午後から雨の予報があったが、午前中にゴールすればいいか、とJR東日本が主催する小田原ウォーキングに参加してきた。

JR横浜線町田駅で小田急線に乗り換えると約1時間で着く。各駅停車の京王線で新宿駅に出るのと大して変わらない時間だ。

 

今日の受付は小田原駅観光案内所で9:00から始まった。

1年ぶりの小田原だ。昨年5月に小田原城天守閣がリニューアル・オープンしたが、まだ見学していない。

今日のコースではこの天守閣が楽しみの一つだ。

残念ながら、缶バッジに新しいデザインはなかった。

封を切っていないバッジもあったが、昨年度デザインのバッジだった。仕方ないので、6月の相模原とかぶるが、「651系伊豆クレイル」をいただいた。

 

9:05にスタート。

東口から小田原城へ向かう。

市内には、古くから栄えた産業文化を今に伝える地域資産がたくさんあり、それらが「街かど博物館」として公開されている。

駅前の「ちん里う本店」も「梅干博物館」として新しく参加されていた。

明治4年(1871)創業の梅干しや梅を使った創作菓子で有名だ。

 

ところが、本町にも「欄干橋ちん里う」の梅万資料館がある。

明治初期創業で、同じちん里うなので、以前駅前の本店との関係を聞いたことがあるが、その時は言葉を濁された。

触れてはいけないことだったかもしれないな。

ちん里う本店前を過ぎた先を右折するとお堀端通りだ。

350mも歩くと、二の丸へ続く学橋に着く。

橋を渡って二の丸に入るとすぐに左折し、二の丸隅櫓、銅門の前を通って天守閣を目指した。

二の丸には、藩主の居館や行政を行う政庁としての役割をもった二の丸御殿があったそうだが、最も壮麗だった建物は元禄16年(1703)の大地震で倒壊炎上している。

 

歴史見聞館の前から本丸への階段を上がると、そこには常盤木門が待っている。

これも大地震で倒壊したが、宝永3年(1706)に多聞櫓と渡櫓からなる枡形門形式で再建され、明治3年(1870)の小田原城廃城までその姿が残っていたそうだ。

現在の常盤木門は昭和46年(1971)に再現されたものだ。

 

常盤木門をくぐると本丸だ。改修なった天守閣が視界に飛び込んでくる。

久しぶりに入場料を払って内部を見学した。

ウォーキング参加者は1割引きの450円で入場でき、さらに難攻不落の合格祈願鉛筆をプレゼントされた。

難攻不落だと試験を突破できない気もするが、ここはありがたくいただいておいた。

 

展示室では、「小田原北条氏の絆~小田原城とその支城~」という企画展が開催されていた。

天守に上がると摩利支天像の安置空間が再現されていた。

 

摩利支天は当時武士の間で篤く信仰されていて、小田原城のものはイノシシに乗った三面六臂の像だ。

大久保忠朝が小田原藩に復帰した際に天守に祀られ、元禄地震の被災からも免れたという。

 

曇り空ではあったが、天守からの展望はよかった。順路は、西→南→東→北面になっていた。

西面には駒ヶ岳や一夜城で有名な石垣山が望める。

南は相模湾で、伊豆半島、真鶴半島が見える。

 

東へ回ると、大磯丘陵から江の島も見えるはずだったが、さすがに江の島の島影は見つけられなかった。

北面からは、小田原駅、その背後の丹沢山地の蛭ヶ岳から南東端の大山までよく見えた。

 

