古代ローマの建国過程について(12) | 気まぐれな梟

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 今日は、井上陽水のアルバム「断絶」から「白い船」を聞いている。

 

 (9)古代ローマ王政期のエトルリア人の王の人数と在位期間

 

(a)古代王政期のエトルイリア人の王の人数は7人

 

 フィリップ・マティザックの「古代ローマ歴代誌―7人の王と共和政期の指導者たち(創元社)」(以下「マティザック論文」という)によれば、古代ローマの王政期の後半のエトルリア人の3王の在位期間は、通算5代目のタルクイニウス・プリスクス王が即位したという紀元前616年から最後のタルクイニウス傲慢王が追放された紀元前509年までの107年間であったという。

 

 これをおよそ100年とし、その間に3世代があったとすれば、明治から昭和までが3世代で100年なので、各世代ごとに30年程度の在位期間を持った王がいたとしても、それほどおかしくはない。

 

 しかし、「古代ローマの建国過程について(6)」で述べたように、歴史時代の古代マケドニアの王の在位期間の平均は12年から16年となっているので、仮に一人の王の在位期間を20年とすると、100年間の間に在位していた王の人数は5人となる。

 

 また、アレキサンドル・グランダッジの「文庫クセジュ902 ローマの起源(白水社)」(以下「グランダッジ論文」という)がいう考古学の発掘資料からみた古代ローマの建設経過は以下のとおりである。

 

 「紀元前七世紀末と紀元前六世紀は造営活動や都市化の面で大変革が起こった時代であ」った。

 

 「紀元前六世紀になると、小屋に代わって、瓦葺のレンガ造りの建物とな」り、「水路がいたるところに設けられ、土地の排水が行なわれ」、「ローマの地下に、まさに井戸・水路・下水道・雨水だめの網が張り巡らされていた」

 

 「紀元前五三〇年代からは、ローマ中心部のどこでも、遺跡の集中がとくに顕著であ」り、「ラティウム文化のⅣB期を通じ紀元前六世紀末までに、ローマが根本的に変貌を遂げたことには議論の余地がない」

 

 「紀元前七世紀から初めて聖なる空間(ウェスタ聖所、サンド・オモボノ、古クリア)が整備され、奉納品か奉献されはじめたことがカピトリヌス丘(しかし最近の解釈では異論が唱えられている)やクィリナリス丘(サンタ・マリア・デッラ・ヴィットリア教会)で検証されている」

 

 「紀元前六世紀には、フォルム・ロマヌム、またカピトリヌス丘やパラティヌス丘も、神殿・宮殿・家屋などの新しい建造物で覆われていたことか証明されたのである」

 

 「カピトリヌス丘では」、「紀元前七世紀末から、この丘全体で地表を均し、壮大な聖所を建てる大規模な土木工事が行なわれていたことが判明した」が、「その聖所とはユピテル神殿にほかならず、従来想定されていたものよりはるかに大規模であることが確認された(七四×五四メートル)」

 

 「王宮では、紀元前六二五年頃、建物か洪水で運び去られ、標石か残る空地となった」が、その後、「五回にわたって(紀元前六二〇年、六〇〇年、五八〇年、五四〇年、五一〇年頃)、一棟の建物が同じ場所に建てられた(王(レクス)」という語が記された土器の断片によって王宮と特定できる)」

 

 「一方、紀元前六二〇年頃、初めてウェスタ聖所が整備される」が、「この聖所が円形であることから推測されるように、それに先立って祭祀用の小屋が存在したのであろうか」

 

 現存するローマの市壁の下にある「この基礎は紀元前六世紀後半のものとされている」が、この「市壁の遺跡は連続一一キロメートルの輪郭を描いており、その内部にパラティヌス丘、フォルム・ロマヌム、クィリナリス丘、カピトリヌス丘、アウェンティヌス丘を包含していて、面積は四二六ヘクタールに及ぶ」

 

 こうしてみると、おそらく紀元前650年ごろ、古代ローマの都市建設が大きく進んだ頃であったことがわかる。

 

