蘇我氏の出自再論(8) | 気まぐれな梟

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 今日は、赤い鳥の「 言葉にならない言葉」を聞いている。


 倉本一宏の「蘇我氏ー古代豪族の興亡(中公新書)」(以下「倉本論文」という)では、葛城氏について、以下のようにいう。


 ①「葛城北部の馬見古墳群」の諸古墳や「葛城南部」の巨大前方後円墳、南郷遺跡群などから、「葛城地方を地盤とした集団が五世紀代に大きな勢力を持っていた」


 ②「ただし、氏(ウヂ)という政治集団は、この段階では成立していないので、空くまでも葛城地方を地盤とした、かならずしも血縁に基づかない複数の集団の連合体である」


 ③しかし、「「葛城氏」という集団は、六世紀に氏(ウヂ)という政治集団が成立した当初から、ほとんど姿を見せなくなってしまっている」


 ④「五世紀後半の新庄屋敷山古墳を最後として葛城地域に大型前方後円墳の築造は見られなくなり、葛城首長連合は解体され」、「南郷遺跡群もこの時期には縮小してしまっている」


 そして、倉本論文は、ここから、蘇我氏の形成過程について、以下のようにいう。


 ⑤「日本書紀」が編纂された当時には葛城氏が存在しなかったのに、「日本書紀」には、葛城氏に係る伝承が多数残されているが、それは、「何らかの葛城集団の後裔が存在して、「葛城氏」の氏族伝承や王統譜を作り上げ、それを「日本書紀」に定着させることに成功した」


 ⑥「その集団こそは蘇我氏であ」り、「蘇我氏はいきなり登場したのではなく、葛城集団の主要部分が独立したものである」


 ⑦「蘇我氏の実質的な始祖は、蘇我稲目」であり、「蘇我氏とは」、「葛城集団から、稲目の代に独立した集団であ」り、「葛城地方の豪族の中で」、「半島政策・渡来人・蔵の管理といった王権の政治組織のいくつかの部門」に係る「職掌を担っていた葛城集団の中枢的な集団が中心となって」独立した集団である。


 ⑧「葛城氏なる政治組織が五世紀に存在していたと考える必要はな」く、「蘇我氏を葛城氏の複数の氏族の内の一つと考える必要」もないので、「六世紀初頭に初めて氏(ウヂ)という政治組織が成立した際に、葛城地方を地盤とした複数の集団の中から有力な集団が編成され、蘇我氏として独立した」


 ⑨「蘇我氏は葛城地方の中東部にあたる曽我の地に進出し」、「この蘇我の地を地盤とすることで氏(ウヂ)として成立し、葛城氏の大多数を傘下に収めた」


 ⑩「そして、葛城集団が持っていた政治力と経済力、対朝鮮外交の掌握や渡来人との関係、」また大王家との婚姻関係という伝統をも、掌中にした」


 ⑪さらに蘇我氏は、渡来人が多く居住していた大倭の飛鳥地方と河内の石川地方に進出し」、「大陸の新しい文化と技術を伝えた渡来人の集団を支配下に置いて組織し、倭王権の実務を管掌することによって、政治を主導することとなった」


 倉本論文のこれらの主張については、 以下のように考える。


(1)葛城氏の滅亡についてである。


 倉本論文は、⑥、⑦、⑧でいうように、「蘇我氏は葛城氏から独立した」と主張する。


 そして、蘇我氏は、「葛城地方の豪族の中で」、「半島政策・渡来人・蔵の管理といった王権の政治組織のいくつかの部門」に係る「職掌を担っていた葛城集団の中枢的な集団が中心となって」独立した、という。


 しかし、ここでいう「半島政策・渡来人・蔵の管理といった王権の政治組織のいくつかの部門」に係る「職掌」は、葛城氏の「政治力と経済力、対朝鮮外交の掌握や渡来人との関係」そもののであり、その「職掌」を担うということは、その集団は、「葛城集団の中枢的な集団」であった、ことになる。


 つまり、倉本論文が、蘇我氏として独立した集団が担っていた職掌とは、葛城氏の中核的な職掌であり、蘇我氏として独立した集団とは葛城氏そのものであり、葛城氏の他にそうした「職掌」を担っていた集団を考えることはできない。

倉本論文は、「葛城集団の中核的な集団」が独立して蘇我氏となったというが、なぜ、その「葛城集団の中核的な集団」が独立したのか、については論述してはいない。


 倉本論文がいうように、③、④のことから、葛城集団は、5世紀後半から末にかけて滅亡し、葛城首長連合は解体したが、この間の事情は、「日本書紀」に書かれたように、雄略天皇によって葛城氏が滅ぼされたと考えられる。


