日本語の数詞の起源について(1) | 気まぐれな梟

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 今日は、大滝詠一の「ロング・バケイション」から「君は天然色」を聞いている。

 

 日本語の数詞は、漢字で一、二、三、四、五、六、七、八、九、十と表記され訓読みでは、ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ/よん、いつつ、むっつ、ななつ、やっつ、ここのつ、とお、と読まれ、音読みでは、イチ、ニ、サン、シ、ゴ、ロク、シチ、ハチ、ク/キュウ、ジュウと読まれているが、「イチ、ニ、サン、シ、ゴ、ロク、シチ、ハチ、ク、ジュウ」というのは呉音の読みで、漢音では「イツ、ジ、サン、シ、ゴ、リク、シツ、ハツ、キュウ、シュウ」となる。 

 

 崎山理の「日本語「形成」論(三省堂)」(以下「崎山論文」という)は、これらの訓読みの数詞のうち、「やっつ」と「ひとつ」「いつつ」の起源について、以下のようにいう。

 

(1)やっつ

 

 崎山論文は、マライ・ポリネシア祖語(以下「PMP」という)の「*Ratus (PMP)「100、多数」は、マレー語の「100」「ratus」、インドネシアのトババタク語の「100」「ratus」、マレーシアのビダユー語の「何百という、多くの」「ratus」、フィリピンのタガログ語の「膨大な数(万、億)、夥多の」「gatos」、インドネシア半島のチャム語の「100」「ratuh 」、海南島の回輝語の「100」「tu」、マダガスカル語の「100」「zatu」、オセアニアのサア語の「100」「lau」に変化していったという。

 

 そして、オーストロネシア祖語では、音変化の法則の一つに「*R > *yの変化」があるといい、上代日本語の「ヤツ」から再建した古代日本語の*yatuは、マライ・ポリネシア祖語の「*Ratus (PMP)「100、多数」に起源するという。

 

 崎山論文は、こうした推定を前提として、以下のようにいう。

 

 「上代日本語ヤツは、ヤツを「八峰」、ヤツあたり「八当」、ヤツかき・ヤヘかき「夜弊賀岐=八垣」「古事記」(上・歌謡)、ヤツさき「八裂」など、すべて限定された数を示す数詞ではなく、もの(こと)の多さを表す形容詞または接頭辞にすぎない)

 

 「また、上代日本語ヤツのツを接尾語とみるのは正しくなく、もとの語源の語尾を継承していると考えられる」

 

 「地名として、ヤツがいけ「愛知・八ヶ池」、ヤツがさき「千葉・八ヶ畸」、ヤツがさわ「茨城・谷津(八つ?)ヶ沢」、ヤツがせ「福岡、長野・八ヶ瀬」、ヤツがそれ「愛知・八ヶ蔵連」、ヤツがだけ「長野、山梨・八ヶ岳」、ヤツがたき「岐阜・八ヶ滝」、ヤツがはま「山口・八ヶ浜」などのように属格助詞「が」をともなう複合語が広く見られることは、ツが語根の一部であったことを意味し、ツの接尾語説が正しくないことを証明する」

 

 「また名字にも、「八つヶ根」「八つヶ婦」「八つヶ代」などがあ」り、「また、「八代」は「ヤツしろ」とも「ヤしろ」とも言われるが、後者は短縮形である」

 

 「このように数の多さをヤツと言うのは、オーストロネシア系文化を継承している」

 

 こうした崎山論文の指摘から、数詞の「8」が古代日本語で「ヤツ」であったとすると、それは、本来は「限定された数を示す数詞ではなく、もの(こと)の多さを表す形容詞または接頭辞)であって、それが数詞に転用されたものであったと考えられる。

 

 そして、古代日本語の「ヤツ」が、マライ・ポリネシア祖語の「*Ratus」「100、多数」に起源するものであったとすると、その言葉が日本列島に伝来したのは、縄文時代後期以降のオーストロネシア人の日本列島への渡来に伴うオーストロネシア諸語の日本列島への伝来のときであったと考えられる。

 

 そうすると、マライ・ポリネシア祖語の「*Ratus」が日本列島に伝来したときには、その意味は「多数」であったが、それが数字の「8」に転用されたということは、当時の日本列島にいた古代日本人たちにとっては、「8」は「多数」であったということになると考えられる。

 

 仮にそれが、縄文時代後期のことであったとすると、逆に、そのときまでには、数詞の「1」から「7」までは、古代日本語にすでに存在していた可能性があるということになると考えられる。