 古代ローマの都市建設が古代ローマの王政が開始し、エトルリア人の王の時代が始まったことによるものとすれば、こうした、グランダッジ論文の指摘から、それは紀元前650年ごろのことであったと考えられる。

 

 古代ローマの王が終身制であったという想定で、仮に、古代ローマの王政の終了を、最後の王であったタルクイニウス「傲慢王」が古代ローマからの追放された紀元前509年とすると、古代ローマのエトルリア人の王政期は、約140年間続いたことになる。

 

 古代ローマの王の在位期間の平均が約20年間であったとすると、20×7で140になるので、例えば、7人の王がいたことになる。

 

 なお、この古代ローマの王の平均在位年数を約20年とする想定は、グランダッジ論文が指摘している王宮の建て替えサイクルが20年単位であることとも整合的であり、その場合、最後に改修された紀元前510年は、タルクイニウス「傲慢王」が古代ローマからの追放されたとされる紀元前509年の直前であったと考えられる。

 

 古代ローマの建国神話では、エトルリア人の王の即位は紀元前616年とされ、その人数は3人とされているので、エトルリア人の王がいた時代が圧縮され、その人数も減らされていると考えられる。

 

 それでは、古代ローマの建国神話などの残された伝承と今日までの発掘資料からは、古代ローマにエトルリア人の王が7人いたとすれば、彼らについてどのようなことがいえるのだろうか。

 

(b)5代目の王のルキウス・タルクィニウスと7代目の王のタルクィニウス「傲慢王」は同じ名前

 

 マティザック論文によれば、古代ローマの王政期の後半の5代目の王のルキウス・タルクィニウスがエトルリアの夕ルクィーニアからローマに来たいきさつは、以下のとおりであったという。

 

 「タナクイラは夕ルクィーニアの名門一族の娘だったが、結婚相手にはギリシアのコリントからやってきたルクモという男性を選んだ」

 

 「よそ者のルクモとタナクイラは閉鎖的な地元の支配層から冷たくあしらわれたため、2人は新興国家ローマで運を試そうと考えた」

 

 「ルクモは妻とともにローマに居を定め、ルキウス・タルクィニウスと名前を改めた」が、「同名の息子と区別するために、のちに「年長者」を意味する「プリスクス」という言葉が加えられた」

 

 マティザック論文によれば、古代ローマの王政期の後半の5代目の王と7代目の王の名は同じであったというが、例えば、古代マケドニア王国のでも、アレキサンドロスやペルディッカス、フィリッポス、アエロポスといったように、同じ名前の王が続くことがあるが、これらの名は、古代ローマの王政期の後半の王でいえば、その場合はタルクィニウスに相当するのであって、その前に付けられた名は、それぞれ異なっていたと考えられる。

 

 そうすると、古代ローマの王政期の後半の王が二人とも、ルキウスまで同じ名であるというのは、明らかに不自然である。

 

 おそらくこれは、後世になってから、古代ローマの王政期の後半の第7代目の王の「傲慢王」ルキウス・タルクィニウスから第5代の王のルキウス・タルクィニウス・プリスクスが構想・創作され、建国神話に登場したのだと考えられる。

 

(c)第5代王のタルクイニウスはタルクイーニア出身、第6代王のセルウイス・トゥリウスはウルキ出身

 

 「古代ローマの建国過程について(6)」及び同(7)では、古代ローマの建国神話のルキウス・タルクイニウス・プリスクスからセルウイス・トゥリウスへの変化について、以下のように述べた。

 

 「5代目のタルクイニウス・プリスクスはエトルリアのタルクイーニアから来たという伝承があり、ウルキにある「フランソアの墓」の壁画に書かれたウルキ出身の「マスタルナ」は、古代ローマのクラウディウス帝によれば6代目のセルウイス・トゥリウスであるというので、彼はウルキ出身であったという伝承があったと考えられる」

 

 「なお、この「フランソアの墓」の壁画に書かれているのは、ウルキ出身のカエリウス・ウイウェンナとその弟のアウルス・ウィウェンナと「マスタルナ」たちが、ウォルシニ出身のラレス・パパタナスやローマ出身のグナエウス・タルクィニウスと戦い勝利する場面である」