気づくと時刻は10時を回ろうとしていた。

長居しすぎてしまった。急いでコースに戻った。

天守閣の南側の坂道を下っていった。

右手にはこども遊園地が現れた。その下に報徳二宮神社への入口がある。

報徳二宮神社は二宮尊徳翁を祀った神社だ。

この辺りは二の丸小峯曲輪だった場所の一角で、参道右側には当時の空堀跡も残っている。

明治27年(1894)4月、二宮尊徳翁の教えを慕う6ヶ国(伊勢、三河、遠江、駿河、甲斐、相模)の報徳社の総意により創建された。

境内には二宮金次郎像が建てられている。

今では歩きスマホを助長しかねないと眉を顰める御仁もいそうだ。

この像は、明治3年(1870)に三代目慶寺円長によって制作されたもので、その後約1千体が製作された。

ただし、その1千体は戦時中にすべて供出されたため、ここの像が唯一残っている像とのことだった。

 

表参道から神社を出て、前の道路を右折(西)し、横断歩道を渡って目の前の坂道を南へ上っていった。

坂上の建物は清閑亭だ。

黒田長成侯爵の別邸だった建物で、明治39年(1906)に黒田家によって建造された。

建物は、平成17年(2005)に国の重要文化財に登録され、庭園のある敷地も翌年国の史跡に登録された。

 

門扉が閉ざされていたので、見学することなくスルーした。

この辺りは天神山と呼ばれている丘陵地で、その由来を記した石柱が最高点に建てられていた。

由来は単純で、山の中腹に鎮座する山角天神社によるものだった。

 

坂道南へ下りると、国道1号線旧東海道に出た。

そこを右折(西)し、歩道橋で国道を渡り、左(東)へ下りた。

目の前の角を右折すると、御厩小路だ。

かつて小田原藩の馬屋があったことに由来する通り名だ。

南へ延びるこの通りの先は小田原漁港に通じている。また、かつては熱海街道の起点にもなっていた。

 

500mほど歩くと西湘バイパスの高架が現れ、高架をくぐった先には早川に架かる早川橋が現れた。

早川は、芦ノ湖を水源にした流路約21kmの二級河川で、この先150mで相模湾に注ぎこんでいる。

 

橋の先に視線を戻すと、漁港の雰囲気が漂う海産物を扱う商店や食堂の建物が軒を並べていた。

店の誘惑に負けないように道なりにまっすぐ進み、港の突堤に出る…予定だった。

残念ながら周囲は漁具干場として整備され、金網越しにちょうちん灯台を眺めることになった。

小田原の白灯台。

小田原ちょうちんを模しているが、考えてみると、街中で提灯屋を見たことがない。街かど博物館のガイドマップにも提灯屋はない。

もっともこの時代に期待する方が無理なのかもしれない。

 

振り返るとそこは小田原魚市場だった。

漁港に面した市場で、水揚げが終わった港に向って釣り糸を垂れているカップルがいた。何が釣れるのだろう?

 

時間も押していたので、ここでの食事は諦めて先を急いだ。

先ほどの道を戻っていく。

御厩小路の途中で西海子(さいかち)小路に右折(東)した。

西海子小路の名は、かつてさいかちの木があったことに由来するとの説があるようだ。

江戸時代末期までは、小田原藩の中級家臣の武家屋敷18軒が道路の両側に並んでいたそうだ。

 

300mも歩かないうちに右手には小田原文学館が現れた。

ここの建物は、土佐出身の幕末の志士で、元宮内大臣でもあった田中光顕伯爵が昭和12年(1937)に別邸として建てたものだ。

 

明治以降、小田原には多くの政財界人や文学者たちが居住していた。

この施設では小田原ゆかりの文学者たち、北村透谷、尾崎一雄、福田正夫、川崎長太郎などの生涯や作品が展示されている。

建物の裏には北原白秋童謡館や尾崎一雄邸書斎も公開されていた。

 

西海子小路を東へ抜けると安斎小路にぶつかった。そこを左折して北へ向った。

通り名の由来は、小田原北条氏の侍医だった田村安斎宅があったことによるそうだ。

 

通りは北で国道1号線の「箱根口」に出た。そこを右折すると、左前方に天守のような建物が現れた。

外郎家の建物だ。もともとは薬の「ういろう」の歴史がよくわかる。菓子の外郎は、薬を飲んだ後の口直しのために考案されたものだ。

 

