徳川家の出自と松平一族について(3) | 気まぐれな梟

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 今日は、辛島美登里の「シアワセノイロ~家族になりたい~」を聞いている。

 

 平野明夫の「三河 松平一族(新人物往来社)」(以下「平野論文」という)によれば、親氏が松平太郎左衛門尉家に婿入りする経緯は、おおむね以下のとおりである。

 

 「松平氏由緒書」には、現代文で訳すと、こう書かれている。

 

 「雨天続きのある日、好都合と松平太郎左衛門尉信重ら好みの者が集まって連歌を張行しようとした。いろいろ準備を整えたけれども執筆役がおらず、あれこれと小半日言い合って、始まりが伸びてしまった。丁度その時、ふと立ち寄ったように見受けられる旅人があらわれた。連歌の作法に通じているようで、座中から離れて見物していた。そこで、信重がどこから来たのか尋ねた。その者(親氏)は、東西南北を巡りまわる旅の者だと答えた。信重が執筆役を依頼すると、心得がないと返答した。重ねて信重が依頼すると、強いて所望するならといって引き受けた。そしてたらいの水で沐浴し、座の中央に座って連歌を書き留めた。その筆跡は見事であった。さらに信重が一句を所望すると、なかなかの秀句であった。これを機会に、信重のもとにながながと逗留することになった。春夏が過ぎたので親氏は出立しようとしたところ、信重が引き止め、信重の娘の婿になってほしいと頼んだ。弟を呼び寄せることを許してくれるならばという条件を信重が承認したので、親氏は婿となることを承諾した」

 

 なお、訳文では親氏としてるが、原文では、親氏ではなく、徳翁斎信武とされている。

 

 菊地浩之の「徳川家臣団の謎(角川選書576)」(以下「菊地論文」という)によれば、松平氏の「初代・親氏(法名・徳翁[斎])、二代・泰親(法名・祐金、または用金)という名前は系図の上だけで、諸書では法名しか伝わっていない」という。

 

 そして、「初代・徳翁は「松平氏由緒書」で「信武」と書かれている」が、「信重の婿養子で、子どもが信広、信光だからその方がよほど真実味がある」という。

 

 また、信光の子の名は、長男が親長、次男が親則、三男が親忠で、泰親の子の名は益親であるが、これらの「親」の字は、信光が被官となった伊勢氏の当主であった伊勢貞親から偏諱として拝領したものであると考えられる。

 

 偏諱として一字を拝領する場合は、子どもの名にするのであり、また、その字を前には付けず、後ろに付けるので、親氏や泰親の名乗りは偏諱に準じたものではない。

 

 江戸時代初期の松平郷の地元伝承である「松平氏由緒書」が、親氏や泰親という名をつけていないことからすると、親氏という名は、本来は信武という名であったと考えられ、徳川氏が新田氏の後裔を称するようになってから親氏とされたと考えられ、親氏の死後、まだ幼少であった信広や信光を後見した泰親も、子の益親が松平を名乗るので、松平氏の人間として「信〇」という名乗りをしていたと考えられる。

 

 平野論文によれば、「「三河物語」は、徳の代に時宗になられて、お名を徳阿弥と申された、と記して」おり、「松平太郎左衛門尉家へ婿入りする以前の親氏は、時宗の僧として諸国を巡り歩いていたという」、「親氏を時宗の僧とする説は、近世初頭には語られていた」という。

 

 煎本増夫の「戦国時代の徳川氏(新人物往来社)」(以下「煎本論文」という)によれば、貞享三年(一六八六)に成立した「武徳大成記」では、「「三河物語」の親氏の話はさらに増幅されて」、「永享の乱で敗北した親季・有親・親氏は世良田から逃亡して相模国の清浄光寺で遊行僧となり、親氏は「東西ニ流浪シメ、ハナハダ艱難」して松平郷に定着する物語が作られている」という。

 

