雄山閣の日本古代氏族研究業書の①の篠川賢の「物部氏の研究」(以下「篠川論文」という)第2章「物部氏の祖先伝承」について、引き続き検討する。
篠川論文は、物部連・穂積臣・采女臣の同祖関係について、以下のようにいう。
物部・穂積・采女の「三氏を同系氏族とする伝えは、「古事記」のほかには、「新選姓氏録」と「先代旧事本紀」にみえている」が、そこでは、穂積氏と采女氏は、「大水口宿彌之後」とされていて、「穂積氏と采女氏は近い関係にある」といえる。
穂積氏の遠祖は、日本書紀の崇神天皇の記事や垂仁天皇の記事では、オホミナクチとされているが、この「大水口」とは、「農耕儀礼における水口祭り」に係るもので、「オホミナクチも、イカガシコヲと同じく、本来穂積氏の祖として語られていたのではなく、王権の農耕儀礼における登場人物として伝承されていた」
そして、日本書紀に書かれたオホミナクチは、大物主を祭れという夢を、天皇と同時に見たり、オホミナクチに大倭大神が神がかりしたりしており、祭祀に係るものとされている。
「イカガシコヲを物部氏の祖とする系譜が、ニギハヤヒの子のウマシマヂを物部・穂積・采女三氏の共通の祖とする系譜よりも先に存在していた」のならば、「オホミナクチを穂積・采女両氏の共通の祖とする系譜も、やはりそれ以前から新在していたものと考えられる」
「それぞれ別の始祖を有していた物部氏と穂積・采女氏に、さらに共通の始祖としてウマシマヂが架上されるためには、ウマシマヂをそれにふさわしい人物とする伝承(旧辞)が必要とされた」
「穂積氏の本拠とした穂積の地は、物部氏の勢力範囲のなかにあったか、隣接していた」
物部・穂積・采女の三氏は、「大化以前から各々の伝統の下で服属儀礼に関ってい」ため「互いに関係があった」が、「三氏の同祖関係」は、「従来の伝統的な服属儀礼が天武・持統朝を転換期として令制的践祚大嘗祭に組み込まれていったその過程で成立した」のであり、「天武朝の氏族政策のなかで」「行われた」「系譜制度の再編・見直し」によって、成立した。
ここまでの篠川論文の論述には、いくつか異論がある。
先述したように、高寛敏の「倭国王統譜の形成(雄山閣)」(以下「高論文」という)によれば、ニギハヤヒは6世紀中頃の欽明天皇の時代の系譜1と物語1で登場し、その子ウマシマヂは、7世紀前半の推古天皇の時代の系譜2と物語2で神武東征に係って登場した。
ニギハヤヒの5世孫のイカガシコヲの父のウツシコヲは、古事記の系譜によれば穂積氏の祖とされているが、高論文によれば、ウツシコヲは、系譜2で欠史8代のうちの前5代の妻の出身氏族として登場しており、ここでも穂積氏の祖とされている。
穂積氏や采女氏の姓は、連よりも古い臣であり、采女氏の「采女」は人制よりも古い時代の名称であると考えられ、穂積氏の「穂積」も、宝賀寿男がいうように、「綿津見(海積)(海神)」や「鰐積(和爾臣)」、「出雲積(出雲臣)」、「安曇(阿積)(安曇連)」「津積(=尾張連)」などと同じような古風な名称であると考えられるので、両者の氏族の形成は、物部氏よりも早かったと考えられる。
なお、大王の出身豪族とともに大和朝廷を構成した畿内の臣姓の有力豪族の名称は、その豪族が居住する地名から名付けられているといわれるが、よく考えると、多氏や阿部氏、春日氏、葛城氏、紀氏、波多氏、巨勢氏、平郡氏などの名称は、地名から付けられたのではなく、それらの豪族が居住したことで、それらの地名が付けられたと考えられる。
だから、穂積氏も、穂積(保津)に居住したから穂積氏といったのではなく、先に穂積という名称があったのであり、その「穂積」は「火積」であり、鍛冶氏族としての名称であったと考えられる。
そして、古代は、祭祀と鍛冶は密接に結びついていた。
大和岩雄の「続秦氏の研究(大和書房)」によれば、大県遺跡で製鉄に従事したのは秦氏であったというが、秦氏を指揮した豪族の一つが、物部氏の前身集団であったと考えられる。
また、物部氏の伝承では物部氏の祖は河内の河上哮峯に天降ったとされていることも、物部氏の前身集団が、大県遺跡に係っていて、そのことが門部氏の前身集団が発展していいく重要な契機であったたことを表している。
その物部氏の前身集団は、古くは「火の神霊」という意味の「火積」という名であった穂積臣であったと考えられる。
なお、各有力豪族が分担した王権の仕事の一つとして和泉の陶邑を立ち上げたのは葛城氏と紀氏であり、葛城氏の指揮のもとに紀氏がいて、渡来人たちを管掌したと考えられるが、大県遺跡も、葛城氏と穂積氏が立ち上げ、葛城氏の指揮のもとに穂積氏がいて、秦氏などの渡来人たちを管掌したと考えられる。
ここから、5世紀代に渡来人たちを活用して行われた大土木工事を指導したのは、葛城氏であったと考えらえ、王権が自らの権力を確立していくためには、利用してきた葛城氏の権力と対峙する必要があり、ここに、葛城氏が雄略天皇に打倒され理由があったと考えられる。
