侯家荘西北岡大型墓の造営順序と被葬者について(2) | 気まぐれな梟

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 今日は、

 

 飯島武次の「中国殷王朝考古学研究(同成社)」(以下「飯島論文」という)での侯家荘大墓の築造順とそれらの被葬者について論述は以下のとおりである。なお、今回は飯島論文の論述の紹介のみで終わるが、以降、まず築造順について論じ、次に、殷中期以降の殷王世系の推定を行い、それらを踏まえて、次に、築造の考え方を明らかにし、最後に、被葬者の推定を行っていきたい。

 

(2)飯島論文の論述 

 

(a)俟家荘西北岡大型墓の分布、切り合い関係、近年の研究

 

1)西区と東区、大型墓と中字型墓甲字型墓


 大型墓の平面形は、M100卜M1002 ・M1003 ・M1004 ・M1217 ・M1400 ・M1500 ・M1550号墓の8基が亜字型墓で、M1129 ・ M1443 ・ 50WKGM1 (武官大墓)号墓の3基が中字型墓で、84AWBM260(伝司母戊方鼎出土墓) ・ 78AHBM1号墓の2基が甲字型墓である。ほかに未完成墓の1567号方形壙の1基も存在する。その数は方形壙も含めて総数14基となる。これら14基の大型墓は、M1001 ・M1002 ・ M1003 ・ M1004 ・M1217 ・M1500 ・M1550 ・ 78HBAM1 号墓、1567号方形壙が西区を形成し、M1129 ・ M1400 ・ M1443 ・50WKGM1 (武官大墓)・84AWBM260 (伝司母戊方鼎出土墓)号墓が東区を形成している。

 

2)墓道の切り合い


 侯家荘西北岡の14基の大型墓は、密接して分布し、墓道の切り合いが認められる。大型墓の切り合いに関しては、1957年に李済が「股墟白陶発展之程序」で図を示し説明している。1959年の「笄形八類及其文飾之演変」では表一二の中でM1001号墓→M1550号墓→M1004号墓→M1002号墓→M1003号墓→M1500号墓→M1217の造営順序を示していが李済は、1962年の「侯家荘(河南安陽侯家荘股代墓地)・第二本・1001号大墓」で「挿図一 1001墓与其大墓之関係図」を再び示し、1964年に「股墟出土青銅觚器形之研究」で侯家荘西北岡西区の大型墓の切り合い関係と東区の大型墓の切り合い関係の図を示している。

 

 これらの報告書によるとM1217号墓の北墓道先端がM1500号墓の南墓道先端を切り、M1002号墓の北墓道先端がM1004号墓の南墓道先端を切り、また、1004号墓の南墓道がM1001号墓の西墓道を切り、同じく1004号墓の東墓道が1001号墓の北墓道を切り、M1550号墓西墓道がM1001号墓の南墓道を切り、M1400号墓の西墓道がM1443号墓の南墓道を切っているという。さらにM1500号墓の殉葬墓である1421号墓がM1003号墓の西墓道を切っている(また、1978年に中国社会科学院考古研究所安陽工作隊によってM1217号墓の東墓道が78AHBM1号墓の南墓道を切っていることが報告されている。
 
(b)侯家荘西北岡大型墓造営順序の検討


 発掘報告等に示された墓道等の切り合い関係からのM1001→M1004→M1002号墓、M1001→M1550号墓、M1500→M1217号墓、M1443→M1400号墓、M1003→M1500号墓、78AHBM1→M1217号墓の新旧関係と、出土した青銅器および土器等の年代から、大型墓の造営順序を考えた。

 

1)殷後期文化第1期に属する墓

   

 青銅器編年の年代観から、殷後期文化第1期に属する墓はM1001号墓と50WGKM1号墓(武官大墓)と考えた。M1001号墓は、南北総長69.1 mの亜字型墓である。

 