 

 メアリー・ビアードの「SPQRローマ帝国史I 共和政の時代(亜紀書房)」(以下「ビアード論文」という)によれば、「このカエリウス兄弟の話は、古代ローマのクラウディウス帝だけでなく、後世の何人かの作家も取り上げているが、そこでは、セルウイス・トゥリウスのエトルリア名はマスタルナであり、「彼はカエリウス・ウイウェンナの忠実な従者で、その冒険にいつも付き従っていた」が、「のちに世間の風向きが変わって、エトルリアを追い出された彼は、残ったカエリウス軍の残党とともに(ローマの)カエリウスの丘を占領し、(カエリウスの丘という名はこのときついたものだ)、改名し(エトルリア名はマスタルナ)て、「セルウィウス・トゥリウス」となって、王位を奪取した」とか、カエリウス・ウイウェンナの弟のアウルス・ウィウェンナも古代ローマの王となったとか言われている、という」

 

 「古代ローマの第6代王とされるウルキ出身のセルウイス・トゥリウスが、同第5代王のタルクイーニア出身のルキウス・タルクイニウス・プリスクスの暗殺の後、王位についたという伝承は、おそらく、古代ローマの従属先がタルクイーニアからウルキに代わったこと、つまり古代ローマの塩の交易の利権が、タルクイーニアからウルキに移動したこと示すものであり、ルキウス・タルクイニウス・プリスクスからセルウイス・トゥリウスへの変化の過程では、セルウイス・トゥリウスとともにローマのタルクィヌスと戦ったとされるカエリウスが古代ローマのカエリウスの丘を占拠したように、タルクイーニアとウルキの間で軍事力を含む権力闘争が行われたのだと考えられる」

 

 そうすると、古代ローマの建国神話では第6代王とされるのセルウイス・トゥリウスが初代のウルキ出身の王であり、その先代に当たる第5代王とされるルキウス・タルクイニウス・プリスクスが初代のタルクイーニア出身の王であったということになり、セルウイス・トゥリウスはローマ出身のグナエウス・タルクィニウスと戦い勝利したのだとすれば、このグナエウス・タルクィニウスは、今日では名前が伝わっていないタルクイーニア出身の王であったと考えられる。

 

(d)始祖王として神格化されていた第5代王のタルクイニウスと第6代王のセルウイス・トゥリウス

 

 王朝の開祖、始祖王、初代の王などが、彼らに係る神話や伝承では、神格化される例が多く、系譜や伝承では始祖とされてはいなくても、こうした神格化の神話や伝承が存在する人たちは、おそらく、ある時点では始祖とされていたと推定されることが多い。

 

 マティザック論文によれば、タルクイニウスにはこうした伝承があったという。

 

 「ひとりのよそ者の男(=タルクイニウス)がローマに入ろうとしたとき、空からワシが舞い降りて、男の頭から帽子をも

ぎとった」が、「何か起こったのかわからず男が驚いているうちに、ワシは舞いもどってきて、男の頭にふたたび帽子を乗せた」

 

 「この「予兆」の意味を、男の妻(=吉凶や神託を解することで有名な民族であるエトルリア人で、夕ルクィーニアの名門一族の娘のタナクイラ)は」、「ワシの行動は、男がみずからの力で国家の先頭に立つこと、そしていったん先頭に立てば神の恩寵により、その地位が揺るぎのないものになることを示している、と理解した」

 

 また、マティザック論文によれば、セルウイス・トゥリウスにはこうした伝承があったという。

 

 「ある夜、セルウィウスの両親は就寝中の息子の頭が炎に包まれていることに気づいて仰天するが、不思議なことに息子は無事だった」

 

 「この話を聞いた王妃タナクイラは、すぐにこの少年が特別な運命のもとに生まれた人物であることを理解し」、「その後、少年は王の後継者として育てられ、王の娘と結婚することになった」

 

