樋囗知志の「古代蝦夷の言語」を読んで(1) | 気まぐれな梟

気まぐれな梟

ブログの説明を入力します。

 今日は、アリスの「今はもうだれも」を聞いている。

 

 国民民主党の山尾志桜里衆議院議員の「議員パス不正使用「疑惑」」への対応は、ほとんど理解できない。

 

 彼女に、事実関係を説明する姿勢がどこまであるのか、真摯に反省する姿勢がどこまであるのか、どうもよくわからない。

 

 よくわからないままにしておいていいのだと考えているのなら、そうした姿勢は、彼女に対する「共感」を損ね、彼女が主張する「大義」の実現を危うくするものであり、その打撃を最も大きく受けるのは、共に困難を乗り越えてきた国民民主党の政治家の仲間たちであり、彼らにかすかな希望の灯を見いだして結集してきた国民民主党の党員・サポーター・支持者たちであり、今後の国民民主党の前進によって救われるかもしれない困窮する多くの国民であり、「国軍」によって虐殺されながらも、国際的な支援を求めるミャンマーの人たちである。

 

 憲法を変えようという人間がなぜ自分を変えようとはしないのか?

 

 国民民主党の憲法調査会での彼女の活躍を間近に見ていたもののひとりとして、今回の対応は本当に残念に思う。

 

 日本歴史第873号(令和3年2月号)(吉川弘文館)所収の樋囗知志の「古代蝦夷の言語」(以下「樋口論文」という)は、蝦夷の言語について以下のようにいう。

 

 「東北北部の蝦夷の言語については現在、アイヌ語系言語とみる説が有力であ」り、「通説的見解の地位に押し上げられ」ているが、「そうした見解は近年熊谷公男氏によって論拠が整理され完成形をみるに至り、(イ)蝦夷の言語が「夷語」と呼ばれた、(ロ)蝦夷の訳語(通訳)が存在する、(ハ)「夷語」を使う蝦夷の居住範囲が古墳の北限線と蝦夷タイプの末期古墳の南限線とが一致する境界線の北側である、(二)東北北部にアイヌ語系地名が多く残っている、の四点を挙げ、太平洋側では宮城県栗原地方以北、日本海側では山形・秋田県境以北の地の蝦夷はアイヌ語系言語を使用していたとし」、この「熊谷説には、考古学研究者の八木光則氏がおおむね賛意を表している」

 

 「しかし最近、松本建速・瀬川拓郎両氏は考古学の立場から、縄文・弥生移行期以降の東北地方の土器様式変遷の様相より七世紀以降の東北北部の蝦夷は古代日本語話者だった可能性が高いこと、文献史料の所見も彼らがアイヌ語系言語を使用していたことの確証にはならないこと、同地域のアイヌ語系地名は四、五世紀代に北海道より渡来した続縄文文化人によって名づけられたことを主張し、通説的見解に真っ向から異を唱えている」

 

 「アイヌ語系地名が縄文社会の言語に由来するものであることは、多くの研究者により承認されている」が、この主張は、「自然人類学からみた縄文人とアイヌとの形質的親近性や、埴原和郎氏に代表される日本民族成立の「二重構造モデル」などとも適合的な仮説である」

 

 「ただし八木氏と松本・瀬川両氏とでは、その点を前提としつつも東北北部のアイヌ語系地名の成立時期についての認識が大きく異なる」

 

 樋口論文は「アイヌ語系地名が縄文社会の言語に由来するものであること」は、「自然人類学からみた縄文人とアイヌとの形質的親近性や、埴原和郎氏に代表される日本民族成立の「二重構造モデル」などとも適合的な仮説である」というが、Y染色体やミトコンドリアのDNAの分析によれば、九州、四国、本州の日本本列島中間部の古代人の集団と北海道の古代人の集団のDNAは全く異なっており、両者は異なった人間集団であったと考えられるので、「埴原和郎氏に代表される日本民族成立の「二重構造モデル」」は成り立たず、「自然人類学からみた縄文人とアイヌとの形質的親近性」にも縄文人とアイヌが同じ人間集団であったとする根拠はないと、すでに大分前から指摘されている。

 

 つまり、「自然人類学からみた縄文人とアイヌとの形質的親近性や、埴原和郎氏に代表される日本民族成立の「二重構造モデル」」は、既に乗り越えられた過去の誤った主張である。

 

 そして、こうした既に乗り越えられた誤った主張を前提とする、「アイヌ語系地名が縄文社会の言語に由来するものである」という主張も、何の根拠もないものである。

 

 樋口論文は今更何をいっているのだろうか?