 

 この「ヤツ」が数詞の「8」の前に「多数」を意味すると言葉であったということは、ヤツあたり「八当」、ヤヘかき「八垣」、ヤツさき「八裂」などの言葉の他に、「ヤツ」の省略形の「ヤ」が、「多数・無限数を意味する「や雲立つ」などの副詞「ヤ」とされていることからもわかる。

 

 また、崎山論文は、「ヨ「4」・ヤ「8」をa/oの、また、ヒと「1」・フた「2」、ミ「3」・ム「6」をi/uの母音交替とみる論があり」、「「ヒ・フ、ミ・ム、ヨ・ヤに倍数法があることは江戸前期の荻生徂徠「南留別志」(元文元[1736])が指摘している」といい、このような「母音交替のような関係があるということは」、これらの数詞は「原初の語源では固有の数詞でなかったことを思わせる」という。

 

 こうした崎山論文の指摘から、「ヨ「4」とヤ「8」の間にa/oという「母音交替のような関係があるということは」、数詞の「8」が最初にできて、次に数詞の「4」ができたわけではないと思われるのでの、ヨ「4」から「母音交替」でヤ「8」ができたのだと考えられる。

 

 しかし、数詞の「8」が数詞の「4」からできたのであったとすると、それは、縄文時代後期に伝来した「多数」を意味する「ヤツ」が、その後、数詞の「8」に転用されたということと矛盾が生じるのである。

 

 そして、数詞の「4」が縄文時代後期まで日本列島の古代日本人の間に存在していなかったとは考えられないので、縄文時代後期に「多数」を意味する「ヤツ」という言葉が、フィリピン方面からオーストロネシア人によって日本列島に伝来したのは事実であったのだが、その「ヤツ」が伝来する前に、日本列島には、数詞の「4」「ヨ」から母音交替で形成された数詞の「8」「ヤ」が存在していて、その上にオーストロネシア諸語の「ヤツ」が上書きされていったのではないか?と考えられる。

 

 もしもそうであるのならば、数詞の「8」「ヤ」の元になった数詞の「4」「ヨ」は、後期旧石器時代の人類祖語に起源する言葉が日本列島に残存したものであり、数詞の「4」「ヨ」から数詞の「8」「ヤ」が誕生したのは、おそらく縄文時代以降のことであったと推定することもできるが、まだよくわからない。

 

 この「4」「ヨ」の起源については、「ひとつ」の起源の検討を踏まえて後述したい。

 

(2)ひとつ、いつつ

 

 崎山論文は、マライ・ポリネシア祖語(以下「PMP」という)の「*qituŋ (PMP)数える」は、マレー語の「hituŋ」、インドネシアのトババタク語の「etoŋ 」、ンガジュダヤク語の「itoŋ」、オセアニアのサア語の「idru 」に変化していったという。

 

  そして、オーストロネシア祖語では、音変化の法則の一つに「*q、*h、*s>ゼロ」の変化があるといい、上代日本語の「イツ」から再建した古代日本語の*ituは、マライ・ポリネシア祖語の「*qituŋ数える」に起源するという。

 

 崎山論文は、こうした推定を前提として、以下のようにいう。

 

 「数詞イツ「1」は、上古中国語*iatに由来する中国語の呉音が、西暦6世紀以降の推古時代の上代日本語ではイチとして、さらに8、9世紀の奈良・平安時代には漢音のイツとして借用され」、「また平安時代以降、イチから促音イッが発生した」

 

 「しかし、「漢和辞典」の「一」の項には、「教一識百」のような少数の熟語以外にイツと読ませる例はまったく示されていない」ので、「私は、イツ「1」が漢語のイチを借用する以前から、古代日本語に存在したと推定する」

 

 「その根拠として、イツが不定詞「何時」、副詞「何時も」、また疑問代名詞のイヅ「何処」と同じ語源とみなされる(「時国辞」)ことがあり、このような基礎的な語彙群が平安時代以降の漢語の借用によって発生したのではないことは、上代日本語の「古事記」「万葉集」の例が証明している」

 

 「また、上代日本語ではチ、ツはti、tuで、まだ破擦音化していなかったから、イツ、イトりはitu、ito-riであって祖語音に近い」

 

 「類型論的な現象として、不定詞が数詞「1」と意味的に密接な関係にあることは、英語のone/anyone/once、ドイツ語のein/einmal、マレー語のsatu/suatu「一つ、或る」のほか、漢語でもイチ(イッ)が「一書」で「或る書」を意味することから分かる」