イ)M1001号墓


 M1001号墓は、墓道の切り合いから1004 ・ M1002 ・ M1550号墓より古い墓である。殉葬坑から出土した青銅器の一部である円鼎、甎 、卵形爵 、觚、戈 を第196図に示した。これらの青銅器は殷後期文化第1期後半の標準となるものである。ほかに根津美術館収蔵の3点の饕餮紋方盃もM1001号墓出土と伝えられ、李学勤は饕餮紋方盃の複雑な「複層花紋」は殷墟M5号墓(婦好墓)出土の青銅器紋様に通じると言う。 M1001号墓からは白陶破片が出土している。白陶豆は、口縁から底部の輻10 cm ほどの破片である。器身の皿は浅く、口唇部は平らで、器身外側にW字紋とW字紋内に雷紋が施されている。この白陶豆破片は、小屯丙区の殷後期文化第1期初頭のYM388号墓出土の白陶豆)に繋がる殷後期文化第1期後半の特色を示す遺物である。以上の出土遺物の状況からM1001号墓は、殷後期文化第1期後半造営の墓で、侯家荘西北岡の亜字型墓の中では最も古い墓と推定した。

 

ロ)50WKGM1号墓(武官大墓)


 50WKGM1号墓(武官大墓)は、総長29.55 mの中字型墓である。この墓の殉葬坑に副葬されていた鼎・鬲鼎・鏃・觚・爵・山・戈等の青銅器がM1001号墓や殷墟M5号葬坑に副葬されていた鼎・鬲鼎・鏃・觚・爵・山・戈等の青銅器がM1001号墓や殷墟M5号墓(婦好墓)の遺物に近いとの年代観から、M1001号墓と同時代あるいはやや遅い時代の墓と考えた。

 

2)殷後期文化第2期に属する墓


 殷後期文化第2期に属する墓は、M1400 ・ M1550号墓と推定する。 M1400号墓は、南北総長63.4 mの亜字型墓で、切り合い関係からM1443号墓より新しい墓である。 M1400号墓出土の有肩円尊 、背、爵、觚、盂 等の青銅器を第198図に示した。これらの青銅器は、第130図に示した筆者が殷後期文化第2期とする物に準じていた。

 

イ)M1550号墓


 M1550号墓は、南北総長47.55 mの亜字型墓である。 M1550号墓は、切り合い関係からM1001号墓よりは新しい墓である。 M1550号墓の殉葬坑内からも、M1400号墓の遺物に近い円鼎、爵、觚、戈等、筆者の殷後期文化第2期に属する青銅器が出土し、その例を第199図に示した。

 

ロ)M1400号墓


 M1400号墓の盂の器形が、殷墟M5号墓(婦好墓)の盂や中国社会科学院考古研究所の「殷墟第二期」とされる花園荘東地のM54号墓の盂の系列に近いと見なし、青銅期器形編年の上からM1400号墓が殷後期文化第2期の早い時期で、M1550号墓が殷後期文化第2期の遅い時期と造営順序を考えた。

 

3)殷後期文化第3期に属する墓


 侯家荘西北岡大型墓群の中で殷後期文化第3期に属する墓は、M1004 ・ M1002 ・ M1003 ・84AWBM260 (伝司母戊方鼎出土墓)号墓・M1500号墓と推定した。

 

イ)M1004号墓

 

  M1004号墓は南北総長6ふ4mの亜字型墓で、切り合い関係から、M1001号墓より新しく、M1002号墓より古い墓である。 M1004号墓からは、牛方鼎と鹿方鼎が出土している。牛方鼎と鹿方鼎は、司母戊方鼎と共に殷後期文化第3期の青銅方鼎の基準となる遺物である。M1004号墓からは、72点の実の出土が報告され蛩内実は70点、曲内岐冠実は2点てある。

 

ロ)M1002号墓


 M1002号墓は、南北総長52.45 mの亜字型墓である。 M1002号墓は切り合い関係からM1001号墓・M1004号墓より新しい墓である。 M1002号墓の盗掘坑等から若干の土器が出土している。これらの土器は、本来殉葬坑に副葬されていた遺物が盗掘の攪乱により移動し、盗掘坑埋土中に残存した可能性が高い。豆は、器壁が直立し、器身と圈足に弦紋が施されている。この陶豆に近い遺物としては、殷墟遺跡の賓格金地M10号墓出土の陶豆や物華公寓M60号墓出土の陶豆が知られる。陶豆は同じく器身と圈足に弦紋が見られ、賓格金地M13号墓出土の陶豆が類似した器形である。これら賓格金地M10号墓出土の陶豆、物華公寓M60号墓出土の陶豆、寮格金地M13号墓出土の陶豆は、中国社会科学院考古研究所の「殷墟第三期」つまり殷後期文化第3期に属する。