そして、その後、葛城氏の打倒、大伴氏の失脚、物部氏の討滅、蘇我氏の滅亡という経過で、王権の権力が確立していった。
イカガシコヲは物部氏の、オオミナクチは穂積氏や采女氏の、それぞれ遠祖とされたのは、物部氏や穂積氏、采女氏が形成されたとき以降であったと考えられるが、系譜2や古事記の系譜がイカガシコヲの父のウツシコヲを穂積氏の祖としているのは、物部氏は穂積氏から分岐した氏族であるからであると考えられる。
古事記や日本書紀の伝承では、穂積氏の祖先は祭祀に関わってるが、采女も初期には大王に奉仕するということではなく、神に奉仕するというものであったと考えられるので、穂積氏と采女氏の係りは、早くからあったと考えられる。
采女氏が穂積氏から分岐した氏族であるかどうかはよくわからないが、分岐していないとしても、その係わりの深さから、同祖関係が成立したと考えられる。
だから、物部・穂積・采女三氏の同祖関係は、篠川論文がいうような、新しいものではなく、まず、穂積氏から采女氏が分岐し、次に、物部氏が、その形成に伴い分岐するという経過で形成されたもので、物部氏が最終的に形成された継体朝の初頭に遡ると考えられる。
日本書紀や古事記の伝承によれば、物部氏の人物である麁鹿火は、「磐井の乱」の「鎮圧」に功績があったとされているが、それが可能であったのは、土師氏が古墳築造に動員された人々を戦争にも動員していたように、物部氏の前身集団が係っていた多くの人々を動員できたからであったと考えられる。
篠川論文は、「磐井の乱」の「鎮圧」の功績で、物部氏の前身集団は物部の管掌者となり、物部連が賜姓されたというが、「連」の賜姓は継体天皇が即位してすぐであったと考えられるが、物部氏の前身集団は、それ以前から、のちの物部またはそれに準ずる人々を統轄する立場に立っていたと考えられる。
そうしたことを想定しないと、「磐井の反乱」を「鎮圧」でできるような軍事力を物部氏の前身集団が保持していた理由を説明することはできない。
継体天皇からの物部連賜姓は、物部氏の前身集団の勢力の追認・制度化と継体天皇以降の王権の全国支配に伴う物部氏の全国化をねらったものであった。
そして、物部氏の前身集団の軍事力の保持が、武器や武具の生産から始まったと考えるならば、5世紀初頭に興隆する最大の製鉄遺跡である河内の大県遺跡や5世紀後半に興隆する製鉄と武器の生産遺跡である大和の布留遺跡には、物部氏の前身集団が係っていたと考えられる。
高論文によれば、イカガシコヲやウツシコヲは、系譜2と物語2で王統譜に登場するが、王統譜に登場する前に、すでに彼らに係る系譜と伝承が形成されてたと考えられ、王統譜は、そうした伝承の断片を、大王の系譜とその変化を説明するために利用して形成されていったのである。
ここから、例えば、イカガシコヲは物部氏の前身集団が穂積氏から分岐していったときに構想された人物で、ここからするとオオミナクチは、采女氏が穂積氏から分岐していったときに構想された人物であり、ウツシコヲは穂積氏が形成されたときに構想された人物である、と考えられる。
例えば、阿部氏も始祖のオホヒコの二人の子のうち、タケヌナカワを阿部臣らの祖、ヒコイナコシワケを膳臣の祖として古事記の系譜に記載しているが、このように、同祖関係を始祖の血縁関係で象徴的に表現しているのである。
こうした系譜の表現からすると、穂積氏の祖のウツシコヲの二人の子をイカガシコヲとオオミナクチとして、それぞれ物部氏の祖、采女氏の祖とする系譜は、これらの三氏の同祖関係を血縁関係で象徴的に表現しているので、これらの三氏は古くから同祖関係にあったと主張していたと考えられる。
また、系譜1と物語1では、始祖王の崇神が在地のイワレビコの娘を妻にしたように、崇神に随従したニギハヤヒも在地の豪族の娘を妻にしたとされていたと考えれば、その子がウマシマヂであったと考えられる。
このときには、ニギハヤヒ以降ウツシコヲやイカガシコヲに至る系譜が構想されていたと考えられる。
そして、物部守屋討滅後の系譜2と物語2では、ニギハヤヒは始祖王の随従者の地位から転落し、新たな始祖王の神武に国譲りする立場になり、神武への抵抗者のナガスネヒコの娘を妻とし、生まれた子がウマシマヂであったとされた。
なお、系譜2に対応する継体天皇の古い系譜を伝える「上宮記逸文」の系譜では、継体天皇の3代前までの人名は現実の名前と考えられるので、例えば、物部連を賜姓され始祖としてニギハヤヒを構想されたときには、それまでの穂積氏の系譜にニギハヤヒとニギハヤヒに係る物語の登場人物を架上するとともに、穂積氏から分岐したとして構想されていた人物に、物部連を賜姓された人物の3代前の人物を接続して、その人物に係る系譜を構想したと考えられる。
そう考えると、この構造は、稲荷山古墳出土鉄剣銘の系譜の後半部分の構造とよく似ていて、一般的には、系譜を初めて作成した人の3代前までの名前が、その系譜に記載されているということになり、系譜に書かれたそれ以前の人物は実在しない人物である可能性が高いと考えられる。