甲骨文の誕生と漢語の形成について(41) | 気まぐれな梟

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 今日は、鬼束ちひろの「REQUIEM AND SILENCE[Disc 3]」から、「CROW」を聞いている。

 

 落合淳思の「殷(中央公論新社 中公新書2303)」(以下「落合論文」という)は、張光直の説に対して以下のように批判する。

 

(2)コメント

 

(b)「制度」か「慣習」か

 

 落合論文は、「そもそも、張光直は十干を用いた祖先呼称を「殷王室」に限定して考えた」といい、十干を用いた祖先呼称は、「殷代だけではなく、その後の西周代の金文にも広く見られる慣習であ」るという。

 

 しかし、張論文では、「商王の廟号からみると、昭穆制は、たしかに商王室が甲乙と丁との二系統に分かれていたことと類似して」おり、「乙丁制と昭穆制とは、じつは同じ一つの制度の二つの名であったということになる」といい、殷の「十干を用いた祖先呼称」が、周王朝の昭穆制と同じような制度であったと指摘している。

 

 また、張論文は、宋国や斉国の例を挙げて、「周代の系譜のなかにも、なん人かの十干名を廟号とした者がいるが、それらが出現する世代的な順序は商代の場合と同じである」ともいっている。

 

 だから、張論文は、「十干を用いた祖先呼称を「殷王室」に限定して考え」ていた訳ではないのである。

 

 この点については、落合論文は、張論文の主張を誤読・誤解しているが、いったいどんなふうに張論文を読めば、こういう結論になるのか、理解に苦しむ。

 

 また、落合論文がここで主張する、十干を用いた祖先呼称は、「殷代だけではなく、その後の西周代の金文にも広く見られる慣習であ」るという主張は、「十干を用いた祖先呼称」は単なる「慣習」であるという意味にも取れる表現であるが、張論文は、それは、女系で繋がった殷の支配層の二大支族連合が政権を交代で担うという「制度」であったという。

 

 張論文がいう「制度」が、実は落合論文がいう「慣習」であったと落合論文が主張するのであるのなら、きちんと張論文の論理と実例に言及したうえで、それらを批判すべきである。

 

 そうした検討と論述をしないで、単なる「慣習」だったと切り捨てるのは、学問・研究の世界での議論の姿勢としては、少し卑怯な気がする。

 

 さらに、落合論文の論述からは、落合論文による「十干を用いた祖先呼称は、「殷代だけではなく、その後の西周代の金文にも広く見られる慣習であ」るという主張が、張論文による殷の二大支族による世代ごとの政権交代があったという主張に対するどのような具体的な批判に繋がっているのか、ということも、よくは分からない。

 

 いったい、落合論文は、ここで何がいいたかったのだろうか?

 

 なお、「十干を用いた祖先呼称」が、「殷王室」に限定されないということからは、「甲骨文の誕生と漢語の形成について(41)」で述べたような、殷王以外の殷の支配層の「十干を用いた祖先呼称」の分析から、彼らもまた殷王と同じように、女系で繋がる支族連合を形成して、丁組や乙組などの有力な支族連合の祖先祭祀に参加していたことが分かるのである。

 

(c)と(d)村北派と村南派の「消長、循環」の理由

 

 落合論文は、殷墟遺跡にいた甲骨で卜占をする貞人たちは、「村南派」と「村北派」の二派に分かれていて、殷王の行った甲骨による卜占では、時代によってそのどちらかが優勢になっていたという。

 

 そして、その「村南派」と「村北派」の優勢と劣勢の変遷は、従来の第4期を1・2間期に移動すると、図表41のようになるという。

 

 この図表41を見ると、第1期は村北派が優勢で、そのときの殷王は丁組の武丁、1・2間期は村南派が優勢で、そのとき殷王は甲・乙組の祖己、第2期は村北派が優勢で、そのときの殷王は中立派で甲・乙組と結合した祖、甲・乙組の祖甲、第3期は村南派が優勢でそのときの殷王は丁組の康丁、甲・乙組の武乙、第5期は村北派が優勢でそのときの殷王は丁組の文武丁、中立派で甲・乙組に結合した帝辛である。