 

ハ)M1003号墓


 M1003号墓は、南北総長58.4 mの亜字型墓である。M1003号墓は、切り合い関係からM1500号墓よりは古い墓である。報告書では、7点の青銅戈が報告され、2点が直内戈、4点が直内胡戈、1点が蛩内胡戈である。直内戈、直内胡戈 を図に示した。直内胡戈の出現は殷後期文化第2期と言われているが、直内胡戈や蛩内胡戈の盛行は股後期文化第3期後半以降で、これらの胡戈は殷後期文化第3期後半の標準となる遺物である。

 

二)M1002号墓とM1003号墓の新旧関係


 M1002号墓で青銅器の発見がなく、殷後期文化第3期に属するM1002号墓とM1003号墓の新旧関係の判断は困難である。殷後期文化第3期の前半に直内胡戈や蛩内胡戈が少なく、侯家荘西北岡大型墓群においては、M1003号以降に直内胡戈や蛩内胡戈が盛行することを理由に、M1003号墓をより新しい属性を持った墓と考え、M1003号墓をM1002号墓より新しい遺構と推定した。ちなみに殷後期文化第4期の殷墟西区M1713号墓からは、戈が30点出土しすべて直内胡戈であった。

 

ホ)84AWBM260号墓(伝司母戊方鼎出土墓)

 

 84AWBM260号墓(伝司母戊方鼎出土墓)は、南北総長33.6 mの甲字型墓である。出土した曲内岐冠戈破片がM1004号墓的曲内岐冠戈に近いこと、司母戊方鼎が出土していることから、84AWBM260号墓を殷後期文化第3期の墓と考えた。司母戊方鼎は、「第7章、第6節殷後期文化の青銅器」で述べたように、殷後期文化第1期の陶笵に見られない大方鼎であること、萋龍紋が長いこと、銘文が重々しいことなどから、殷後期文化第3期の遺物と考えている。

 

へ)M1500号墓


 M1500号墓は、南北墓道を含む総長89.6 mの大亜字型墓で、先記したようにM1500号墓の殉葬墓(1421号墓)がM1003号墓の西墓道を切り、M1003号墓より新しい墓である。 M1500号墓からは、大理石臥牛形石彫など興味深い石彫の出土があったが、盗掘のため青銅器と土器の出土はほとんどなかった。

 

ト) 78AHBM1号墓

 

 亜字型墓以外では、78AHBM1 ・ M1443 ・ M1129号墓を股中期文化第3期に推定した。 78AHBM1号墓は、残存する南北総長約14.6 mほどの甲字型墓で、饕餮紋や雷紋等が施された石製品破片・白陶破片・象牙破片が出土している。第202図に示した巨眼と饕餮紋は、内田純子(難波純子)氏が中商文化2・3期とする殷墟出土の饕餮紋に類似している)。雷紋の類も殷中期文化第3期後半と考えて差し支えない。 78AHBM1号墓は、侯家荘西北岡大型墓群の中で最も古い遺物を出土している。 

 

 78AHBM1号墓は、侯家荘西北岡の大型墓としては規模が小さく見えるが、殷中期文化の墓としては必ずしも小さな墓ではない。鄭州市白家荘の殷前期文化第3期に属する白家荘M3号墓は、9点の青銅器を出土し、墓囗の長さ2.9 m、幅1.17 m、深さ2.13 mほどの竪穴墓であったが墓道はなかった。また盤龍城李家嘴遺跡の殷前期文化第3期に属するPLZM2号墓(李家嘴M2号墓)は、墓囗の長さ3.67 m、幅3.24 m、深さ1.41mほどの竪穴墓で、副葬品として63点の青銅器が出土しているが、墓道はなかった78AHBM1号墓を自家荘M3号墓や李家嘴M2号墓と比較すると、墓室の規模が長さ7.7 m、幅5.2 m、深さ6.9 mと格段に大きいことがわかる。78AHBM1号墓は、墓道を持つ殷中期文化の墓として最古・最大の遺構である。

 