道路を渡るのは億劫なので今日は立ち寄らない。ういろうは駅や駅前でも買える。

国道沿いに進み、「御幸の浜」交差点で右折(南)し、70m先を左折(東)した。

小田原かまぼこ通りの始まりだ。

150mほど先で左折するが、その前に交差点の先に建つ「鱗吉」の店を覗いてみた。

かまぼこ屋は大体試食させてくれるが、ここはようやく開店準備をしているようにも見えた。

気が弱い自分としては、試食すると買わざるを得ない気持ちになりそうなので、後ろ髪を引かれる思いで店を後にした。

 

再び国道1号に戻って右折すると、「本町」信号前の小田原宿なりわい交流館が見えた。

昭和7年(1932)に建てられた旧網問屋を再整備した無料休憩所で、お茶を出そうとされたが、ここでは冷水を少しいただいただけで、後にした。

 

交流館の先を右折(南)して御幸の浜へ向かった。

西湘バイパスの下をくぐった先に浜が広がっている。

昭和42年(1967)に小田原漁港(早川港)が開かれるまではこの付近に江戸時代から続く「市場横町の魚市」があった。

小田原の海で取れた魚はここに揚げられ、蒲鉾や干物、かつお節などに加工されていた海のなりわいの中心地だった。

 

先ほどの道を戻っていく。

かまぼこ通りから続く道との交差点で右折して東へ向かう。

その交差点の角に新しくなった魚がし山車小屋が建っている。

小屋に保管されている山車は、関東大震災後、昭和3年(1928)に再建された屋台で、彫刻は高村光雲と高弟の森雲峰、屋台は鈴木忠太郎氏の手による。

山車小屋が板塀、ガラス張りになったおかげで、外からも見ることができるようになった。

 

かまぼこ通りをさらに進んで行く。

かつおぶし博物館(籠常)を過ぎ、ひもの工房を過ぎると、前方に通行止めの看板が見えた。ガス工事のようだ。

これ幸いとショートカットしようと思ったが、行動に移す前に、警備員に「通れますよ」と言われてしまった。

残念、と残り100mほどを歩き、突き当りを左折して、旧東海道を左折した。

こちらもかまぼこ通りの始まりだった。

300mほど進むと左手はかまぼこ伝統館の丸う田代総本店だった。

明治初期創業の老舗で、白いかまぼこの作り方を考案されたと聞いたことがある。

 

店内には家族連れの客も入っていた。そのどさくさに紛れて、ここではしっかり蒲鉾や黄身巻をいただいた。おいしゅうございました。

「青物町」交差点を右折して北へ向った。

青物町商店街を過ぎ、国道1号線を横断すると国際通りだ。

何で「国際通り」と呼ばれるのかはわからない。

 

「浜町1丁目」で左折し、150m先の突き当りを右折する。

道なりにまっすぐ進むと、小田原駅東口まで500mほどしかない。

一気にゴールしようとしたが、コースは、駅地下街のHaRuNeへ導かれた。

もうゴールと安堵したからか、つい揚げたての練り物セットを買ってしまった。今日の夕食になったことは言うまでもない。

 

ゴール時刻はちょうど12時。小田原城でゆっくりしすぎたな。

そうだ、昼食だ、と思い出したように向かった先は○舟だ。小田原に来るたびに寄っている。

今回はどこか違和感があったが、店構えが、これまでビルの2階3階に入っていたのが、1階の美容室までもが入○に変わっていた。

儲かっているんだな。

 

じゃあ今日も儲けさせてあげようと、生しらすと桜エビの丼を頼んだ。

頼むものはいつも同じメニューだ。サービスにコーヒーがついた。コーヒーってこんなに透き通るものなのか、と驚いた。後で須田場で口直ししよう。

 

たまに小田原を歩くのもいいな。まだまだ楽しめる場所が数多く存在している。次は4月以降になりそうだ。