 また、ビアード論文によれば、セルウイス・トゥリウスにはこうした伝承があったという。

 

 「セルウイス・トゥリウスの母親は、ロムルスと同じように、炎の名から現れた陰茎によって妊娠したと言われている」


 これらの伝承は、彼らを神として神格化するものであるが、新しい王朝の開祖ではないかと言われてきた応神天皇にも、下記のような神秘的な出生の話が伝わっている。

 

(e)応神天皇の始祖王伝承

 

 西條勉の「古事記と王家の系譜学(笠間書院)」(以下「西條論文」という)は、応神の「胎中天皇」の伝承について、以下のようにいう。


 応神の「「胎中天皇」の名称は、継体紀を中心としたいわゆる「仟那四県の割譲」に関係する記事にあらわれ」るが、「この[胎中天皇]という言い方には、暗に父親が仲哀ではないということが暗示されている」

 

 「系譜上、仲哀の妃とされているオキナガタラシヒメは、物珸のなかでは、神の託竃を告げる特異な役割を演じてい」て、「三品彰英が論じたように、そこに窺われるのは巫女の姿にほかならない」が、「オキナガタランヒメが巫女であるなら、その胎内にはらまれるのは神の子でなければならない」

 

 「この女性とホムダワケは、もともとは、神妻の御子出生というかたちをとる独自の神話であったはずで」あり、「そのような神話的な神妻とその御子がセットになって」いるのである。

 

 「仲哀には見ることのできなかった海外の国が、オキナガタラシヒメの胎内にいる応神に授けられるという構図は、仲哀と応神のあいだに大きな断絶があることを意味」し、「この断絶はオキナガタラシヒメを仲哀の后とすることで埋められているが、それは、タラシ系の皇統が願望した万世一系の観念による見せかけの補修にすぎない」

 

 西條論文が指摘するように、この応神の「胎中天皇」の伝承は、始祖王の「処女懐胎」の伝承である。

 

 また、大和岩雄の「日本古代王権試論(名著出版)」(以下「大和論文」という)は、応神天皇の伝承には「ウツボ船に乗って海の彼方からくる母子神の信仰」が存在していると、以下のようにいう。

 

 「応神天皇の誕生にまつわる鎮懐石の説話は、「記」「紀」共に、筑紫の「イト」とする」が、「この地は、天之日矛の子
孫の五十跡手の住む地であ」り、「応神(ホムダワケ王子)は、この地から母と共に、難波へ船でくるのである」が、「これ
は新羅王子(=天之日矛)の東上と共通している」


 「その船を「古事記」独自の記事では、「空船」「喪船」と書く」が、この「「空船」を岡田精司氏は「ウツボブネ」「ウツロブネ」と訓み、この話を「ウツボ船に乗って難波津を訪れる母子神の神話の断片」とみる」

 

 「ウツボ船に乗って海の彼方からくる母子神の信仰については、柳田国男氏の「桃太郎の誕生」「うつぼ舟の話」、石田英一郎氏の「桃太郎の母」にくわしいが、このような貴種漂着、貴種流離の話を、枡口信夫氏は客人伝承とする」


 「海の彼方から空船にのって難波に着いた日の御子ホムダワケは、客人であ」り、「「播摩国風土記」のアメノヒボコ
も客人とある」が、「この客人は葦原色許男と国土争奪戦を行う」

 

 「アメノヒボコがホムダワケなら、客人を難波で迎え撃とうとした香坂王、忍態王は葦原色許男である」ので、「この土着の勢力を破った客人、アメノヒボコ、ホムダワケが、新王権の始祖となるのは自然である」が。「この、アメノヒボコ、ホムダワケは、オキナガの姫によって結びついて」おり、「一方は母方の祖であり、一方は子である」

 

 「これら日つぎの御子の神話化が、「喪船」の表現にみられ」、「「古事記」は、 喪船を一つ具へて、御子を其の喪船に載せて、先づ「御子は既に崩りましぬ」と言ひ漏さしめたまひきとある」

 