チ)M1443号墓


 M1443号墓は、南北墓道を含む総長41.15 mの中字型墓である。出土した石玉戈等から78AHBM1号墓に続く時代が想定される。M1443号墓出土の玉石火は、小屯YM388号墓出土の石火よりも原始的で、湖北省盤龍城遺跡の楊家湾M11号墓の玉文に近い。M1443号墓で出土した石玉戈は、楊家湾M11号墓の玉戈と小屯YM388号墓の石戈の中間的な遺物と思われる。石玉戈の年代の他、王墓の形が甲字型墓から中字型墓へ変化すると見て、78AHBM1号墓を古く、M1443号墓を新しく考えた。

 

リ)M1129号墓

 

 M1129号墓は、中字型墓と報告され、全長約28mが想定されるが、出土遺物がなく属する時代の決定は困難である。侯家荘西北岡の1567号方形壙を除く13基の大型墓の中で時期が全く不明なのがM1129号墓で、後述するが、あてはめるべき墓主名から洩れるのが小乙なのでこの両者を結びつけ、M1129号墓を殷中期文化第3期の最末期の小乙の墓と推定した。

 

4)殷後期文化第4期の墓

 

イ)M1217号墓

 

 M1217号墓は、南北総長120.19 mの亜字型墓である。主体部が盗掘を受け、青銅礼器等の遺物は出土していない。しかし攪乱坑・土層からは、比較的遅い時期のW字紋とその中に雷紋が施された白陶破片が出土している。M1217号墓は、切り合い関係から殷後期文化第3期のM1003 ・ 1500 号墓より新しく、侯家荘西北岡の大型墓の中で最も新しい可能性が高い。

 

 殷後期文化第4期時期の殷王は帝乙と帝辛であるが、帝辛の墓は造営が終了しなかったと推定すると、殷後期文化第4期に属するのは、帝乙の墓、1基のみとなってくる。このように推定するとM1500号墓は殷後期文化第3期の最後の墓になり、最も新しいM1217号墓の被葬者が帝乙となり、殷後期文化第4期の墓となってくる。
 

5)侯家荘西北岡大型墓の造営順序

 

 以上の検討から、侯家荘西北岡大型墓の造営順序は、78AHBM1→M1443→M1129→M1001・ 50WKGM1 →M1400→M1550→M1004→M1002→M1003・84AWBM260→M1500→M1217号墓となる。

 

(c)侯家荘西北岡大型墓の被葬者

 

 これらの被葬者を考えるにあたっては、殷王室世系に関する甲骨文研究を避けることはできないが、ここではその問題に直接触れずに、中国で広く採用されている「第1表 殷王室世系表(「史記」・董作賓による)」に従った場合と、最も確実性が高いと考える「第2表 殷王室世系表(島邦男による)」に従った場合を示す。

 

 殷中期文化第3期に至って初めて墓道のある甲字型墓が出現し、続いて中字型墓が造営されるようになり、殷後期文化に入ると亜字型墓が出現すると考えている。墓が造営されなかった最後の帝辛を除いて、盤庚以降、帝乙までの11王の内、武丁から帝乙に至る8人の殷王を亜字型墓の被葬者として推定した。


 侯家荘西北岡大型墓の中で最も古い墓は甲字型墓の78AHBM1号墓で、この墓の被葬者を盤庚と考えた。

 

 78AHBM1号墓に続く殷中期文化第3期後半の中字型墓であるM1443号墓の被葬者を小辛と考え、M1129号墓の被葬者を小乙に推定した。董作賓と島邦男のいずれの殷王室世系に従っても78AHBM1 ・M1443 ・M1129 号墓それぞれに推定される被葬者は同じである。

 

1)「第1表 殷王室世系表(「史記」・董作賓による)」


 「第8表」は、「史記」および董作賓の殷王室世系(第1表)を基本に各大型墓の武丁以降の墓主を推定した考えである。

 

 殷後期文化第1期に属する最初の亜字型墓はM1001号墓で、墓主は武丁と推定される。中字型墓の50WKGM1 (武官大墓)の墓主は武丁の長男・祖己。

 

 殷後期文化第2期に属する亜字型墓は、M1400 ・ M1550 号墓で、いずれかの墓の墓主として柤庚と柤甲が推定される。中字型墓の50WKGM1 (武官大墓)の墓主は武丁の長男・祖己。

