李 炳銑「日本古代地名の研究(東洋書院)」を読んで(1) | 気まぐれな梟

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 今日は、パク・ウンビンの「無人島のディーバ」からパク・ウンビンの「Someday」を聞いている。

 

 李 炳銑「日本古代地名の研究(東洋書院)」(以下「李論文」という)は、「日本書紀」に初代天皇の神武天皇が都したと書かれている橿原の地名について、以下のようにいう。

 

(1)橿原王都名の語源


 神武天皇が都したkasi-hara(橿原)の語源を調べることにする。筆者は,この地名の語源を韓国語に求めたい。すなわち, kasi(橿)は韓国語の‘王・大・首・長'を意味するkasiと比較される。これを韓国の古代地名でみることにしよう。

 

(a)韓国の古代地名


  イ)王岐県〈一云皆次丁〉(「史記」地理4,高句麗)
  口)王逢県〈一云皆伯云云〉(「同」地理4,高句麗)
  八)貴旦県本仇斯珍兮(「同」地理4,分嵯)
  二)介山郡本高句麗皆次山郡(「同」地理2,介山)
  ホ)王之宗族其大加皆称古雛加(「魏志」,高句麗)

 

(b)王=皆次=*kasi


 上の地名で,イ)王岐=皆次丁の等式関係から,「王」に対応する「皆次」は*kasi,または*katsiの表記と考えられる。「次」は韓国の現代音がtshaであるが,古代にはこのような有気の破擦音は無かったはずである。「岐」と「丁」は接尾辞として対応している。

 

  口)王逢=皆伯の関係から,「逢」と「伯」が対応し,「王」と「皆」が対応しているが,「皆」は「皆次」の略記(「皆伯」は「皆次伯」の二字化の表記)と考えられる。

 

(c)珍=突=旦=tura

 

 ハ)仇斯珍=貴旦の関係から,「仇斯」と「貴」が対応し,「珍」と「旦」が対応しているが,「珍」は*toro,または*turaの表記であると考えられる。すなわち,馬突〈一云馬珍〉(「史記」地理4,百済)において,「珍」と対応する「突」は現代音がtolであるが,古代の韓国語は開音節語で、*toroの表記に借用されたものとみられる。

 

 また,日本語では「珍」をmeturasiと訓むが,これはme十tura十siと分析される。すなわち,meは’目’であり,siは接尾辞で,meturasi‘珍’とぱ目ざましいほど稀にみられる宝'のようだ,という意味である。

 

 この「珍」の語幹turaは,上の地名で「珍」と対応する「突」(*toro)の語形とほぼ同樣である。そして,「珍」で表記された*toro/*turaは,「旦」で表記された*tara(くtana←tan)に対応する。

 

(d)仇斯珍=王(首長・渠帥)の居住した邑

 

 仇斯=貴の関係で,「仇斯」はkəsi(渠帥)‘首長',卞なわ’ち’王’を表記したものとみられる。この「仇斯」はkasi(皆次)の異形態のようである。韓国の古代地名の表記で,母音の表記は明確でない。「貴」は,「仇斯」で表記された王の身分が貴いことを表わす借義的表記である。

 

 「旦」は'市邑'を意味する*turaと同源語を表記したものとみられ,「仇斯珍」は'王(首長・渠帥)の居住した邑'と解釈される。

 

 上のイ),口)の表記において,「皆次」は'王'を意味するkasiの借音表記であり,「王」は「皆次」で表記した語(kasi)の意味を表わす漢訳表記である。

 

 ハ)の「貴」は「仇斯」の字で表記した語の意味を表わす表意的表記であり,「珍」はtura‘珍'の語形を借りで市邑'を表記した借訓表記である。このように,古代韓国の地名では,同じ語も音と訓と義を借りて,あるいは漢訳して,色々表記している。

 

 二)皆次山=介山の関係から,「皆次山」は'長山'を意味し,「介山」は「皆次山」の二字化の表記である。

 

(e)kasi/kasi=王・大/首・長

 