 

 落合論文は、この図表41を前提として、張論文の主張からは、「例えば乙と丁は別のグループになるはずだが、陳夢家の分類では武乙と文武丁が同一グループとなり、筆者の研究でも康丁と武乙が同一グループとなるなどの例外が見られる」ので、「すべての王位継承を擬制的血縁関係とする主張は成り立たないことになる」と、張論文を批判する。

 

 しかし、いわるる「新派」と「旧派」という歴法や礼制の異なる卜辞の存在と乙丁制との関連について張論文は、以下のようにいう。

 

 「「商王廟号新考」のなかで、私はいわゆる旧派の卜辞は、あるいは丁組の礼制を反映しているかも知れず、いわゆる新派は乙組の礼制ということになるのではないかという意見を述べた」が、「私のいまの考えでは、現在の段階では、このような関連づけを確認する時期にはまだ至っていない」

 

 「安陽時代の最初の丁世代の王であった武丁の時代の卜辞は数が多く、そこに示されている礼制はかなりはっきり分かっている」が、「武丁のあとに位を継いで王となった祖庚は、在位があるいは七年に過ぎず、その礼制がどのようであったかについては、卜辞の数がすくないためにかなりあいまいである」

 

 「しかし武丁の礼制から、次の時代に王位についた祖甲の礼制にまでなると、疑いもなく、その礼制のあいだに、かなりはっきりとした変化があらわれている」

 

 「武丁の時代にまつられていたいく柱かの祖先や神たちは、祖甲の時代になるともう卜辞に出てこなくなり、しかも祖甲の時代には、祭祀の日程が整然と規格化されたがーいわゆる祭祀典範-(これは武丁の時代にはなかったものである)」、この「祭祀典範の制度は、祖甲以後、卜辞のなかに明白には見られなくなるが、帝乙の時代になり、ふたたびはっきりとあらわれてくる」

 

 だから、「礼制の変化は、革新派と復古派の方式の消長、循環であったと言うことが可能であるのみならず、同時にまた、乙と丁との二分組織とも相当に密接な関連があったのである」

 

 「問題は、すべての丁の世代の王の卜辞が、みな武丁派の礼制をあらわしており、しかも乙の世代の王が、いずれも祖甲の方式に傾いていたかどうかということである」が、「現在における卜辞学者の認識に照らせば、乙と丁との二派の礼制が交替したというのは単なる傾向に過ぎず、かならずそうであったというわけではないとされる」

 

 張論文はこのように、卜辞の「新派」と「旧派」の「消長、循環」は、「乙と丁との二分組織とも相当に密接な関連があった」が、「乙と丁との二派の礼制が交替したというのは単なる傾向に過ぎず、かならずそうであったというわけではない」といい、殷王の王位の乙組と丁組の交代と卜辞の「新派」と「旧派」の「消長、循環」は、イコールではないと言っている。

 

 だから、「それらはイコールではない」といっている張論文を、落合論文が、「それらはイコールではない」ということで「批判」するのは、どう考えてもおかしなことである。

 

 卜辞の「新派」や」「旧派」というのは、殷後期の武丁の時代以降の話であり、それ以前の殷初期の湯王天乙の時代からの殷王の廟号の規則性に基づく学説として、張論文は、殷王の系譜の全体について、殷の二大支族連合による世代ごと王位の移動による政権交代があったと主張している。

 

 だから、張論文の学説を批判するのに、殷後期のできごとだけで批判するのは、全体の傾向を部分の傾向だけで批判することであり、そうした批判が成立するのためには、殷後期のできごとが殷の初期以降の前時代に渡るものであったということ論証する必要がある。

 

 落合論文は、張論文が指摘している、殷初期以降の殷王の廟号の規則性について、どのように説明するつもりなのだろうか?

