「魏志倭人伝」の行程記述と邪馬台国の所在地について(2) | 気まぐれな梟

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 今日は、」中島みゆきの「中島みゆき・21世紀ベストセレクション「前途」から「地上の星」を聞いている。

 

 中島信文の「東洋史が語る真実の日本古代史と日本国誕生 シリーズ一から四(本の研究社)」の「シリーズ一 古代中国漢字が解く日本古代史の虚偽と真実」(以下「中島論文1」という)は、「魏志倭人伝」の行程記述と邪馬台国の所在地について以下のようにいう。

 

(1)日本の漢字知識や漢文知識での「魏志倭人伝」読み下しによる誤訳

 

 「魏志倭人伝」の「水行」は「海の航行」や「海での沿岸航行」」であるという「酷い定説が日本古代史学や日本の東洋史学で起こった」理由は、「江戸時代末から明治の漢文の大家で国学者であった菅政友や戦前の国学者が古代中国漢字における基礎的な訓詁学の知識や日中間における「同形異義語」を吟味せず、日本の漢字知識や漢文知識で「魏志倭人伝」を安易に読んでしまったからである」

 

 「特に問題であったのは、江戸時代から戦前の国学者が出だしの記述①「循海岸水行歴韓圃乍南乍東 到其北岸狗邪韓国七手余里」の「循海岸水行」を日本的な漢文知識や漢字知識で読み下して誤訳したため、その影響で「水行」という文句を最初に「海の航行」や「海での沿岸航行」と誤訳してしまった」ことである。

 

 「「魏志倭人伝」出だしの「循海岸水行」という文書は「水行」の前に「循海岸」という文句があり、次の「水行」という文句が「海の航行」であることを連想させやすい、錯覚させやすい」ので、「このような錯覚が起こりやすかった」のである。

 

 「それ故、江戸時代から戦前の「記紀」で育った国学者達などすべてが、この「循海岸水行」という文章を訓詁学や日中間の同形異義語を考慮に入れずに安易に日本の漢文知識で、「海岸に従って水行し」や「海岸に沿って水行し」などと読み下した」が、「この、明治初めにおける菅政友などの国学者の読み下しがあり、そのため、「水行」=「海の航行」という間違った説が戦前には加速してしまった」のである。

 

 「その結果、「魏志倭人伝」解釈においては戦後においてはバイブル的な岩波本「魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝」などにしても「循海岸水行」については「海岸に循って水行し」などという読み下し訳が生まれて定説化したのである」

 

 「しかし、このような定説化した日本的な読み下しというのはまったくの誤解で虚偽なの」である。

 

(2)「岸」「河川の傍の高い所」や「河川の傍の平地」を意味する

 

 「循海岸」という文章の「海岸」という文句」「は、古代中国では「英語のシーやオーシャン」に関した内容ではまったくな」く、「古代中国漢文では「海」という文字は「河川敷」や「河川がある大地」の意味が主である」

 

 「それに、「岸」という文字であるが、現在の日本では「岸」という漢字は主に「陸地が海・湖・川などと接するあたり。水ぎわ」という意味で「川岸」や「海岸」などとよく使われているのだが」、「古代の辞典「説文解字」では「岸」という文字は「水厓而高者」とあり、記述の「崖」という文字は河川に関連した文字で古代中国では「河川(リバー)の崖、その高い所」や「河川の土手」というのが本義である」

 

 「「岸」の字源でみると、「岸」という文字は部首が「山冠」であり山と関係し、古代の「岸」の本義は「山から流れて来た川の崖で小高い、高い場所」、という意味である」

 

 「古代中国では「岸」という漢字は山川に関連した文字として使用されて「海(英語のシーやオーシャン)」と関連してまったく使われて」おらず、「中国古代漢文における「岸」という文字は、すべて「河川の傍の高い所」や「河川の傍の平地」などで使用されている」

 

 「例えば、「漢書」「王莽伝」では「是月戊辰、長平館西岸崩、詛涅水不流」(戊辰の月の時期に、長平館の西の河川の傍の高い場所が崩れて、四方に涅水が流れず)」というのがあ」り、「前漢末に成立した「春秋公羊傳」では「楚人及呉戰手長岸(楚人と呉は長い河川の傍の高い場所で戦った)」などとある」が、「これらの用例で理解できるように、中国古代漢文では「岸」の文字は「河川の傍の高い所(土手のような場所)という意味で多用されている」のである。