 ホ)大加=古雛加の関係から,「大」に対応する「古雛」は*kasi‘首長’の異形態の表記である。「雛」は現代音がtshuであるが,古代にはそのような有気音は無かったはずである。したがって,「古雛」には'大'の意味がある。これによって, kasi/kasiには'王・大'の意味があるとみられる。また,‘首・長'の意味もある。

 

 古代韓国語のkasi-ra‘首'と日本語のkasi-ra‘首'(-raは接尾辞)は一致するのであるが,上の地名でみたkasi/kasiはこれと同源語である。

 

(f)kəsi/*kəsu=「渠帥」「長帥」

 

 「仇斯」で述べたように,「魏志東夷伝」「後漢書」にみられる,各邑を統治した「渠帥」「長帥」もこれと同源語で,これはkəsi,または*kəsuの表記ともみられる。「渠帥」の表記で,「帥」は「渠帥」の意味を表わわす表意的表記であり,「長帥」は「渠帥」と同じ語形の表記で,「長」はその意味を表している。


  弁辰亦十二国又有諸小別邑各有渠帥(「魏志」弁辰)
  諸行,別邑各有渠帥(「後漢書」,辰韓)

  柬沃沮云々無大君王世世邑落各有渠帥(「魏志」,東沃沮)
  東沃沮云々宜五穀善田種有邑落長帥人(「後漢書」,柬沃沮)
  封其渠帥為侯(「魏志」,穢)
  将兵出塞撃之捕斬潼貊渠帥(「後漢書」,高句麗)
  封其渠帥為沃沮侯(「同」,東沃沮)
  王險城未下故右渠之大臣云々(「漢書」,朝鮮伝)
  王之宗族其大加皆称古雛加(「魏志」,高句麗)


 この渠帥は高句麗・穢貊・東沃沮・弁辰・辰韓など,韓牟島の全域にみられる。上の記録において,「右渠」とは衛満の孫である「右渠王」をいうのであるが,「右渠」はu-kəsu,すなわぢ上渠帥'(渠帥の上位者)の略記で,「右」は韓国語の‘上'(ui‘上'の方言)を表記したものである。

 

(g)橿原='王城¨王邑',王都


 以上のように, kasi-hara(橿原)のkasi(橿)は,韓国の古代地名において,王'を意味する「皆次」「仇斯」と比較され,各邑の‘首長(王)'を意味する「渠帥」とも比較される。

 

 そして, hara(原)は'城邑',または'村邑'を意味する韓国の*paraあるいは*pərə(>pəl)と同じものである。ゆえに,橿原は'王城¨王邑',または'王都’に由来する。

 

 「古事記」にみられる白梼尾(kasi-o))は白梼原(kasi-hara)の略された語形を表記したものである。これは今の橿生(kasi-hu)に此定される。ここにみられるkasi-o(白梼尾)・kasi-huC蓬生)のo (尾)・hu(生)はpara‘城邑’の異形態である*puruのruが脱藹したものである(puru>pu>hii>u>o)。


(2)橿原と同源の地名
 

(a)古代韓国地名

 

 次に,橿原:と同じ造語形式で,同じ語源の釶名を,まず古代韓国地名にさがしてみる。


  イ)迦葉原(「史記」地理4,未詳地分)
  口)嘉寿県本加主火県(「同」地理1,康州)
  ハ)古阜郡本百済古沙夫里(「同」地理1,古阜)
  二)古沙城(「周書」,百済)


 上のイ)「迦葉原」の現代音はkasəp-wənであるが,古代においては,「葉」(苗字の場合の音はsap)の唇内入声韻尾のi)はこの語形の表記の参与しないもので,「迦葉原」は* kasə-bara/* kasə-bərəの表記であったと思われる。

 

 「原」は借訓によって'城',または'村邑’を表記したものである。「原」の現代訓は嗷pəl(<*para)であるが,古代においては,その陽性母音形の*paraもあったと思われる。

 