 「話としては相手をあざむくためのように書かれているが、この喪船を空船と書いていることからして、「喪船」の表現はみすごすことはできない」


 「喪船とは、真床覆衾のことと考えられ」、「真床覆衾とは天孫ニニギノミコトが降臨するとき包まれていたものである」が、「空船に籠る日つぎの御子は、一度「崩りましぬ」とされ、その船は喪船とな」り、「復活したとき、真の日の御子となるのである」
 
 「朝鮮の始祖誕生説話が、日光感精と卵生の両説話をもつように、応神天皇(ホムダワケ)もまた、アメノヒボコとダブルイメージになる」

 

 大和論文のこうした指摘からも、応神天応の伝承は、母子神が漂着する神話、母子神の死と再生の神話を使いながら、それらの結果、応神は土着勢力を征服して(新王朝の開祖として)即位したということ、つまり応神天皇は始祖王であったということを語ろうとしているところがある、と考えられるのである。

 

 ただし、こうした応神天皇の伝承は、史実ではなく、「日本書紀」や「古事記」のもととなった「天皇家の歴史」が、欽明電脳のとき以降に編纂されていく過程で、おそらく、そのときどきの政治的な必要性による主張とともに登場したものであったと考えられる。

 

(f)古代ローマの王政期の第5代から第6代の王の構想

 

 古代ローマの建国神話では、王政期の第5代王のタルクイニウスと第6代王のセルウイス・トゥリウスの出身地が異なり、セルウイス・トゥリウスはタルクイニウスから王位を奪ったとされている一方で、両者が始祖王として神格化されている。

 

 おそらく、「史実」としては、古代ローマの王政期の王は、夕ルクィーニア出身の王が続いた後、ウルキ出身のセルウイス・トゥリウス王が王位を簒奪し、その後、セルウイス・トゥリウス王が夕ルクィーニア出身の第7代の王のタルクイニウス「傲慢王」に打倒されたのだと考えられる。

 

 古代ローマの建国神話は、この「史実」を、夕ルクィーニア出身の王の初代として、7代王のタルクイニウス王から創作された第5代王のタルクイニウス王を置き、次に、ウルキ出身の王の始祖として第6代王セルウイス・トゥリウス王を置き、最後の王として第7代の王のタルクイニウス「傲慢王」を配置するという形で整理するとともに、その過程を、タルクィニウスの妻のタナクイラによる謀略や前王の子による暗殺、セルウィウスの娘トゥーリアの野心などの個人的な物語として語ろうとしているのだと思われる。

 

 マティザック論文によれば、第6代王セルウイス・トゥリウス王の即位経過は以下のようであったという。

 

 「一説によると、セルウィウスという名は奴隷女を意味するセルウアが変化したものであり、セルウィウスは王家の奴隷の息子だったとい」い、「セルウィウスがかつて奴隷であったという噂は生涯彼につきまとい、最後には失脚の原因にもなった」

 

 前王の「アンクス・マルキイウスの息子たちは、2人組の暗殺者を雇」い、「暗殺者たちは訴訟の当事者のふりをして王に近づき、ひとりが申し立てを行なっているあいだに、もうひとりが王の背後に忍びより、王の後頭部に斧をふりおろして殺害した」

 

 「ところが」、「暗殺者の背後に黒幕がいることを見ぬいた王妃が、王の死を隠し、王は負傷しただけだと発表した」ので、「タルクィニウスの治世はその後もつづ」き、「さらには王の傷が回復するまで、セルウィウス・トゥリウスが代理をつとめることも宣言された」

 

 「そして、やがてタルクィニウスの死があきらかになったときには、王妃の思惑どおり、市民の大半がセルウィウス・トゥリウスこそが新しい王にふさわしい人物と考えるようになっていた」

 

 「タルクィニウス・プリスクスまでのローマ王は、みな市民によって選出された王だった」が、「セルウィウス・トゥリウスは市民から選ばれたわけではなく、そのことが即位当初から彼の治世に影を落としていた」のであり、「トゥリウスは、ただ先王の王妃の策略によって、王位を獲得したにすぎなかったからである」