 それは、高句麗の長寿王の攻撃で、AD475年に百済の王都の漢城が陥落し、倭国と関係が深かった同盟国の百済が一時的に滅亡するという非常事態の中で、動揺する倭国内の豪族たちを統制するために、倭王の権力を強化しようとしたことの結果であったと考えられる。


 雄略天皇が葛城氏を滅亡させたということは、それまで葛城氏が掌握していた、対朝鮮外交の窓口や朝鮮半島南部からの渡来人たちに支配権を、第王権が掌握しようとしたと考えられる。


 こうした状況下で、「葛城氏の中核的な集団」がそのまま存続で来たとは考えられず、「葛城氏の中核的な集団」は、王権によって解体されたと考えられる。


 だから、倉本論文がいう、「葛城集団の中核的な集団」が独立して蘇我氏となったという主張には従うことができない。


 倉本論文は⑧では、「六世紀初頭に初めて氏(ウヂ)という政治組織が成立した際に、葛城地方を地盤とした複数の集団の中から有力な集団が編成され、蘇我氏として独立した」ともいう。


 そうすると、6世紀初頭の蘇我氏の「独立」と5世紀後半から末の葛城氏の滅亡の間に時間差ができるが、なぜ、「有力な集団が編成され、蘇我氏として独立した」または、「独立」できたのか、よく理解できない。


 倉本論文は、葛城氏の滅亡と蘇我氏の「独立」との関係をどのように考えるのだろうか?


 そして、それらが無関係であるとした場合には、蘇我氏が「独立」した理由を説明できるのだろうか?


(2)葛城氏と蘇我氏の違いについてである。


 倉本論文では、⑨、⑩、⑪のことから、「独立」した蘇我氏は、「葛城氏の大多数を傘下に収め」、「葛城集団が持っていた政治力と経済力、対朝鮮外交の掌握や渡来人との関係、」また大王家との婚姻関係という伝統をも、掌中にした」という。


 しかし、何故、蘇我氏にこうしたことが可能となったのかは、倉本論文の論述からは、よくわからない。


 だから、これらの記述は、倉本論文がそう考えているというだけで、確かな根拠があるわけではない。


 倉本論文では、「蘇我氏は、渡来人が多く居住していた大倭の飛鳥地方と河内の石川地方に進出し」、「大陸の新しい文化と技術を伝えた渡来人の集団を支配下に置いて組織し、倭王権の実務を管掌することによって、政治を主導することとなった」というが、ここでも、、何故、蘇我氏にこうしたことが可能となったのかは、倉本論文の論述からは、よくわからない。


 蘇我氏が、何で「大陸の新しい文化と技術を伝えた渡来人の集団を支配下に置いて組織」することができたのか?倉本論文はそのことを論述すべきである。


 結果としてそうなっているということからは、蘇我氏が葛城氏からその中核部分が独立したという、倉本論文の主張を証明することはできない。


 「大陸の新しい文化と技術を伝えた渡来人の集団」とは、百済からの渡来人たちである。


 葛城氏が組織していたのは、それよりも古く渡来した伽耶諸国からの渡来人であり、それらの渡来人の文化や技術は、百済の文化や技術からすると古めかしい旧式なものであった。


 例えば、住民を戸籍に編成して耕地の割り付けと租税の負担を記録するという支配の方式は、倭国に渡来した時の伽耶諸国には存在していなかった。


 蘇我氏が、「大陸の新しい文化と技術を伝えた渡来人の集団を支配下に置いて組織」することができたのは、蘇我氏が、中国王朝から輸入したばかりの、百済の最新式の文化と技術、支配の方法に熟知していたからである。


 そして、蘇我氏がそれらに熟知できたのは、蘇我氏の祖が、百済で王権の中枢にいた木満致であったからである。


 また、蘇我氏が、百済からの渡来人たちを支配できたのは、高寛敏の「朝鮮諸国と倭国(雄山閣出版)」(以下「高論文②」という)によれば、木満致が、百済王族で河内国安宿郡に居住していた王弟毘支と、毘支が百済に帰国後は、その子たちの倭国内での後見人であったからあり、百済王家の権威をバックにして、木満致が、倭国内の百済からの渡来人たちを統率していたからであると考えられる。


 伽耶諸国からの渡来人を組織していた蘇我氏の延長線上では、百済からの渡来人を組織していった蘇我氏の姿とその権力は、考えられない。

 

(3)葛城氏と蘇我氏の関係である。

 

 蘇我馬子が推古天皇に対して、葛城の地は自分の産土の地であるといって、葛城の県の領有権を主張したという、「日本書紀」の記事からすると、蘇我氏は葛城氏を継承したと主張していたと考えられる。