 

 北海道の古代人の集団のDNA分析について、崎谷満の「DNA・考古・言語の研究が示す北海道史(勉誠出版)」(以下「崎谷論文」という)は、以下のようにいう。

 

 「北海道の歴史を見ると,ユーラシア東部,とりわけアムール川流域,ロシア沿海州,サハリンなどの極東地域,およびクリル諸島,カムチャツカ地域との結びつきが深い」

 

 「従来は北海道の新石器時代を「縄文時代」という名称で定義し」、「北海道の新石器時代ヒト集団はすべて「縄文人」とみなしてきた」が、 「この従来の前提に対する直接の反証は」,以下のように、「北海道の新石器時代・続新石器時代遺跡出土骨から推定される北海道の新石器時代のヒト集団のほとんどがシベリア系であるということである」

 

(1)北海道における新石器時代遺跡出土骨資料のミトコンドリアDNA分析

 

 「北海道における新石器時代および続新石器時代の遺跡出土骨から抽出したミトコンドリアDNA分析を体として見ていくと,ハプログループN9b(65.9%),D1 (13.6%),G1(I3.6%),M7a(6.8%)の4種類が確認される」

 

 その特徴は、「第一に,ハプログループN9bの多様性が高い」ことである。

 

 「北海道の新石器時代および続新石器時代のハプログループN9bは,最低でも10の亜型に分かれる」が、「この多様性の高さは,ハプログループN9bのホームランドにおける多様性を反映するもの」である。

 

 「ハプログループN9bのホームランドはウリチ,ウデヘが現在居住するアムール川下流域の極東地域」であり、「アイヌ民族の祖先はホームランドを出発して,サハリン経由で北海道に達したものと」考えられる。

 

 「第二に,北海道の新石器時代・続新石器時代のハプログループD1の6例は、ウリチの例を参照すると,ウルチと同じハプログループD1aであると推定され」、「そのホームランドはウリチが居住するアムール川下流域だと」考えられる。

 

 「第三に,北海道の新石器時代・続新石器時代のハプログループG1の6例と同一のものがチュクチで2例みつかっている」が、「このハプログループG1もシベリアからの遺伝子流入を示す」

 

 「第四に,北海道の新石器時代・続新石器時代のハプログループM7aの3例は、日本系モチーフである16291を欠」き、そのうち「有珠モシリ遺跡の例はシベリア系モチーフの16140を持つハプログループM7a2であり,アムール川流域から流入してきた」「シベリア系の可能性が高い」

 

 「以上をまとめると,第一点として,北海道における新石器時代・続新石器時代の遺跡出土骨資料のミトコンドリアDNAのハプログループ分析から,圧倒的多数のシベリア系ハプログループの存在が特徴的であ」り、それらは、「北海道の北に隣接しているアムール川流域からの流入が特に目立つ」

 

 「もしハプログループM7aをシベリア系であると考えると,北海道の新石器時代・続新石器時代の遺跡出土骨資料のミトコンドリアDNAはすべて(100%)シベリア系である」

 

 「まとめの第二点として,これらの報告は道東の報告が欠け,道央はわずか1例のみ,道北については道南との日本海航路を通しての交流があった礼文島だけであ」り、「実質的には道央,道北,道東のデータが欠けている」

 

 「道南は新石器時代・続新石器時代初期を通して東北北部と共通の文化圏に所属し」、「北海道で唯一冷温帯落葉広葉樹を植物相として縄文文化の影響が濃い地域である道南」「だけでのデータを見ても」,「そのほとんどがシベリア系である」

