土産を渡しに行ったついでにタイ料理を食べてきた。味覚が鈍っている今ならパクチーを食べられるんじゃないかと、ヤムウンセンとカオマンガイを口に運んだ。


パクチーの存在はわかるが、あの強烈さはない。たまたまか、味覚異変の影響かはわからい。辛いものと一緒に食べるとその存在も感じない。今のうちに慣れておこう。刻まれたパクチーを退かしながら食事するのは面倒くさいものだ。食べられるようになっておきたい。



昨夜からの雨はまだ続いていて肌寒い。考えてみると、仕事を休んだこの一週間は毎日雨が降った。おかげで外を歩き回ることもなく、今日も一日中横になって過ごしてしまった。ま、じっとしていても、テレビを観る、本を読む、あるいは寝ると退屈することもない。


今日は関裕二氏の『遷都に秘められた古代天皇家の謎』を読んでみた。PHP文庫から2012年6月に刊行された。




ヤマト建国来、古代の大王(天皇)は代替わりごとの遷宮が行われてきた。筆者は、「遷宮」は宗教的な意味合いが濃かったとみている。問題は都城(とじょう)だ。


律令制度による中央集権国家造りの気運が高まると、永久都城の建設にヤマト朝廷は邁進する。天皇のお住まいの「宮」の周辺に役人を住まわせる都市「京」を造って永久都城とする。


ところが七世紀末から八世紀末までの約100年の間に藤原京(ふじわらきょう)→平城京(へいじょうきょう)→恭仁京(くにきょう)→平城京→長岡京(ながおかきょう)→平安京(へいあんきょう)と平均20年に1度の遷都が行われている。そこには藤原氏と反藤原派の戦いがあった。


天武天皇が夢見た永久都城「藤原京」は造営されたが、蘇我氏の強い地盤である奈良盆地南部を嫌った藤原不比等は急遽平城京を造営した。この永久都城を何度も捨てる愚行が繰り返され、藤原の独り勝ちが確定したことで「平安京」千年の歴史が始まった。


著者は、ヤマト建国から始まる歴史の謎を解き明かしながら、遷宮と遷都の歴史の背後にあったものをあぶり出していく。



本書の内容は以下のとおり。(目次引用)


はじめに

第一章 平城京遷都の謎

 なぜ平城京は造られたのか

 造営途中に捨てられた藤原京

 藤原京は道教思想に則って造られた

 藤原京と律令制度

 藤原不比等の思惑

 天武天皇の死と二つの勢力の暗闘

 旧都に捨てられた左大臣石上(物部)麻呂

 ヤマトの中心にいられなかった中大兄皇子

 なぜ誰もが蘇我氏の土地・飛鳥を懐かしんだのか

 鬼が証明する蘇我氏の正義

 なぜ元興寺は平城京遷都にヘソを曲げたのか

 平城京は藤原氏のための都

 なぜ「藤原の城=平城京」も短命だったのか

 聖武天皇の関東行幸という謎

 聖武天皇を「転向」させた母の悲劇

 聖武天皇の真意


第二章 纏向(まきむく)遺跡と磐余(いわれ)宮の謎

 三世紀のヤマトに誕生した都・纏向

 邪馬台国とヤマト建国

 神武と崇神は本当に同一人物なのか

 王家は交替していたのか

 水野祐の三王朝交替説

 初大王はかならず磐余に宮を置く

 古代人が神聖視した天香具山

 天香具山は天降ってきた山

 普通の場所ではなかった飛鳥

 磐余は天孫降臨神話のモデルとなった?

 磐余と岩の信仰

 磐余に関わりを持つ池と船

 司祭王=天皇家と磐余の密接な関係

 なぜ磐余と関わりのない神武が「磐余彦」なのか

 蘇我氏と磐余の関係

 神武の橿原宮は「軽」にあった?

 セットで語られてきた「磐余」と「軽」

 「磐余」と「軽」で結びつく神武と応神

 初代神武と第十代崇神は本当に同一人物なのか

 なぜ「永遠の都=纏向」は捨てられたのか


第三章 遷宮と天皇

 王の住まいの歴史

 神社にそっくりな天皇の宮

 天皇だけが住まいを移した謎

 死穢に対する忌避の観念が生まれた瞬間

 応神天皇の時代に「死穢への忌避の芽生え」が起きていたことの重大な意味

 神武と応神をつなぐ海の女神の血

 「遷宮」の歴史が応神天皇から始まった謎

 応神天皇出現以前のヤマトの王の正体

 なぜヤマトは一枚岩ではなかったのか

 ヤマト建国にいたる西日本の状況

 ヤマト(纏向)の初代王は吉備からやってきた

 「纏向の王」の次に神武も応神もヤマトにやってきた

 神武も応神もヤマトに裏切られた出雲神の末裔?

 考古学史料をなぞるように神功皇后は日本海から北部九州に向かった

 出雲と吉備とヤマトの興亡

 天神と国神が入れ替わっている

 王の力を削ぐための「遷宮」


第四章 継体天皇と磐余宮の謎

 古代史の謎を解き明かすキーマン・継体天皇

 なぜ継体天皇は「磐余」に宮を置いたのか

 悪徳の天皇・雄略天皇の登場

 どのようにして司祭王が強い王を目指したのか

 継体天皇を後押しした東国パワー

 新興勢力を味方につけた雄略天皇

 東国を代表する上野毛氏の意外な活躍

 ヤマトの王に対する東西豪族の意識の差

 瀬戸内海の覇者・吉備(物部)の思惑

 継体天皇の出現は「関東の描いた図式通り」だった?

 関東と出雲の不思議なつながり

 東に逃げた出雲神たち

 応神五世の孫の継体は出現出雲の子?

 継体天皇が「磐余」に宮を置いた意味

 越と尾張の王家の受難

 六世紀の混乱は日本を二分する勢力の相剋

 謎の女人大々王がふたつの日本を和解に導いた

 なぜ宮は飛鳥から動かなくなったのか


第五章 再び平城京遷都の謎

 藤原京が短命だった謎のヒントを握る蘇我氏

 蘇我本宗家の意思を継承した孝徳天皇

 難波遷都の本当の意味

 明らかになった前期難波宮

 前期難波宮は日本古来の建築様式を踏襲していた過渡的な新都

 なぜ中大兄皇子は改革事業のシンボル・難波宮を捨てたのか

 天智天皇が近江に宮を定めた真意

 藤原京造営を夢見た天武天皇

 天武が宮に選んだ地は「蘇我の王家」の土地

 なぜ藤原京は捨てられたのか

 藤原不比等が憎んだ藤原京

 平城京遷都の直前、すでに冷遇されていた左大臣・石上(物部)麻呂

 『竹取物語』の語る物部氏の凋落

 藤原の子から天武の子に目覚めた聖武天皇

 恭仁恭に隠された「水の利」

 聖武天皇が難波遷都に固執したわけ

 明らかになった遷宮と遷都の歴史


おわりに



古代史に登場する人物名、地名は簡単には覚えきれない。何度も繰り返して対象に接することでなんとか頭に刻まれていくが、なかなか長持ちしない。古代史を読む悩みの種だ。