前の早朝にものすごい冷や汗と腹痛でトイレの前で鎮痛剤を飲んで気絶していた。
鎮痛剤がなくて、やむを得ず祖母に買ってきてもらったこともあった。あの頃祖母は70代だった気がする。
年を経るに連れ、祖母は若いときに働きすぎたのもあり、骨粗鬆症で入退院を繰り返した。
トイレに自分で行くのも大変なこともあった。
背中が痛くて行けず、兄弟で祖母のオムツを替えたこともあった。
「すまない、すまない」といっていたのを覚えている。私達兄弟は気にしなかったが、自立心の高い祖母は辛かっただろう。
介護は辛かったが、祖母との幼い頃の幸せな思い出はたくさんあった。
春、多摩川に行ってはよもぎを摘んできて、草団子を作った。
桃の季節になると、祖母は桃が好きで、祖母の実家の農家の桃の木に登り食べたことを話してくれた。
女学校で洋裁を習ったから、リカちゃん人形の服を欲しがる私に手縫いでドレスを作ってくれた。(今も大切にとってある。)
蒲田の屋上に度々連れて行ってくれて、ゲームや乗り物に乗せてくれ、あの小さい観覧車に何度も一緒に乗った。
祖母が大好きだった。
骨粗鬆症が進んで、家での介護も大変になり、介護施設を転々とした。
少し認知症もあったと思う。
大学生になった私は祖母に会える機会はかなり減った。(4年間ほぼ毎日朝から晩まで資格の単位取得のため大学に行き通していた)
最後の思い出は、祖母の入っている施設で、童謡の会に一緒に参加したときだと思う。
私が仕事を始めて2年目に、祖母は夜中に施設のトイレで倒れて亡くなった。
心不全ということになった。
身内がなくなるのは初めてで、職場で知らせを聞いた私は、人のいない部屋で聞かれるのも憚らずに大声で泣いた。
祖母が死んだ。
私のおばあちゃんが死んでしまった。
信じられない思いで病院に向かい、霊安室で祖母と対面した。
まだ柔らかかった。
眠っているようで、寂しかった。
父が、叔母達とともに葬儀の準備をし、祖父にも祖母と対面できるよう、計らった。
祖父はその時胃瘻で入院していた。
叔母が祖父を連れてくると、大声で三度祖母の名を呼んで、別れを告げた。
祖父に祖母の死を告げるときも、叔母が口ごもっていたら「死んだか!?」と言ったらしい。
肝が据わった祖父だった。
「俺は死なねぇぞ!」
と祖父は言って、その後一年生きた。
祖母の葬儀の時、初めての通夜と葬儀で、こうして人は送られていくのか、と妙に納得した。
経を聞いていると妙に安心して、祖母が送られるための整理をしている気がした。
いよいよ、遺体と火葬場で別れるとき、私はずっと祖母から離れることができなかった。
祖母にまだ生きていてほしかった。
結婚式に出てほしかった。
母がいなくなって、ときに喧嘩することもあったが、祖母しか頼りにできる人は居なかった。
もう祖母の顔を写真でしか見れないことが辛かった。
どんなにすがっても祖母はもう起きないので、私は叔母に肩を掴まれ、祖母と別れた。
祖母は骨になってしまった。
小さな祖母は小さな遺骨になって、少しの骨しか残らなかった。
今でも祖母に会いたい。
洋裁を教えてほしい。
ひ孫を見てほしい。
また祖母の実家の墓参りにお供で連れて行ってほしい。
おばあちゃんに会いたい。
時々ふとそう思う。
また。会いたいなぁ。