 

 殷後期文化第3期に属する亜字型墓は、M1004 ・M1002 ・ M1003 ・ M1500 号墓で、順次それぞの墓の墓主として廩辛・庚丁・武乙・太丁の4人が推定される。84AWBM260号墓(伝司母戊方鼎出土墓)の墓主は武乙の配偶者と推定する。

 

 殷後期文化第4期に属する亜字型墓は、M1217号墓で墓主は帝乙と推定される。 1567方形壙の墓主はいない。


2)「第2表 殷王室世系表(島邦男による)」 


 「第9表」は、島邦男氏の殷王室世系(第2表)を基本に各大型墓の武丁以降の墓主を推定した考えである。

 

 亜字型墓として最も古いM1001号墓の被葬者を武丁と推定した。50WKGM1は中字型墓なので殷王墓ではない。

 

 島邦男氏に従い祖己が武丁の長男として殷王に即位したと考え、殷後期文化第2期に属するM1400号墓の被葬者を殷王祖己と推定する。つづいて墓の時代順と殷王室世系の順に従い、M1550号墓の被葬者を祖庚と推定する。

 

 殷後期文化第3期に属するM1004号墓の被葬者を祖甲と推定する。島邦男氏に従い廩辛は甲骨文に殷王として存在しないので、当然王陵はない。殷後期文化第3期のM1002 ・ M1003 ・ M1500号墓の被葬者を順次、康丁・武乙・文武丁と推定する。84AWBM260は甲字型墓なので殷王墓ではない。祖甲を殷後期文化第3期のM1004号墓の被葬者とするために、祖甲の時期を董作賓の甲骨文断代より1時期下げて殷後期文化第3期の最初の殷王とせざるをえない。中字型墓の50WKGM1 (武官大墓)の被葬者は武丁の配偶者、84AWBM260号墓(伝司母戊方鼎出土墓)の被葬者は武乙の配偶者・戊母と推定する。


 帝乙に関してはその存在を否定する説もあるが、周原鳳雛甲組建築址出土のH11 : 1 甲骨に「……彝文武帝乙」とあることから帝乙の実在を考え、殷後期文化第4期に属するM1217号墓の被葬者は帝乙と推定する。M1567号方形壙の被葬者となるべき人物は帝辛であったと推定する。

 

3)1)と2)の比較


 筆者は、「第9表 俟家荘西北岡大型墓造営順と推定墓主 第2表の島邦男氏の股王室世系による」がより実態を示していると考えている。

 

 14期の大型墓の内、11基が殷王の墓、2基が殷王の配偶者の墓、1基が未完成墓となる。配偶者の墓が圧倒的に少ないが、后岡では中字型墓5基と甲字型墓1基が発見され、殷王配偶者墓である可能性もある。また花園荘M54号墓、大司空村M539号墓などの多くの青銅器が副葬された長方形竪穴墓も殷王配偶者墓の候補になってくる。

 

4)参考論考

 

イ)朱鳳瀚の「股墟西北岡大墓年代序列再探討」

 

 朱鳳瀚氏の論文は、侯家荘西北岡大型墓の切り合い関係と、出土遺物に対する年代観から78AHBM1→M1443→M1001→M1550→M1400→M1004→M1002→M1003→M1500→M1217号墓の年代序列を示し、78AHBM1 ・ M1443 号墓を盤庚・小辛・小乙時期、M1001号墓を武丁時期、M1550 ・ M1400 号墓を祖庚・祖甲時期、M1004 ・ M1002 ・ M1003 ・ M1500 号墓を廩辛・康丁・武乙・太丁時期、M1217号墓を帝乙・帝辛時期との見解を示した。

 

ロ)英文による溝口孝司氏・内田純子氏による“The Anyang XibeigangShang royal tombs revisited: a social archaeological approach”

 

 溝口孝司氏・内田純子氏の論文は、俟家荘西北岡大型墓の切り合い関係と、出土した骨柄の編年、甲骨文によって修正した殷王室世系によって、M1443→50WGKM1 (武官大墓)→M1001→M1550→M1400→M1004→M1003→M1002→M1500→M1217→M1567号墓の序列を示した。