 

(3)「海岸」は「河川の土手」を意味する

 

 「「魏志倭人伝」記述の「海岸」という文句は、実は「英語のシーやオーシャン」のことはまったく語って」おらず、その「正しい日本語訳というのは、日本の熟語「海岸」の意味とはまったく異なり、「河川敷にある川が流れているところの傍の高い所、平地」であり、意訳して述べるならば「河川の土手」であり、陸地の事象を述べている」のである。

 

 「それに、中国古代漢文では、そもそも我々がよく使う熟語「海岸(英語のシーやオーシャンの浜辺)」などいう熟語は存在していない」

 

 「漢字は象形文字から発達し会意文字でもあり、漢字一文字に多くの内容が含まれ、中国古代漢文では事象を一文字で表現することが通例で、熟語は地名などが多く日本語の「海岸」という熟語はない」

 

 古代中国漢文では現在の「海岸」という文句を表現した」のは、「似た表現としては、「三国志」「魏志悒婁伝」に記述されている「悒婁在夫餘東北千餘里 濱大海南輿北沃沮接」にある「濱大海」であ」り、「岸でなく濱で表現している」のである」

 

(4)「循海岸」は「河川敷の川の傍の高い所(土手)を歩いた」を意味する完結文である

 

 「次に、「循」という漢字の意味」は、「「説文解字」で「行順也。从彳盾聲」とあり「順番に行うこと、順に歩く」とある」

 

 「このような用例は「三国志」「魏書諸夏侯曹伝」にもあ」り、その「洪曰:「天下可无洪、不可无君。」遂歩从到注水、水深不得渡、洪循水、得船、与太祖倶済、逐奔憔」という文中の「洪循水得船」というのは「洪循水、得船」と文節され「(川は深く渡ることができず)曹洪は川の傍を捜し歩いた。そして、船を得ることができた」という内容である」

 

 「この文の「循」は「(あちこちと捜し)歩いた」という意味で、記述の「循水」というのは短文であるのだが「川(リバー)の傍を人間が捜し歩いた」という完結文である」

 

 「このような事例から、すなわち、「循海岸」という文章の正しい日本語訳は「(魏使節は)河川敷の川の傍の高い所(土手)を歩いた」という内容で、完結文なのであり、次の文句「水行」とは無関係なのである」

 

 「この「循海岸」という文章は、従来では「海岸に従って」などと安易に接続的な読み下しをされ定説化しているが、短文だが完結文であり、そのため、次の「水行」とはまったく無関係で「水行」というのは、あくまでも「歴韓国」に単独で関わり「河川の行程」と理解すべきである」

 

 すなわち、この文章の正しい文節は「循海岸。水行歴韓国、乍南乍東・・・」となる」

 

 「「循海岸水行」は「海を行く。海を航行する」というような解釈が現在では定説化しているが、ここの「循海岸水行」記述が「海を行くこと」ならば、古代漢文では「海行」や「渡海」くらいで十分な表現と」なり、「二文字で意味が通じ済む表現を五文字も使う記述はあり得ない」のである。

 

 「このような視点からも、「水行」は「海を航行」ではなく「河川を主に利用する」意味なのである」

 

(5)「循海岸水行歴韓國乍南乍東到其北岸狗邪韓國七千餘里」の正しい日本訳

 

 「「循海岸水行歴韓國乍南乍東到其北岸狗邪韓國七千餘里」の正しい日本訳は「(魏使節は)河川敷の川の傍の高い所(川の土手)を歩いて行った。そして、河川の行程を利用して韓国を訪問した。その河川はくねくねと南東に蛇行している。そして、狗邪韓國の北にある川の高い所(川の土手で船着き場)に苦労をして上陸した。その走行距離は七千里余であった」となる」

 

 なお、この文章で「歴韓国」とあるのは三韓を訪問したと述べているのだが、「「水行」が「海の航行」では三韓を歴訪することは難しく、訓詁学などを持ち出さなくとも、「水行」は容易に「河川を利用した行程」以外にあり得ないと判断できるのである」

 

 「日本の文献学者や歴史学者、はたまた、東洋史学者や中国文学者、中国語研究者というのは「循海岸」という文句を誤訳し、次の「水行」は「海の航行、海での沿岸航行」であろうと錯覚し思い込んで呪縛されて、「邪馬台国」所在論議では致命的な間違った定説を生んでしまったのである」

 

