李 炳銑「日本古代地名の研究(東洋書院)」を読んで(16) | 気まぐれな梟

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 今日は、パク・ウンビンの「無人島のディーバ」から  MeloMance (メロマンス) の「My Days」を聞いている。

 

 李 炳銑「日本古代地名の研究(東洋書院)」(以下「李論文」という)は、シキ(磯城)‘城',スキ(須祗)‘城',サキ(佐紀)‘城',サガ(嵯峨)‘城'と韓国語のtsa‘城'系語について、以下のようにいう。

 

(33)シキ(磯城)‘城',スキ(須祗)‘城',サキ(佐紀)‘城',サガ(嵯峨)‘城'と韓国語のtsa‘城'系語

 

(a)‘城'に由来するsi-ki地名


 日本では'城'をsi-kiともいう。「磯城」をsi-kiと訓むが,このように‘城'に由来するsi-ki地名を挙げてみよう。
 

  磯城郡(奈良県)
  志紀郡(大阪府八尾市付近)
  志木町(埼玉県北足立郡)
  信貴山(奈良県西北部)
  都久斯岐城(「書紀」雄略8年紀)
 

 奈良県磯城郡三輪山の麓にあった磯城は,初瀬川流域にあり,崇神・歛明両代の都邑地である。旧国名, siki sima(磯城島・敷島)はこの地に由来する。これは「書紀」歛明紀の「磯城島金刺宮」をいうのであるが,「磯城島・式島・志貴島・之奇志痲」(以上「万葉集」)「磯城島」(「書紀」)「師木島」(「古事記」)などと記されている。

 

 si-ki simaを二字化して「城島」とも表記されているが,こうした表記から, si-kiが‘城'であることがわかる。

 

 志紀郡は大阪府にあった郡名である。志木町は埼玉県北足立郡の町名であるが,これは奈良朝天平宝字2年(758)に新羅郡を置いた所である。

 

 信貴山(437m)の頂上には松永久秀の城址がある。

 

 ‘城’を意味するsi-kiは「書紀」雄略8年紀の「筑足流城く或本云都久斯岐城〉」の記事にもみられる。

 

 「書紀」中の「磯城」「志紀」(志紀上郡)を,金石文では「斯鬼宮」と表記している。

 

 「敷島」と「磯城島」は同じくsiki-simaの表記で,これは日本の国号の一つである。これは「万葉集」に「磯城島の大和国」という枕詞として使われている。「万葉集」には「磯城島・式島・志貴島・之奇知痲」と書かれているが,すべてsiki-simaと訓む。

 

 また,「書紀」の欽明紀には「磯城島金刺宮」,崇神紀には「磯城瑞籬宮」,皇極紀には「志紀」,「古事記」の歛明天皇段には「師木島大宮」,崇神天皇段には「師木水垣宮」などと書かれているが,「志紀」「師木」もsikiの表記である。

 

 「和名抄」には「城上〈之岐乃加美〉」(siki no kami)がみられる。この地名は奈良の三輪山麓にあった地名である。すなわち,これは初瀬川流域の局部地名であったが,今は大字慈恩寺の小字式嶋としてその名を残している。

 

 siki-sima(敷島・磯城島)の語源について考察すれば, sikiは'城'の意味である。それは「城上」(siki no kami)の表記からもわかる。

 

 siki-sima(敷島)のsima(島)は韓国語のsəm‘島'に比較されるが,日本語ではこの語が必ずしも海中の島だけをいうものではない。金沢庄三郎は,彼の「国語の研究」の中で,「周回に境界があって一区を成す城をいうもので,島と城は殆んど同じものである」としている。

 

(b)sasi‘城'のsi-ki・su-ki・sa-ki・sa-ga(<sa-ka)などの異形態su-ki地名

 

1)su-ki地名


 以上で考察したsi-ki‘城'の異形態にsu-kiがある。すなわち,「書紀」神功40年紀に「意流村〈今云州流須祗〉」がみられるが,この記述で「意流」と「州流」が対応し,「村」と「須祗」が対応している。これから,‘村'を「須祗」(su-ki)といったことがわかる。

 

 また,琉球の方言に‘城'を意味する「斯古」(siko)がある。

 