 

 なお、卜辞の「新派」と「旧派」の「消長、循環」と、丁組と乙組の支族連合の政権交代との関係は、どう考えたらいいのだろうか?

 

 この議論を行うためには、殷墟から出土した卜辞についての詳細な分析が必要となるが、分かっている範囲で考えてみる。

 

 落合論文が指摘する図表41が正しいとすると、卜辞の「新派」と「旧派」の「消長、循環」と、丁組と乙組の支族連合の政権交代とは、直接の関係はなかったということがいえる。

 

 まず、武丁が、帝や自然神の信仰を重視してその権威の下に自らの政策を正統化しようとして、新たに村北派を抜擢・育成したが、戦争による拡大路線の武丁の時代の祭祀方針とその祭祀対象を否定した平和路線と現状維持の祖己は、それまでの村南派に回帰することで、そうした祭祀の変更を実現した。

 

 祖己は「史記」からはその即位が抹消されているが、これは、彼が行った自然神の祭祀の縮小・停止が、祭祀に関わる人びとの反発を読んだという伝承が「史記」に採用された結果、後世に、彼が即位しなかったことにされたのだと考えられる。

 

 祖己と同じように武乙も「雷に撃たれて死んだ」という伝承が「史記」に残されており、祖己や武乙に対する当時の祭祀に関わっていた人たちの反発はかなり強かったと考えられる。

 

 そうすると、第2期の祖庚や祖甲の時代に、殷王の卜辞の貞人を、祖己が重用した村南派から武丁時代の村北派に戻したのは、当時の祭祀に関わっていた人たちの祖己の方針に対する反発に配慮したためであったと考えられる。

 

 そして、その後、康丁や武乙の時代には、再度、祖己の時代に回帰して、村南派が重用されたが、エマニュエル・トッドの「家族システムの起源Ⅰユーラシア(藤原書店)」(以下「トッド論文」という)が指摘している「満員の世界の時代」の到達とフロンティアの消滅を打開するために、再度、武丁の時代と同じような戦争による拡大路線を取った文武乙や帝辛の時代は、武丁と同じように、村北派を重用したのであった。

 

 以上は、卜辞の詳細を把握してはいないため、ほとんど自信のない案だが、仮にこう考えると、村北派と村南派の「消長、循環」は、殷王の出自の支族連合の違いを反映しているのではなく、武丁の政治方針や祭祀方針を継承するのか、祖己の政治方針や祭祀方針を継承するのかという、政治路線の選択に関わっていたことであったと考えられる。

 

 そうだとするならば、落合論文が、村北派と村南派の「消長、循環」が、張論文の乙組と丁組の殷王の世代ごとの政権交代と完全には一致しないことを理由として張論文を批判するのは、無関係のことで張論文を批判することとなり、妥当ではないと考えられる。

 

(3)便宜上の命名

 

 「すべての王位継承を擬制的血縁関係とする主張は成り立たないことになる」が、「擬制的血縁関係による王位継承という発想は、甲骨文字に複数の系統があることを上手に説明できる」

 

 「そこで、謚号の十干を本源的な血縁組織(実際の血縁関係かある集団)とは見なさず、便宜上の命名とすることで、次のように整合的な解釈ができる」

 

 「殷代後期には頻繁に派閥間で王位を継承したが、実際の血縁関係ではないため、人為的に世代関係を設定し、それを明示することが必要になった」ので、「殷代前期の大乙-大丁・卜丙-大甲などを参照して、便宜上、甲乙などと丙丁などで世代ごとに交互に命名したのである」

 

 「つまり、系譜上のすべての王位継承が擬制的な血縁関係だったのではなく、実際には、確実な例は殷代後期の一部に限定され、甲骨文字の「期」が異なる王の間だけが擬制的血縁関係だったのである」

 

(4)コメント

 