(6)「乍南乍東」「南漢江」と「洛東江」の流れの状態を語っている

 

 「古代朝鮮半島には陸上交通の要であった南東に流れる二つの川、現在のソウルの北部を流れ今は観光名所でもある「南漢江」と現在の釜山市に流れこむ韓国最長の河川「洛東江」がある」

 

 「まず、「循海岸」の意味というのは、帯方郡の郡庁から河川敷を南下して南漢江に至ることを「魏志倭人伝」は簡潔に述べている」のであり、「魏使節は現在の韓国の首都、ソウルなどがある河川敷を歩いたり車で南漢江の船着き場に向かい河川で南下したのである」

 

 「次に、「乍南乍東」という文句は、「たちまち南に行き、今度はすぐに東へ行く」というようなさま(状態)のことだが、南東を流れる「南漢江」と「洛東江」の流れの状態を語っているものなのである」

 

 「魏の使節一行は、まず、帯方郡から河川敷の土手を歩いて「南漢江」の河口に至り、そこから川舟に乗って最初に馬韓の国々を訪れ、次に「洛東江」に乗り継いで、朝鮮半島東部の辰韓の国々を訪れ、次に弁韓の国々というように順に三韓の国々を歴訪して、朝鮮半島南部の「狗邪韓国」の北にある「洛東江」の船着き場に走行距離が約七千里で到ったのである」

 

 「そして、魏使節が着いたのは「狗邪韓圃」の北部で岸(すなわち、河川の高い所、土手、船着き場)」であった「と「魏志倭人伝」にあ」るので、「洛東江の流れが平野にでたところと考えられる」

 

 「東洋史学者である故岡田英弘氏は作品「倭国」(中公新書)の中で、「帯方郡は漢江の上流の含資県に至る細長い地帯に七県を置き、南方の辰韓・弁韓・倭人に通ずる街道を確保している」と述べているのだが、この意味するところは、南漢江と洛東江との間は重要な水運交通が使えず道路を整備して、南漢江と洛東江の水運を結ぶためであったことを語っている」のである。

 

 なお、「この南漢江と洛東江の河川交通ルートは、後代の江戸時代に日本に来た朝鮮通信使もすべて利用しており、古代朝鮮半島では交通(物流)システムの要だったのだ」のである。

 

(7)検討

 

 中島論文1は、「魏志倭人伝」の行程記事の「循海岸水行歴韓國乍南乍東到其北岸狗邪韓國七千餘里」について、以下のように結論している。

 

 「まず、「循海岸」の意味というのは、帯方郡の郡庁から河川敷を南下して南漢江に至ることを「魏志倭人伝」は簡潔に述べている」のであり、「魏使節は現在の韓国の首都、ソウルなどがある河川敷を歩いたり車で南漢江の船着き場に向かい河川で南下したのである」

 

 「次に、「乍南乍東」という文句は、「たちまち南に行き、今度はすぐに東へ行く」というようなさま(状態)のことだが、南東を流れる「南漢江」と「洛東江」の流れの状態を語っているものなのである」

 

 「魏の使節一行は、まず、帯方郡から河川敷の土手を歩いて「南漢江」の河口に至り、そこから川舟に乗って最初に馬韓の国々を訪れ、次に「洛東江」に乗り継いで、朝鮮半島東部の辰韓の国々を訪れ、次に弁韓の国々というように順に三韓の国々を歴訪して、朝鮮半島南部の「狗邪韓国」の北にある「洛東江」の船着き場に走行距離が約七千里で到ったのである」

 

 「そして、魏使節が着いたのは「狗邪韓圃」の北部で岸(すなわち、河川の高い所、土手、船着き場)」であった「と「魏志倭人伝」にあ」るので、「洛東江の流れが平野にでたところと考えられる」

 

 こうした中島論文1の指摘は、おおむね妥当であると考えられるが、いくつか補足がある。

 

 まず、中島論文1は、魏の使節たちは「歴韓國」で、「最初に馬韓の国々を訪れ」、次に「辰韓の国々を訪れ、次に弁韓の国々というように順に三韓の国々を歴訪し」た、というが、魏の使節たちの旅の行程が南漢江から洛東江を下るものであったとすれば、彼らの「歴韓國」は、「魏志倭人伝」「韓伝」に記載された馬韓55か国、辰韓12か国、弁辰12か国をすべて訪問したのではなく、主要には南漢江から洛東江の流域付近の諸国を訪問したもので、馬韓南部の諸国や辰韓北部の諸国、「弁韓」西部の諸国はその「「歴韓國」の対象でそれにはなかったと考えられる。