 そして、「親氏を流浪の時宗僧(遊行僧)として松平郷に定着したとする「三河物語」では、出家した寺院、父・祖父も同行したとは記していない」が、「そのような具体的内容になったのは、家康の伝記である「武徳大成記」の成立のあと、元禄期以降であ」り、それ以降、「いろいろと府会された由緒書・金石文が成立」し、「これにより徳川氏が新田氏を先祖とする伝承が世間に流布されたのである」という。

 

 桜井哲夫の「一遍と時衆の謎(平凡社新書748)」(以下「桜井論文」という)によれば、徳川氏は親氏が新田氏後裔であるということを主張するために、「上野国世良田郷から三河国へ流浪する話に、諸国をまわる遊行上人をからませた」のである、という。

 

そして、「徳川氏は、遊行上人を利用して源氏の正統を保持したのだが、時宗も遊行寺もこれに便乗した」といい、北条早雲が全焼させた遊行寺の再建を願うという、「遊行寺の側に、この伝承に協力せざるを得ない事情もあった」という。

 

天正一九年(一五九一)藤沢の遊行寺に旧領地が安堵され、第三十二代遊行上人の善光と第三十三代遊行上人の満悟は、慶長八年(一六〇三)に伏見城で徳川家康に対面している。

 

第三十二代遊行上人の善光は、慶長十二年に駿府城で徳川家康に遊行寺の再建を直訴したが、家康は即座にその要求に応じ、「この遊行寺再建によって遊行寺中心の体制が整うこととなった」

 

「遊行寺の再建は、徳川家康の保護なくしては行われなかった」ので、「この事実が、遊行寺並びに時宗が、徳川家のいうままに家譜を容認する要因となった」

 

桜井論文はこのようにいうが、平野論文は、「時宗の僧でなかったとすると、親氏はどのような地位・階層・職業の人物であったのかということが、つぎの問題となる」といい、以下のようにいう。

 

「「松平氏由緒書」「三河物語」など、親氏を記すいずれにも共通しているのが、親氏は諸国を廻る旅人であったということである」が、「問題の核心は、なぜ諸国を廻っていたのかという点にある」

 

「中世社会において諸国を廻る人々のなかに、生魚売・薬売・塩売などの商人や、鋳物師・檜物師・木地屋(轆轤師)などの手工業者、傀儡師・遊女・白拍子・桂女などの芸能民といった人々がいた」が、網野義彦の「日本中世の民衆像―平民と職人―(岩波新書)」(以下「網野論文」という)によれば、「彼らは職人身分に属し、平民が負担しなければならない年貢・公事の負担義務を一部ないし全部免除される特権を保証され」、「それとともに、交通税も免除され、関所などを咎められずに往来できる自由通行権とでもいうべき特権も保証されていた」という。

 

網野論文によれば、彼らは「その特権を利用して、非常に広い範囲にわたって遍歴し、自らの芸能そのもの、あるいはその芸能を通じて生み出した品物を売買交易し、その利潤を自分のものにしていた」といい、彼らは「遍歴する職人」であったという。

 

所理喜夫の「徳川将軍権力の構造(吉川弘文館)」によれば、こうした「諸国を渡り歩いて技術を伝播する者」を「渡り」的技術伝播者というが、「「松平氏由緒書」に技術伝播者であることは明記されていなっけれども、諸国を廻る旅人の多くが職人であった中世社会を前提にした場合、親氏は「渡り」的技術伝播者・遍歴する職人であった」と考えられる。

 

「三河物語」では、「徳川の先祖は、新田義貞が足利尊氏に敗れたのち」、「十代ほどここかしこと放浪されていた」とされているが、それでは、親氏は室町後期の人になってしまう。

 

ここから、「十代ほどどこかしこと放浪されていたという伝承あるいは事実に、新田義貞が足利尊氏に敗れたのちという修飾が付加されて、「三河物語」の記述、すなわち松平発祥神話ができた」と考えられる。

 

「「武徳大成記」が成立した元禄時代に至ると」、「職員として廻国していたという事実が、時宗の僧として廻国していたことに改変されていく」が、これは、「こうした職人身分の人たちが、江戸時代に至ると卑賤市視されるようになっていた」ので、親氏の徳翁斎という「名前も、時宗の僧らしく阿弥号を付けて徳阿弥とし」、親氏が「職人であることを隠蔽」しようといたためである。