 迦葉原は東扶余の王都,江陵の古号である。「三国史記」地理志には,ここを「何瑟羅一云河西良」とあるが,これは*kasə-ra(く*kasa-na),すなわちkasə‘王’十na‘壌'の造語形式である。

 

 口)「加主火」は借音と借訓によるkasu-bərəの表記と考えられる。加主の「主」は「加主」で表記された語形の意味を表している。これは表意的表記である。

 

 ハ)「古沙夫里」と二)「古沙城」は'王邑',または'王城'を表記したもので,「古沙」は'王'を意味し,「城」は「夫里」‘城邑'を獏訳したものである。

 

(b)日本の地名


 日本においても,このような地名は橿原以外の地にもみられる。


  蘿知原(ketsi-baru) (対馬)
  樫原(kasi-wara)(奈良県吉野郡)
  柏原(kasi-wara)(大阪府)            。
  笠原(kasa-hara)(武蔵国埼玉)


 上記の地名で,「原」はbaru/wara/haraの表記に借用されている。語頭のw-, h-は両唇音のb-(くp-)から変化したもので,「橿原」をkasi-hara,kasi-waraとも訓む。難知原は現在「原」を省略して羃知と呼んでいる。また,その近くに難知原の地名も残っている。

 

  吉野川流域では,縄文時代の遺跡と横穴式石室墳が発見された。柏原(kasi-wara)は大阪のほかに,京都,滋賀,長野,埼玉,熊野などの各地でもみられる。笠原(kasa-hara)も埼玉のほかに,信濃国高井郡,岐阜県の東南部にもある。


 以上の考察ように,‘王一大・首・長'を意味する*kasiは'城邑'を意味する*paraと合成して’王邑’王城'‘王都’という複合名詞を作った。

 

(c)kasi(橿)とkusi(槵)は元来,‘首'を意味する身体の部位名であった

 

 これに比して,kusi-huru(槍,触)は,このkasiの異形態であるkusiが‘峰'を意味する*buru(>huru)と合成して,‘首峰’を意味するkusi-huruという複合名詞を作ったのである。

 

 すなわち,kasi(橿)とkusi(槵)は元来,‘首'を意味する身体の部位名であったが,それと合成された名詞(被修飾成分)によって,全然違う意味の名詞が作られたわけである。すなわち,橿原は人文的事象として,‘首邑’‘王城'を意味する王都名を作ったのに対して,櫨触は'首峰'という自然地形の形状名を作ったのである。

 

(d)祖語形(前次形)と異形態


 上で考察したkasi(橿),kasi(皆次), kusi(仇撕),またはkasi/kasu(渠帥)などは同源の語であって,これらは本来,同じ形態素から変化したものである。日本のparu(>baru.) (原), wara(原), hara(原),韓国のpol(原)なども同源の語で,各々その祖語形(前次形)*paraから変化した異形態である。

 

 古代地名語では,時代(時間)の推移と地方的(空間的)差によって(また,韓国と日本の差によって),母音と子音の変化による色々な異形態が生じた。このような異形態は本来,同じ形態から変化したのであろうが,その変化の前後がわかるものもあり,未詳なものもある。この論著においては,このような時間的・空間的考えの介在なしに,汎時的観点からこれを同じ形態素に対する異形態として説明する。

 

(3)批判と補足

 

 李論文は、神武天皇は実在し、新羅系の渡来人であったという。神武天皇が都した橿原の地名が、韓国語で王邑、王城、王都と意味であったこともその論拠とされる。

 

 李論文が指摘するように、神武天皇が都した橿原の地名が、韓国語で王邑、王城、王都と意味であったということは事実であると考えられる。

 

 しかし、神武天皇や神武東征の建国神話は、高寛敏の「倭国王統譜の研究(雄山閣)」などの指摘によれば、七世紀に当時の大和朝廷の史官たちによって創作されたものであったと考えられる。

 

 そして、神武天皇が都した地に、韓国語で王邑、王城、王都と意味であった橿原の地名が付けられたのは、その建国神話を創作し記述した大和朝廷の史官たちが、朝鮮半島からの渡来人であったからであったと考えられる。