 

 マティザック論文によれば、第7代の王のタルクイニウス「傲慢王」の即位経過は以下のようであったという。


 「やがてタルクィニウスは権力の奪取を決意し、王の正装をして元老院に入」り、「驚く議員たちに向かって、新王タルクィニウスの誕生を告げ、元奴隷のセルウィウスが王位を不当に強奪したと演説しているところにセルウィウス本人が到着した」が、「タルクィニウスは年老いたセルウィウスを抱えて、力ずくで元老院の外に放りだした」

 

 「議場は大混乱となったが、タルクィニウスの強力な個性が混乱を制し」、「議場から放りだされたセルウィウスは、宮殿にもどる途中、あとを追ってきた暗殺者によって殺害されたという(その通りは[犯罪通り]と呼ばれるようになった)」

 

 「伝承によると、タルクィニウスがこのような暴挙に出たのは、妻であるトゥーリアがそそのかしたからだとされる」

 

 「トゥーリアは元老院に出向いて、王となった夫と言葉をかわしたあと、父親と同じ通りを通って宮殿に向かった。そのとき彼女の乗った馬車があやまって遺体を引して車は血しぶきで赤く染まったという」

 

 「タルクィニウスには王となる正当な根拠が何もな」く、「口-マの王位は世襲ではないから、過去の王の息子であったとしても、王位を主張する理由にはならない」のであり、彼の即位は、「元老院の承認があったわけでも、市民集会で選ばれたわけでもな」かった。

 

 「タルクィニウス自身もその点が重大な弱点であることを理解しており、力づくでローマを支配する道を選んだ」ので、「人びとは、彼を「スペルブス(傲慢な)」という名で呼ぶようになった」

 

 古代ローマの建国神話のこうした物語で語られているのは、第6代王セルウイス・トゥリウス王と第7代の王のタルクイニウス「傲慢王」は、それぞれ前王の正当な後継者ではなく、「市民によって選出された王」ではなかったということであるが、おそらくこの伝承は、「フランソアの壁画」に書かれているように、第6代王セルウイス・トゥリウス王がウルキの武力による古代ローマの占領を背景として、前王のグナエウス・タルクィニウスを打倒して即位し、その後、第7代の王のタルクイニウス「傲慢王」が夕ルクィーニアの武力を背景として前王のセルウイス・トゥリウスを打倒して即位したという「史実」を反映しているものであったと考えられる。

 

(g)即位したカエリウス兄弟

 

 ビアード論文によれば、「フランソアの墓」の壁画に書かれているのは、ウルキ出身のカエリウス・ウイウェンナとその弟のアウルス・ウィウェンナと「マスタルナ」たちが、ウォルシニ出身のラレス・パパタナスやローマ出身のグナエウス・タルクィニウスと戦い勝利する場面であり、セルウイス・トゥリウスのエトルリア名はマスタルナで、カエリウス・ウイウェンナの「従者」であったが、「エトルリアを追い出された彼は、残ったカエリウス軍の残党とともに(ローマの)カエリウスの丘(カエリウスの丘の名はこのとき付いたものだ)を占領し、改名して「セルウィウス・トゥリウス」となって、王位を奪取した」とか、カエリウス・ウイウェンナの弟のアウルス・ウィウェンナも古代ローマの王となったとか言われている、という。

 

 ビアード論文がいうように、カエリウスの丘の名がカエリウス兄弟に起源するものであるなら、カエリウスの丘を占領したのは「カエリウス軍の残党」ではなくカエリウス兄弟であって、おそらく、「カエリウス・ウイウェンナの弟のアウルス・ウィウェンナも古代ローマの王となった」という伝承は、史実を反映していたと考えられる。

 

 しかし、古代ローマの建国神話で始祖王として神格化されているのは、彼らの「従者」のセルウイス・トゥリウスである。

 

 これは、おそらく、カエリウス・ウイウェンナは王として即位したがすぐに死亡し、その後を継いで即位したの弟のアウルス・ウィウェンナもすぐに死亡したので、彼らの後で即位したセルウイス・トゥリウスが、実質的なウルキ出身の王の初代とされたからであったと考えられる。