 

 「まとめの第三点として,その道南の分析例の多くが」「有珠モシリ遺跡,南有珠6号,茶津2号洞穴」という「続新石器時代に属する」が、「これらは北海道で唯一続縄文文化と言える恵山文化圏にあったもの」であり、「その道南の続縄文人である恵山文化人のほとんどがシベリア系であ」った。

 

(2)本州における新石器時代出土骨資料のミトコンドリアDNA分析

 

 「北海道と関東とでは新石器時代のミトコンドリアDNAハプログループ分布に本質的な差異が存在する」

 

 「第一に,関東の新石器時代遺跡には,北海道の新石器時代・続新石器時代の遺跡出土骨で確認されるハプログループN9b, Dl, Gl, M7aのいずれもが確認され」ず、「同時に,関東で確認されるハプログループA4, G2, M8a, M10, D4, D5のいずれもが北海道では確認されない」

「つまり北海道と関東とでは新石器時代におけるヒト集団の構成が根本的に異なる」

 

 「第二に,関東の新石器時代の遺跡出土骨からは,シベリア系のハプログループが見られない」

 

 「Y染色体分析では,後期旧石器時代および新石器時代を通して日本列島中間部に流入してきたヒト集団は,ほとんどが朝鮮半島経由である(Y染色体ハプログループD2, N, C3, Qなど)」ので、「ハプログループA4, G2, M8a, M10, D4, D5は,シベリアからサハリンを経て北海道へ流入するルートよりも,朝鮮半島経由か琉球諸島経由などによる流入ルートによる可能性が高い」

 

 「第三に,Y染色体分析からも明らかなように,日本列島中間部の新石器時代には多様なヒト集団が確認され」、「後期旧石器時代および新石器時代に日本列島へ流入してきた集団として,Y染色体分析ではハプログループQ(後期旧石器時代のシベリアにおける石刃文化と関連),ハプログループC3(後期旧石器時代のシベリアにおける石刃文化と関連),ハプログループC1(新石器時代早期の南九州における貝文文化と関連か),ハプログループD2(後期旧石器時代晩期あるいは新石器時代草創期に流入),ハプログループN(新石器時代に流入)などが新石器時代のヒト集団を構成していた」

 

 「この中でハプログループD2が新石器時代における縄文系集団との可能性が最も高い」

 

 こうした崎谷論文の指摘から、日本列島中間部の「縄文時代」に併行する時代や北海道の道南の続縄文時代、およびそれに併行する時代の北海道の人間集団は、日本列島中間部の「縄文時代」の人間集団とはその期限が全く異なる集団であったと考えられる。

 

 アイヌの言語と縄文人の言語の共通性は、両者が同じ様な人言集団であったということを前提としているが、そうした前提が成り立たない以上、起源が異なるアイヌと縄文人では、それぞれの言語は異なっていたと考えられる。

 

 だから、「アイヌ語系地名」は「縄文社会の言語に由来するもので」はないと考えられる。

 

 なお、崎谷論文は、古代の北海道の人間集団に対する北方の諸民族の大きな影響の存在から、北海道の新石器時代の名称を日本列島中間部の文化である「縄文時代」とするべきではなく、さらに、日本列島中間部の「縄文時代」という名称も、土器の「縄文」は世界的に見られるものなので、国際標準からすれば土器が製作されたことを標識として「新石器時代」とすべきであると、以下のようにいう。

 

 「北海道の新石器時代の名称を「縄文時代」としてしまうことは」,「シベリア系ヒト集団とその文化的影響を,北海道の新石器時代からあらかじめ除外してしまう危険性がある」

 

 「また同時に,前もって北海道の新石器時代のヒトや文化の流れがすべて日本系縄文系文化の影響下にあるものとみなす危険性,つまりバイアス(偏向)がかかってしまうことになる」

 

 だから、「時代区分としては普遍性がある「新石器時代」という名称を北海道において使用することが望まし」く、「シベリア・極東地域との比較のためにも,共通の尺度,共通の用語・概念が必要である」

 