 

 古代の奈良盆地には橿原の地名が存在せず、「日本書紀」に書かれた建国神話の中にのみ存在したのは、橿原の地名が、当時の大和朝廷の史官たちによって、机上で創作されたものであったからであったと考えられる。

 

 なお、「日本書紀」「古事記」に出てくる弟猾・兄猾(日本書紀)弟宇迦斯・兄宇迦斯(古事記)の「猾」「宇迦斯」は「うかし」と読まれているが、李論文によれば、衛氏朝鮮の衛満の孫である「右渠王」の「右渠」はu-kəsu,すなわち'上渠帥'(渠帥の上位者)の略記であったというので、このu-kəsuは、「猾」「宇迦斯」の「うかし」と同じ言葉になる。

 

 おそらく、この「うかし」は、神武東征伝承を創作した際に、有力な「渠帥」という意味で、創作された人名であったと考えられる。

 

 李論文が指摘するように、「渠帥」は、高句麗・穢貊・東沃沮・弁辰・辰韓など,韓牟島の全域にみられる、有力な大集落、邑落の首長の意味であったと考えられる。

 

 李論文は、kasi-haraの地名に起源すると考えられる、蘿知原(ketsi-baru) (対馬)に地名は、古代韓国人が対馬に「分国」を形成していたことで名つけられたものだという。

 

 しかし、朝鮮半島南部からの渡来人たちが、首長に率いられて定住した地に、彼らの首長のいる地という意味で、kasi-haraの地名を付けたことで、蘿知原(ketsi-baru) (対馬)、樫原(kasi-wara)(奈良県吉野郡)、柏原(kasi-wara)(大阪府)、笠原(kasa-hara)(武蔵国埼玉)などの地名が誕生したと考えられる。

 

 そして、そうであれば、笠原の「笠」は当て字であって、「笠」の意味とは関係がないと考えられる。

 

 また、李論文による、古代朝鮮語のkasi「首」と日本語のkasi-ra「首」との共通性の指摘、古代朝鮮語のtura=珍なので、日本語の「珍」の意味のmeturasiは、me(目)十tura(珍)十siで,,siは接尾辞で,meturasi‘珍’とは'目ざましいほど稀にみられる宝'のようだ,であるという指摘は、それぞれ興味深い。

 

 ただし、李論文は、古代朝鮮語のkasi「首」と日本語のkasi-ra「首」との共通性を指摘するだけであって、おそらく、暗黙の裡に、古代朝鮮語のkasi「首」に接尾辞-raが付加されて日本語のkasi-ra「首」ができた、つまり、古代朝鮮語のkasi「首」が基本形で、そこからの派生形が日本語のkasi-ra「首」である、もっといえば、古代日本語の主要な言葉は古代朝鮮語から形成されたという主張、つきつめればいわゆる「分国論」を前提としていると考えられる。

 

 しかし、近藤健二の「言語類型の起源と系譜(松柏社)」所収のシュメール語と古代中国語と古代朝鮮語と古代日本語との比較表を参考にすれば、日本語のkasi-ra「首」のkaはシュメール語で頭のこと、-siはシュメール語で人のこと、-raはシュメール語で場所のことであり、人類祖語をシュメール語の古い形の言葉で、長い語形を持っていたものだったと仮定すれば、おそらく、日本語のkasi-ra「首」が人類祖語の語形が良く残存している語形であって、-raが省略・脱落した語形が、古代朝鮮語のkasi「首」であったと考えられる。

 

 このように、李論文は、人類祖語からの分岐した言語の語形の比較から、人類祖語の語形を復元できるという視点を欠落させているので、分岐によって形成された結果としての変化した語形から議論を出発させてるので、分岐された言語相互の語形の関係を明確に定義できず、その議論は中途半端なままに終わっている。

 

 なお、「人類祖語」については、以前ブログ記事「「人類祖語」の再構成の試みについて」で述べているので、参照してほしい。