 「城」と「村」は,その規模の大小に関係があるが,「南史」(東夷伝新羅条)に「その俗に城を健牟羅」(其俗呼城日健牟羅)としている。この記録で「健」は*kin‘大'の表記であり,「牟羅」は'村'の表記である。この「牟羅」は韓国では既に死語となり,日本では'村'として残っている。この記録から「城」は'大村’を意味することがわかる。

 

 「書紀」のsu-ki(須祗)は対馬の佐護の湊西方の鋤崎(su-ki saki)と,同島の南端豆酘の北方の犁崎(su-ki saki)地名にもみられる。この二ヵ所は同じく城と関係のある所で,「鋤・犁」は'城'を意味するsu-kiの表記である。

 

2)su-ku地名

 

 このsu-kiのほかにsu-ku(宿)などもある。鹿児島県の揖宿(ibu su-ki),茨城県鹿島の徳宿(toku su-ku)の「宿」(su-ki, su-ku)はsi-kiと同源語の表記と思われる。

 

3)sa-ki地名


 奈良にある佐紀(sa-ki),佐紀上(sa-ki no kami)の「佐紀」(ここは古墳が多い所)はsi-ki‘城’の異形態と思われる。また,対馬下島の曲の高平山に,古社であるsira sa-ki神社がある。対馬の蘿知の白江,久田の白子(sira-ko)の地は新羅人の集団居住地であり,この地のsira sa-kiは’新羅城’と解釈される。

 

4)sa-ga地名


 このsa-ki‘城’の異形疱にsa-gaがみられる。 sa-gaはsa‘城’に‘場所'を意味する接尾辞のkaが添加されたsa-kaから変化したものであろう。佐嘉郡,佐加郷,佐護郷など,古代の郷名にもみられる。佐嘉(sa-ga),佐加(sa-ga),佐護(sa-go)などはsa-ki(城)と同源の地名とみられる。このsa-gaの地名は現代の地名にもみられる。
 

  嵯峨(京都市右京区)
  滋賀(滋賀県)
  佐賀(佐賀県佐賀市)
  佐賀(山口県熊毛郡平生町)
  佐賀(高知県幡多郡佐賀町)
  佐賀(茨城県新治郡霞ヶ浦)
  佐賀(対馬上県郡峰村)

 

 以上でsasi‘城'の語のsi-ki・su-ki・sa-ki・sa-ga(<sa-ka)などの異形態を調べてみた。

 

(34)批判と補足(その一)

 

(a)'城'=si-kiは論証されていない

 

 李論文は日本では'城'をsi-kiともいうと主張するが、李論文が例示している事例からはそうは言えず、李論文の主張は論証されていない決め付けであると考えられる。

 

 李論文は、si-ki simaを二字化して「城島」とも表記されているが,こうした表記から, si-kiが‘城'であることがわかると主張するが、李論文が例示している事例にsi-ki simaを二字化して「城島」とも表記されている事例はなく、si-ki simaを二字化して表記されているのは、「敷島」「式島」の二例のみである。

 

 また、李論文は、「城上」(siki no kami)の表記があるのは、'城'=si-kiだからであるというが、この「城上」の「城」は、sikiが磯城と表記されたときの磯城の「城」の字、つまり接尾辞の-kiに係るものであり、「磯城」という漢字表記が誕生して以降に、それを前提として付けられた地名であるので、si-kiの語源とは直接係わらないと考えられる。

 

 なお、李論文が例示している'都久斯岐城'は「日本書紀」雄略8年紀には以下のように書かれている。

 

 高麗王即発軍兵、屯聚筑足流城。(割注)或本伝都久斯岐城。

 

 これは朝鮮半島でのことをいうものであって、都久斯岐城は朝鮮半島の地名であり、本文の「足流(tal)」が割注の「斯岐(si-ki)」に対応するが、古代朝鮮語のtalは'城'だけではなく'村'の意味もあるので、この対応関係は、日本では'城'をsi-kiともいうという李論文の主張の根拠とはならないと考えられる。

 

(b)百済からの渡来人が、彼らの定住した地に付けた地名がsi-kiであった

 

 ‘磯城‘の語源については、以前ブログ記事「畑井弘「鍛冶王と天皇の伝承(現代思潮社)」を読んで(6)」で、畑井弘「鍛冶王と天皇の伝承(現代思潮社)」(以下「畑井論文」という)に依拠して、以下のように述べた。

 

 アルタイ語における「五」の原形は「トブ」であると推定され、モンゴル語の「五十」の「タビン」から、「五」が「五十」になると語尾に「イン」が付く。

 