 

以上から、親氏は「連歴する職人」であったと考えられる。

 

平野論文は、親氏が「その専門とする業はわからない」というが、「徳川氏の出自と松平一族について(2)」で論述した親氏が行った有徳活動では、「人馬の道を造らせ、通行を容易にした」ことが特筆されており、親氏は、「「松平氏由緒書」には、信重の「十二具足」に」「足して「二十四具足」として常に携行したと」されているので、親氏は、土木工事の技術者であったと考えられる。

 

道路や用水施設は地域社会にとって必要不可欠なインフラであったが、律令制度による土地の国家所有は奈良時代に入ると次第に崩れ、そうしたインフラの整備を国家が行えなくなってきたため、三世一身の法などによって口分田などの私的な再開発が奨励されていくが、地方の有力者たちの支援を受けて橋を作ったり、用水路や溜池などの治水工事を行ったのが、行基とその集団であった。

 

中世社会でも、同じように、道や橋を作り、用水路や溜池を作り、それらを維持・補修していくことは、非常に重要なことであり、その経験と技術は、その技術者たちが使用する道具とともに、ぜひとも入手したいと思うような貴重なものであったと考えられる。

 

そして、その土木技術者は各地で歓迎され、村の有力者と連歌などをして交流し、土木工事の技術とともにそうした場での教養も身に着けていったと考えられる。

 

「松平氏由緒書」が、親氏が連歌で評価されたとしているのは、その意味であるが、それ以前に、親氏の持つ土木工事の技術が信重の行う有徳活動にとって非常に重要であったので、信重は親氏を娘婿にしたと考えられる。

 

親氏は、信重のところで道を作っていたのであり、雨で工事が中止になったので開催された連歌の席に、歓迎されて招かれたのである。

 

白土三平の漫画「カムイ伝」では、徳川家康の出生の秘密を知ってしまったために命を狙われる非人で抜け忍のカムイの姉ナナの夫の正助は、百姓一揆の首謀者の一人として捕えられ、他の首謀者たちが皆殺される中、舌を抜かれて弁明できないようにされて釈放され、村人から責められ、村を追放される。

 

その後、正助は名を変え、ナナとともに、村を廻って溜池の埋め立てや用水路の掘削などによる新田開発のための土木工事を指導する人物として登場する。

 

カムイ伝の時代設定は江戸時代初期であるが、こうした正助のような姿は、親氏の姿と重なるものである。

 

「松平氏由緒書」では、親氏は弟の泰親を呼び寄せることを信重の娘婿になる条件としているが、泰親には道造りなどの有徳活動の伝承はなく、彼が財力の力で信光を伊勢氏の被官にしたことから、泰親は、遍歴する商人であったと考えられる。

 

また、「松平氏由緒書」では、親氏と泰親は別行動をしていたようなので、親氏はたまたま知り合った泰親を「兄弟である」ということにして松平郷に呼び寄せたと考えることも可能であり、親氏と泰親が本当の兄弟であったのかどうかは、はっきりとはわからない。

 

遍歴する職人が家族を持ち子を作るとすれば、そこで遍歴を止めるか、家族とともに遍歴するか、一時的に定住しても、子どもだけを連れて遍歴するか、どこか拠点となる地をもって、そこに家族を持つか、ということが想定されるが、それでは代々の系譜など辿れるわけががない。

 

「松平氏由緒書」では、親氏に同行した家族がいたとは書かれてはいないが、親氏が土木工事の職人だったとすると、彼は、職人集団、つまり彼の下で働く下人たちを連れて遍歴していたと考えられる。

 

そうだとすれば、その職人集団のなかに技術の継承者を見出し、経験と知識を伝授することで、擬制的な親子関係とすることがあったと考えられる。

 

「三河物語」がいう、「十代ほどここかしこと放浪されていた」ということは、そうした意味であったと考えられる。