 

(h)名前が推定できる王たち

 

 そうすると、ここまでの検討から、古代ローマの王政期の王名を復元すると、初代の夕ルクィーニア出身のタルクイニウス王、カエリウス兄弟とセルウイス・トゥリウスに打倒されたグナエウス・タルクィニウス王、ウルキ出身のカエリウス・ウイウェンナ、その弟のアウルス・ウィウェンナ、カエリウス・ウイウェンナの「従者」だったセルウイス・トゥリウス夕ル、セルウイス・トゥリウス夕ルを打倒したタルクィーニア出身のタルクイニウス「傲慢王」の七名の名が得られると考えられる。

 

 グランダッジ論文によれば、古代ローマの「王宮では、紀元前六二五年頃、建物が洪水で運び去られ、標石か残る空地となった」が、その後、「五回にわたって(紀元前六二〇年、六〇〇年、五八〇年、五四〇年、五一〇年頃)、一棟の建物が同じ場所に建てられた(王(レクス)」という語が記された土器の断片によって王宮と特定できる)」という。

 

(i)王宮の建て替えサイクルへの王のあてはめ

 

 初代王の即位を紀元前650年として、最後の王の治世の終わりを紀元前510年として、その間を王宮の建て替えサイクルから、仮に、紀元前650年~同620年の30年間、紀元前620年~同600年の20年間、紀元前600年~同580年の20年間、紀元前580年~同540年の40年間、紀元前540年~同510年の30年間というように区切ると、王宮の建て替えサイクルが王位の継承に係るものであったと仮定すれば、そこに名前の復元できた王たちを以下のようにあてはめることができる。

 

 紀元前650年~同620年の30年間

  第一世代~第二世代

  初代王 タルクイニウス+2代目王 タルクイニウス

   内訳 初代タルクイニウス王10年

      2代目タルクイニウス王20年    

 

 紀元前620年~同600年の20年間

  第三世代

  3代目王 タルクイニウス

 

 紀元前600年~同580年の20年間

  第四世代

  4代目王 タルクイニウス

   グナエウス・タルクィニウス

 

 紀元前580年~同540年の40年間

  第五世代

  カエリウス兄弟+セルウイス・トゥリウス

   内訳 5代目王 カエリウス・ウイウェンナ10年

      6代目王 アウルス・ウィウェンナ10年

      7代目王 セルウイス・トゥリウス20年

 

 紀元前540年~同510年の30年間

  第六世代~第七世代

  8代目王 タルクイニウス

  +9代目 タルクイニウス「傲慢王」

   内訳 8代目王タルクイニウス王10年

      9代目 タルクイニウス「傲慢王」20年

  

 このように、仮に、王宮の建て替えサイクルに名前が分かっている王位を当てはめてみると、140年間で七世代9人の王がいたことになり、一人の王の在位期間の平均は約16年となり、澤田典子の「古代マケドニア王国研究史(東京大学出版会)」(以下「澤田論文」という)掲載の系譜によるアレキサンドロス1世から同4世までの七世代13人の王のうち、在位年数が5年未満の王を除外した9人の王の平均の在位期間の16年と、王の人数もその在位期間も同じになる。

 

 そうすると、この古代ローマの王たちの人数とその在位期間の想定も、それほど「史実」をかけ離れてはいないと考えられる。

 

 なお、9代目のタルクイニウス「傲慢王」の在位年数について補足すると、彼は、伝承によると紀元前509年の古代ローマからの追放後も生存していて、彼が死んだのは紀元前494年であったので、古代の王が終身制であったとすると、本来ならば、彼の在位の終わりは紀元前494年となったのだと考えられる。

 

 そうすると、紀元前540年~同510年の30年間にもう一人の王の存在を仮定しないと、9代目のタルクイニウス「傲慢王」の在位期間は46年となり、これは長すぎるので、この復元案では、紀元前540年~同510年の30年間を彼の前の先代の王と10年と20年とで分けてある。