 落合論文は、「殷代後期には頻繁に派閥間で王位を継承したが、実際の血縁関係ではないため、人為的に世代関係を設定し、それを明示することが必要になった」ので、「殷代前期の大乙-大丁・卜丙-大甲などを参照して、便宜上、甲乙などと丙丁などで世代ごとに交互に命名した」ことで、殷後期の殷王の廟号は、世代ごとに乙組と丁組の廟号が交互に出現したのだ、という。

 

 ところで、落合論文は、「系譜上のすべての王位継承が擬制的な血縁関係だったのではなく、実際には、確実な例は殷代後期の一部に限定され」るというが、それでは、殷前期と殷中期の殷王の廟号が「大乙-大丁・卜丙-大甲」などのように乙組と丁組の廟号が交互に出現したのは、何故だったのか?ということには何も答えてはいない。

 

 落合論文は、「系譜上のすべての王位継承が擬制的な血縁関係だったのではな」いというので、殷前期や殷中期の殷王の継承は、「史記」殷本紀の伊能系譜や卜辞の殷王系譜に書かれているとおり、父系の血縁継承であったとしているようだが、その父系の血縁継承の原則は、例えば、丁支族なら「丁」の廟号が親から子へと父系で継承されていくのに対して、殷王の系譜では、世代ごとに廟号が変わり、同世代内でも兄弟ごとに廟号が変わっている。

 

 このように廟号が変わっているということは、父系の血縁継承では考えられないことであるが、落合論文は、何故、こうした継承を父系の血縁継承というのだろうか?

 

 そして、この点の解明こそが、張論文が指摘した、女系で結合した二大支族連合が交互に王位を継承していくという殷王の王位継承方法の存在であった。

 

 だから、落合論文は、張論文を批判するのなら、まずは、張論文のこうした主張が成り立たないということを、論証すべきであるが、落合論文のどこを読んでもそれらしいことは書かれてはいない。

 

 まるで、落合論文は、張論文の核心的な主張に対峙することを放棄して、逃げ回りながら的外れの「批判」」を投げつけているように思えるが、こうした姿勢は、研究者の姿勢としては、情けない限りである。

 

 落合論文は、また、殷後期の殷王の継承について、「殷代後期には頻繁に派閥間で王位を継承したが、実際の血縁関係ではないため、人為的に世代関係を設定し、それを明示することが必要になった」というが、そうした「派閥間の王位の継承」があったという根拠は、落合論文の「甲骨文字の「期」が異なる王の間だけが擬制的血縁関係だったのである」という主張から、甲骨文字の複数の系統、つまり、甲骨文の「村北派」と「村南派」の存在とその「消長、循環」にあるようである。

 

 しかし、岡村論文は、「村北派」と「村南派」に示される「二系統の甲骨文字からは、職人集団か複数あったというだけではなく、背後に複数の政治勢力か存在したことが読み取れる」というが、「職人集団か複数あった」ことから、その「背後に複数の政治勢力か存在した」という主張は、自明の前提ではなく、それ自体が論証されるべきものであり、前述のように、それらは政治勢力、出自集団の違いではなく、政治路線・施政方針の違いであったということもできるのである。

 

 だから、落合論文が、この点についての論証抜きに、「甲骨文字の「期」が異なる王の間だけが擬制的血縁関係だったのである」と主張するのは、何の根拠もないただの思いつきでしかない。

 

 以上見てきたように、松丸論文や落合論文による張論文への批判は、みな的外れなものであり、全く従うことはできない。

 

 その昔、三井田一男は、言論、理論闘争とは、丘の上での見物などではなく、生きるか死ぬかの真剣勝負である、といったが、そういう、批判対象との格闘とそれに伴う緊張感が、松丸論文や落合論文からは、あまり感じられないのは、いったい何故なのだろうか?

 

 そして、松丸論文や落合論文は、こんな議論をしていて、本当に面白いのだろうか?