 

 なお、「魏志倭人伝」「韓伝」に記載された国名リストは、「白石南花のブログ」の記事「三韓概念の成立」が指摘するように、初めに馬韓と辰韓の国名リストが成立し、その後、辰韓の国名リストに弁辰が注記されるという2段階で成立したものであり、また、韓伝の当初の国名リストはおそらく4か国を統合した8ヶ国単位10群の計80か国で構成されていて、その嚳国名の単位は当時の交易路に沿ったブロックごとのものであったと考えられる。

 

 そうすると、「魏志倭人伝」「韓伝」の国名リストは、一回の訪問で作成したようなものではなく、例えば楽浪商人や漢の官人による何回もの訪問の蓄積によって段階的に作成されていったものであったと考えられる。

 

 そして、邪馬台国へ向かう魏の使者たちが韓国内の国々を訪問したとしても、事前に入手していた交易路ごとの国名リストから、邪馬台国へ向かう行程の付近の国を選んで訪問したというのが実情であったと考えられる。

 

 それに対して、韓国と比べれば、それまであまり実地調査の機会がなかっただろう倭国では、魏の使者たちは、かなりの期間をかけて「倭国」の国々を訪問したとしても、そこで訪問したのは、30か国すべてではなかったと考えられる。

 

 「魏志倭人伝」が、行程記事がある8か国以外の国への行程を記載しなかったのは、この行程記事の目的が、「倭国」の女王の卑弥呼が「都」する「邪馬台国」への行程を記録することであったからであり、それに付随したその周辺の国々への行程は、魏の使者たちの記録から、陳寿は採用しなかったのだと考えられる。

 

 なお、白石ブログが指摘するように、「韓伝」の国名リストが当時の交易路に沿ったものであったとすれば、それらの厳資料を作成したのは、交易のためにそれらの国々の間を往来していた楽浪商人であるので、「魏志倭人伝」に記載された30か国の国名も、楽浪商人が交易のために交易路に沿って国名を並べた国名リストを原資料として記載されたのだと考えられる。

 

 そして、そうであったとすれば、「魏志倭人伝」の「其余傍国」の21か国の国名リストの国々も何らかの国名の特徴によって、交易路ごとにまとい目られる可能性があると考えられる。

 

 次に、中島論文1は「其北岸狗邪韓國」の「北岸」を「狗邪韓圃」の北部で岸(すなわち、河川の高い所、土手、船着き場)」であったとし、「其北岸狗邪韓國」を「朝鮮半島南部の「狗邪韓国」の北にある「洛東江」の船着き場に到った」と日本語訳しているが、そうすると、この「其」は、「水行」の対象であり、また「乍南乍東」していた「洛東江」を指すことになる。

 

 従来は、この「其北岸」の「其」は倭国であるので、倭国の北岸に「狗邪韓国」があったことになり、意味が解らないという主張や、この記述をもとに、「狗邪韓国」は倭国の一部であり、「魏志倭人伝」の当時は、朝鮮半島南部で倭国と韓国が接していたという主張がされたことがあるが、「其」が「洛東江」を指すのであれば、この文章に問題はなく、これらの主張は成り立たないと考えられる。

 

 なお、このことは、当時の朝鮮半島南部に倭人が交易のために一定期間定住していたことを否定はしない。

 

 また、「魏志倭人伝」の30か国が「狗邪韓國」を含むと考えられることから、この「其北岸狗邪韓國」の記述を根拠として、「狗邪韓国」は倭国の一部であったという主張もある。

 

 しかし、元々30か国の「国名リスト」が存在し、そから行程記録がある国々を除いたものが21か国であったとすると、白石ブログの指摘を参考にして、その「国名リスト」が交易路に沿ったものであるとすれば、「狗邪韓国」は倭国の交易路が韓国の交易路と接する接点となり、倭国の交易路の韓国側の国として「狗邪韓国」が、楽浪商人が作成した「国名リスト」に掲載されていたものであったと考えられる。

 

 そして、陳寿の前には、その30か国が列挙された「国名リスト」があったので、陳寿は、「使譯所通」の国の数を30と記載したのだと考えられる。

 

 そうすると「狗邪韓國」は、倭国ではなく韓国なのである。