 

 「古代日本語のイツは文法的な数詞ではなく、「1」(これから、不定詞や疑問詞が派生した)と「5」を同時に含蓄する」が、「イツは、上代日本語で数詞「1」の機能を、たまたま語末母音以外では発音の類似した漢語イチに譲った、と考えられる」

 

 「また、漢字「一」はカズと読むことにより、分類学上の無標となり、「数」一般(「数(カズ)を読む」)を意味するようになった」

 

 「語中で、ゆいイチ「唯一」が「ゆいイツ」とも言われるのは混乱例であ」る。

 

 「古代日本語で「1」「5」を意味したイツが共通項としてもつのは、手指しかな」く、「古代日本語のもとの意味は、1(親指)から5(小指)まで指折り数えた(数え方にはその逆の場合もあり得る)とみなす根拠である」

 

 崎山論文は、「古代日本語のイツは文法的な数詞ではなく、「1」(これから、不定詞や疑問詞が派生した)と「5」を同時に含蓄する」といい、「漢字「一」はカズと読むことにより、分類学上の無標となり、「数」一般(「数(カズ)を読む」)を意味するようになった」という。

 

 しかし、この崎山論文の議論は反対であり、崎山論文が、古代日本語の数詞に「母音交替のような関係があるということは」、これらの数詞は「原初の語源では固有の数詞でなかったことを思わせる」と指摘していることを参考にすると、「漢字「一」がカズと読まれたのは、その数詞の「1」が、「数」(「数一般」)という意味から派生したものであって、その「数」一般を表す言葉から、数詞の「1」とともに、不定詞や疑問詞が派生したのだと考えられる。

 

 崎山論文は、古代日本語の「イツ」は「1」「5」を意味していたというが、まず数詞の「1」が誕生し、その後、数詞の「5」が誕生したのは、人々が「5」という数を数えるような、少し複雑な社会になってからのことであったとすれば、古代日本語の数詞の「5」と数詞「1」の語音が同じようなものなので、その数詞「5」は、先行した数詞「1」を転用する形で誕生したものであったと考えられる。

 

 崎山論文は、古代日本語の「イツ」は、「上古中国語*iatに由来する中国語の呉音」が日本列島に伝来する前から日本列島に存在していたというが、小林昭美の「新説・日本語の起源」(以下「小林論文」という)によれば、「呉音」や「漢音」が日本列島に伝来する前の弥生時代に古い中国語の漢字音が漢字を伴わないで日本列島に伝来し、漢字の訓読みの言葉となったという。

 

 小林論文がいう弥生時代を弥生時代後期、日本列島に伝来した古い漢字音を上古音とし、その上古音を日本列島に伝来させたのが楽浪商人であったとすると、遅くとも紀元後1世紀半ばには北部九州に弥生時代に上古音の漢字音が伝来していたということになる。

 

  確かに、上古中国語の*iatと古代日本語の*ituを比べると、両者はよく似ているので、小林論文が指摘するように、「呉音」が日本列島に伝来する前に、上古中国語の*iat自体が日本列島に伝来した段階があったと考えられる。

 

 小林論文は、古代日本語が「呉音」を借用する前の、おそらくは弥生時代後期に上古音が日本列島に伝来していたのだというが、崎山論文は、古代の日本語のイツ「1」は、「呉音」のイチを借用する以前から、古代日本語に存在したと推定し、それは、マライ・ポリネシア祖語の「*qituŋ数える」に起源するという。

 

 そうすると、上古中国語の*iatが日本列島に伝来する前の縄文時代後期に日本列島に伝来したマライ・ポリネシア祖語の「*qituŋ数える」に、古代の日本語のイツ「1」は起源するということになる

 

 しかし、オーストロネシア人の日本列島への渡来が縄文時代後期であったとすると、数詞の「1」という基礎的な数詞が、それまで日本列島に住んでいた縄文人やその前の後期旧石器時代人の言語に存在しなかったと考えるのは、合理的なことではない。

 

 崎山論文は、古代の日本語のイツ「1」は、「呉音」のイチを借用する以前から、古代日本語に存在したと推定しているが、そうであれば、同様に、日本列島にオーストロネシア人の言語の数詞「1」の「*qituŋ (PMP)数える」が伝来して*ituが誕生する前から、在来の縄文人の言語の数詞として、古代日本語のイツ「1」が存在していたということも推定できるのである。