 倉本論文が、⑤でいうように、「日本書紀」の葛城氏に係る伝承は、蘇我氏が、葛城氏の後裔を主張して、「葛城氏」の氏族伝承や王統譜を作り上げ、それを「日本書紀」に定着させ」たと考えられる。


 それは、蘇我馬子が行ったことであると考えられる。

 

 蘇我馬子は、前述のように、「建内宿禰」を構想し、その二人の子として葛城氏の祖と蘇我氏の祖を並べて配置し、蘇我氏は、百済からの渡来人の子孫ではなく、葛城氏の後裔氏族であると主張したのである。


 しかし、その主張はには、何の根拠もなかったわけではない。


 蘇我氏が、葛城氏の権益を継承したことは事実である。


 蘇我馬子は、物部守屋の妹を妻にしていたので、門部守屋が討滅された後で、没収されずに残った物部氏の土地や奴婢などの財産を相続した妻を通じて、それらを支配することができ、それらの資産を蘇我氏の領有する資産に変換していった。


 同じことが、葛城氏と蘇我氏の間でも起こったと考えられる。


 こうして考えると、木満致は、葛城氏の本宗家の女を妻とし、その子が蘇我稲目であったと考えられる。


 つまり、女系で葛城氏の本宗家とつながっていたことで、蘇我稲目は、倉本論文の⑨がいうように、「葛城氏の(同族集団の)大多数を傘下に収め」ることができたと考えられる。


(4)葛城集団の勢力範囲についてである。


 倉本論文では、①で葛城集団の勢力範囲を、「葛城北部の馬見古墳群」の諸古墳や「葛城南部」の巨大前方後円墳、南郷遺跡群など」というが、和田萃が指摘するように、本来の葛城の地とは、現在の御所市を中心とした南葛城の範囲である。


 その南葛城には、葛城氏の拠点とされる南郷遺跡や、葛城氏に係ると考えられている葛城地域最大の前方後円墳であり、古墳時代の中期前半に築造されたと考えられている室宮山古墳やその後に築造されたと考えられている掖上鉗子塚古墳があり、蘇我氏の勢力の中枢であったと考えられる。


 室宮山古墳や南郷遺跡の付近には、葛城襲津彦が、朝鮮半島南部の伽耶諸国から連れてきた渡来人たちを居住させたと伝えられる、桑原・佐糜(さび)・高宮・忍海(おしぬみ)などの「4邑」がある。



 この桑原は、のちの葛上郡桑原郷(現御所市池之内)佐蘼はのちの葛上郡佐味(現御所市東佐味・西佐味)、高宮はのちの葛上郡高宮郷(現御所市鳴神、伏見、高天一帯)、忍海はのちの忍海郡(現葛城市新庄町)に当たると考えられている。


 したがって「4邑」はいずれも葛城地方の襲津彦の拠点とその周辺地域に展開していた。


 これらの朝鮮半島南部の伽耶諸国からの渡来人こそ葛城氏の権力の源泉であり、それらが南葛城に集中していることと、南郷遺跡が形成されたのが5世紀の初めであることから、葛城氏は南葛城を勢力範囲としていたと考えられる。


 なお、室宮山古墳の所在地の「室」は「牟婁」であり、日本書紀に、百済に割譲した任那の四県の一つとして出て来る「牟婁」であるので、この「室」の地名も朝鮮半島南部の伽耶諸国から渡来した人たちが付けた地名から来ていると考えられる。


 馬見古墳群自体は、5世紀初頭以前から、馬見丘陵の北部などに築造されている。


 また、葛城氏の対朝鮮外交は海人を支配していた紀氏との関係抜きには展開できなかったと考えられ、南葛城に定住した朝鮮半島南部の伽耶諸国からの渡来人たちは、紀ノ川を遡上し、紀路を北上して南葛城にやってきたと考えられる。


 つまり、葛城氏は、5世紀初頭に、後から、紀路を経由して北上して、在住の勢力がいなかった南葛城に拠点を形成したのである。


 葛城の地名が北部にまで広がっていったのは、そん後の葛城氏の勢力が拡大していった結果である。


 畑井弘の「天皇と鍛治王の伝承(現代思潮社)」によれば、「葛城」とは、朝鮮語で、「はじめて定住した国」という意味の「初(か)」「周・国(ツル)」「城(ギ)」であったと考えられる。


 ここから、「葛城」の地名は、朝鮮半島南部の伽耶諸国からの渡来人たちが名付けた地名であり、彼らが定住した南葛城こそが、本来の葛城であったと考えることができる。


 だから、倉本論文がいうような、馬見丘陵の古墳群も含めて葛城集団の勢力範囲が広域にわたっていたという考えには、従えない。


 倉本論文の考えでは、葛城氏の形成経過と、葛城氏が朝鮮半島南部との強いつながりを持ったという、その権力の源泉の理解があいまいになると考える。