 ここから、朝鮮語の「五十」は、「トビイン」→「ツウイン」→「ツイン」→「シン」という音転経過をたどったと考えられる。

 

 なお、万葉集などでは「五十」を「イ」の仮名として使用しているが、「五百」や「五」も「五十」と同じように「イ」のかなとして使用されている。

 

 日本書紀や古事記では「五十」を「イ」の仮名として人名に使用していて、「五百」や「五」は、「イ」の仮名としては使用されていない。

 

 ここから、「五十」を「イ」と読む人名は、七世紀後半から八世紀にかけてまとめられた万葉集よりも古い時代の表記方法であったと考えられる。 

 

 朝鮮語の「サジ」は、「東」「曙」「新」の意味であるが、「東」を「サジ」というのは、朝鮮語の「曙」が「サジ」で「夜が明ける(ナルイサジ)方角」の「東」も「サジ」といったからである。朝鮮語で「暁」を「サジパルク」という。

 

 これらから、東方の古代人たちは、自分たちを「サジ」または「パルク」と称し、「サジ」を漢字で「濊」「徐」「斯」と、「パルク」を漢字で「扶余」「貊」「発」「百」と表記した。

 

 朝鮮語の「サジ」の連体形は「サジン」「シン」であり、「シン」は、「粛慎(シュクシン)」の「慎(シン)」や「辰韓」の「辰(シン)」などに、「サジン」は「朝鮮(チョソン)」の「鮮(ソン)」などの国名に使用されている。

 

 ここから、朝鮮語の「辰(シン)」と「五十(スウイン)」は、古代日本では同じ言葉として使用されていたと考えられる。

 

 百済滅亡時の百済王子の扶余隆の墓誌には「百済辰朝人也」と記されており、百済は辰王や辰国の末裔を主張している。

 

 だから、朝鮮半島南部から渡来した人々は、同じように「辰国」の民であるという意識を持っていたと考えられる。

 

 朝鮮半島南部から渡来した人々は、各地に「サジ」に係る地名を付けたが、朝鮮語の「サジ」は「シン」となり、倭国では、漢字で、「五十」や「忍」、「登美」と表記された。

 

 大和国の磯城郡の「磯城」は、「五十城(イソキ)」を二文字に改めたもので、本来は、「辰(シン)城(ギ)」である。

 

 こうした畑井論文の指摘は、「磯城」の「磯」はsiとは読めないのに、なぜsiに「磯」の漢字を使用しているのかという疑問に対して、朝鮮半島南部からの移住民が定住した地にsaj-najという名を付けたが、そのsaj-najが音転してsi-nとなり、そのsi-nを同じ音の漢字の「五十」で表記していたものをi-soと訓読みに、さらにそのi-soを好佳字の「磯」と表記するようになったという回答を与えられるものである。

 

 そして、同じく畑井論文の指摘から、si-kiは、si-n-kiであり、その語形はsi-ra-gi(ki)と同じになるので、その-ki

が‘城’から‘地域’‘国’に意味変化したとすれば、si-nはsaj-najなので、朝鮮半島南部、具体的には百済からの渡来人が、彼らの定住した地に付けた地名がsi-kiであったと考えられる。

 

 李論文が例示しているように、si-kiの地名は大和と河内にあるが、百済からの渡来人に係る飛鳥の地名が大和と河内にあって、河内の地名が時代的に先行するので、si-kiの地名も河内の地名が古く、大和の地名は新しいと考えられる。

 

(c)si-ki,su-ki,su-ku,sa-ki,sa-ga(<sa-ka)は,sʌj(-nʌj)が音転したものに接尾辞が付加されたものであった

 

 李論文は、su-ku,sa-ki,sa-ga(<sa-ka)などの地名はsi-kiの異形態であるというが、su-ki,su-ku,sa-ki,sa-ga(<sa-ka)はsi-kiから派生したものではなく、それらに共通の原形であるsʌj-nʌj、あるいはsʌjが音転したsi,su,su,saに接尾辞-kiが付加されたものであったと考えられる。

 

 金 思燁の「古代朝鮮語と日本語(講談社)」(以下「金論文」という)によれば、古代朝鮮語で「東・曙・新」の意味のsʌj の音転形のsaj,sjə,siは古地名に使用され、その連体形のsʌin,sinは国名に使用されたといい、「東方・東土」の意味のsʌj-nʌjは、sa-la,si-la,sin-laと音転したという。