 「また,それと関連して「続縄文時代」という用語にも,新たな理解が必要である」

 

 「新石器時代を通して,北海道のほとんどの地域は冷温帯針広混交林が拡大した」が、「道南はさらに南方の植物相である冷温帯落葉広葉樹林であり,同じ植物相を持つ東北北部と密接な交流を持っていた」

 

 「北海道においては,新石器時代から次の時代,つまり新石器時代の後に(meta)来るという意味での「続新石器時代」という用語を使うのが好ましい」

 

 「道南だけは東北北部との植物相の共通性や新石器時代における東北北部との文化交流の歴史があるので「続縄文時代」という定義を使用してもいい」が、それは北海道の「続新石器時代」の下位区分である」

 

 「新たに定義された時代区分は,従って,以下のようにすることが提案できる.

 

Ⅰ.後期旧石器時代:約20000年前から約9000年前頃まで

 

Ⅱ.新石器時代:約9000年前頃から約2400年前頃まで

 

 早期:約9000~6000年前頃

 前期:約6000~5000年前頃

 中期:約5000~4000年前頃

 後期:約4000~3000年前頃

 晩期:約3000~2400年前頃

 

Ⅲ.続新石器時代:約2400年前から紀元後5世紀頃まで

 

Ⅳ.オホーツク文化・擦文文化並立時代:紀元後5世紀頃から13世紀まで

 

V.アイヌ文化時代:13世紀から現在まで

 

 樋口論文がいう、「アイヌ語系地名が縄文社会の言語に由来するものである」という主張は、東北北部に残存するアイヌ語系地名は、縄文時代に東北北部に住んでいた東北北部の縄文人によって名付けられたものであったということに繋がる。

 

 しかし、こうした主張は、日本列島中間部のみの新石器時代の縄文社会と北海道の固有の新石器時代の社会を区別せずに相互の違いを曖昧にするものであり、東北北部の縄文人と北海道の新石器時代人の人間集団が異なっており、それらの言語も異なっていたとするならば、東北北部に残存するアイヌ語系地名は、北海道から東北北部に文化と人が流入したときに初めて名付けられたものであったと考えられる。

 

 そして、その時期は、崎谷論文によると、道央を基盤とする江別文化が続新石器時代後半に北海道全域に波及するとともに、東北北部へ南下してきたときであった、といい、この江別文化が、プレ・アイヌ文化であったという。

 

 アイヌ民族とアイヌ語が形成されたのは13世紀であるが、プレ・アイヌ文化の江別文化人は、その後のアイヌ語の元になったプレ・アイヌ語を話していたはずであり、そのプレ・アイヌ語とアイヌ語がそれほど大きく変わらなかったとすれば、江別文化人が付けたプレ・アイヌ語の地名は、東北北部に残存する「アイヌ語系地名」と同じものとなる。

 

 樋口論文によれば、「松本建速・瀬川拓郎両氏は考古学の立場から」、東北北部の「アイヌ語系地名は四、五世紀代に北海道より渡来した続縄文文化人によって名づけられた」と主張しているが、崎谷論文によれば、「続縄文文化」とは東北北部と同じ植生である、北海道の道南の落葉広葉樹林に局限された恵山文化のことであり、北海道の道東に起源して道央に波及し、その後に道南も包摂した江別文化は道南以外の針広混交林を基盤とする文化であり、東北の弥生文化の影響を受けた「続縄文文化」ではかった。

 

 また、崎谷論文によれば、東北北部のアイヌ語系地名のアイヌ語は道南の方言ではなく道央の方言のものであったので、東北北部に南下して来たのは、道央の江別文化人であり、「続縄文文化人」ではなかったと考えられる。

 

 なお、崎谷論文が指摘するように、道南の続縄文文化の恵山文化とそれと併行するそれ以外の地域の文化を同じように続縄文文化と呼ぶのは誤りであり、恵山文化の次の江別文化を続縄文文化と呼ぶのも誤りである。

 

 だから、正しくは、東北北部の「アイヌ語系地名は四、五世紀代に北海道より渡来した」江別「文化人によって名づけられた」ということになる。