 

  金論文がいうsʌjやsʌj-nʌjには‘城’の意味はなく、si-kiが‘磯城‘と漢字表記され、そこに‘城‘の漢字が登場するのは、sʌjやsʌj-nʌjが音転したsiに付加された接尾辞の-kiの元の意味が‘城’であったからであるが、多くの場合では接尾辞の-kiは‘城’から‘地域’‘国’に意味変化したので、si-kiは‘城’を意味する言葉ではないと考えられる。

 

 su-ki,su-ku,sa-ki,sa-ga(<sa-ka)のsu,saはsʌjがsʌの音を残存させたままで音転したものであると考えられるが、接尾辞の-ku,-ga(-ka)が‘城’に起源する-kiが音転したものであるとは思えないので、‘ここ‘や‘どこ‘の-ko‘処‘という場所を示す接尾辞から音転したものであったと考えられる。

 

 李論文は、si-ki・su-ki・sa-ki・sa-ga(<sa-ka)などの語をsasi‘城'の語の異形態というが、以上から従えない。

 

 si-kiはsʌjの地やsʌj-nʌjの地という意味であって、これらの地名や国名は百済からの渡来人が、彼らの定住した地に付けた地名であったと考えられるので、su-ki,su-ku,sa-ki,sa-ga(<sa-ka)などの地名もsi-kiと同様に百済からの渡来人が、彼らの定住した地に付けた地名であったと考えられる。

 

 古墳時代中期以降、特に河内に巨大古墳や陶邑、大県遺跡などの手工業拠点、馬を飼育する牧などの整備は、秦氏や漢氏などの朝鮮半島南部からの渡来人如って担われ、その後、六世紀以降の部民制の発展と屯倉制度の整備の進展は、百済や大加羅、新羅などからの渡来人によって担われてきたが、それは、それらの渡来人が全国各地に、おそらく国家的な政策の一環として移住することでもあったと考えられる。

 

 李論文が例示したsi-kiと同じような地名は、こうした渡来人の全国各地への移住と定住によって付けられたものであったと考えられる。

 

 そして、地名si-kiの成立の後で、それを前提として、おそらく継体天皇の大和入り以降、欽明天皇が磯城に「磯城島金刺宮」を経営したことで、si-kiから発展した「磯城島」が「日本」を指す言葉となり、「しきしまの」が「大和」に係る枕詞となったのだと考えられる。

 

 なお、李論文が例示している「健牟羅」の「牟羅」は‘村‘ではなく‘山‘の意味であったと考えられるので、「健」が*kin‘大'の表記であったとすれば、「健牟羅」が意味するのは'大村’ではなく'大山’となる。

 

 また、李論文は、,琉球の方言に‘城'を意味する「斯古」(siko)があるといい、このsi-koとsi-kiが関係があるかのように言うが、以前ブログ記事「平子達也他「日本語・琉球諸語による歴史比較言語学(岩波書店)」を読んで」で検討したように、琉球人は中世前半の九州人が琉球列島に南下、流入し、在地の琉球人と混血することで成立したので、琉球語も中世前半の九州語の影響を強く残存させていると考えられる。

 

 琉球語で‘城'を‘グスク‘ということからすると、琉球の方言で‘城'を意味する「斯古」(siko)はおそらく琉球にとっては「外来語」であって、九州語の影響が中世前半以降も継続したとすれば、日本語のsi-roが琉球に流入・伝播することで「斯古」(siko)が成立したのだと考えられる。

 

 そうであれば、「斯古」(siko)とsi-kiは関係がないと考えられる。

 

 李論文は、「書紀」のsu-ki(須祗)は対馬の佐護の湊西方の鋤崎(su-ki saki)と,同島の南端豆酘の北方の犁崎(su-ki saki)地名にもみられる。この二ヵ所は同じく城と関係のある所で,「鋤・犁」は'城'を意味するsu-kiの表記であるというが、su-kiは単純な'村'というよりは、sʌj-nʌj-kiであり、かつこの-kiは'城'の意味では使用されていないので、鋤・犁」は'城'を意味するsu-kiの表記であるという主張には根拠がない。

 

 また、対馬のsira sa-kiのsa-kiは'岬'の'埼'であり、新羅に係るのはsiraのみであるので、sira sa-kiを’新羅城’と解釈するのは、根拠を欠いた強引な主張であると考えられる。