小説『射程』 井上靖

 

新潮文庫 昭和38年刊行 入手は平成5年の45刷 当時の売価税込520円。

ブックオフで110円で買った。

 

またしても井上氏お得意の「秘めた恋」モノであった。

男には誰にも、こういう「憧れの女性」が居るものである。自分などが性的な対象とすることなど畏れ多すぎると思ってしまうような、マドンナ的存在の女性が。

主人公・高男は、憧れのマドンナを、自分の射程距離内にようやく捉えたと思った時に、実に「奇妙な形の失恋」を体験する。そこがこの小説の面白さ。

 

(あらすじ)

 舞台は戦後間もない大阪。主人公・高男は若い男。芦屋の裕福な家を親と喧嘩して飛び出し、自殺未遂。命を取り留め、闇屋を始める。実家に忍び込みダイヤを盗み出そうとするが防犯ベルが鳴り失敗。逃走中、近所に住む憧れの女性・多津子に偶然会う。(多津子は男が高男とは気づかない) 高男は子供の頃、両親に連れられ多津子の結婚式に出た。その時以来、多津子は高男にとって忘れられぬ憧れの存在。

 高男は知人に勧められ瓦工場を始めた。当時はすごいインフレの最中。闇屋に商品の瓦を卸し、当座の資金を得るギリギリの経営が続く。やがて、取引相手の男の妻・鏡子と不倫関係となる。鏡子に連れて行かれた会合で多津子に再会する。多津子は鏡子の友人だった。多津子は高男が「あの時の逃走者」と気づかず。(注・実は気づいていたことが後に明かされる)

 高男は幸運と才覚で闇業界でのし上がって行く。多津子は夫が病気で、金に困っており、所有する美術品の買い手を探していると知った高男は何とか助けてやりたいと考える。

 高男は綿糸会社重役の丸山と知り合い、丸山の娘・みどり(純粋な性格)に惚れられる。高男は闇ブローカーの仕事をやって金を作り、多津子から美術品を高く買い取り、助けてやる。いい気分の高男。しかし多津子が瓦工場主に過ぎない自分を軽蔑していると鏡子から聞く。悔しい。出世せねばと思う。売りに出ている尼崎のセメント工場を買いたいが、それには3千万という大金が必要。

(前半は悪漢小説の面白さ。こいつがこれからどんな悪さをしてのし上がっていくのか?の興味)

 高男と、会社の闇物資を横流ししてくれる丸山との闇の付き合いが深まる。やがて高男はみどりに愛を告白される。高男にとって鏡子は仕事で利用するだけの相手になっていた。高男はどんどんブローカーとしての仕事を拡大。自分と丸山だけが知る巧妙な手口。セメント工場買い取りのための目標金額に手が届きそう。

 ある日、多津子が瓦工場を訪問してきて、高男はまた大金を援助した。値上がりでセメント工場買収は断念。ブローカーとして勝ち逃げすることに目標を変える。

 孤独の中、高男はみどりの一心さに負けみどりを抱く。落ちぶれたブローカーの先輩から「すじの悪いのと付き合うな」と助言される。その直後、その先輩は自殺した。(注 ここから高男の転落が始まるが、この先輩の助言がその予告になってるとこがさすが井上氏の巧みさ)

 丸山に横流ししてもらっていた綿糸に警察の捜査が迫り高男は雲隠れすることになる。瓦工場も放棄した。鏡子の世話で北新地の隠れ家に潜伏する。やがて二世の葉村と知り合い、綿糸のウソ輸出で稼ぐことにする。しかし難航。みどりが迫ってきてついに正式に交際することになる。鏡子は、高男が新しく仕事で組んだ外人チャーリイへと去った。

 多津子が高利貸しにはまり苦しむ。高男は自腹で助けた。虚しい恋。丸山が病に倒れ、みどりが結婚を早めたいと迫ってきた。

 高男は大物外人実業家・畑中と組み、米軍払下げの船売却というでかい仕事に乗り出す。やがて丸山が死去、高男とみどりは結婚した。

 そこへ朝鮮戦争が起き、米軍船の仕事は中止となってしまう。畑中と共同の外人生活用品店の仕事に専念する。店は表向きの仕事も裏稼業の物資横流しも好調。繁盛する。

 また多津子が高男を訪ねて来る。「300万貸してほしい、代わりに私の貞操を売ります」と言われる。しかし高男は断る。「私にとってあなたの値段はもっと高い。金は送ります」と。(高男はどんどん筋金入りのブローカーになっていくのに、恋愛面ではどんどん清らかな純愛になってしまう皮肉。女は金で買ってくれと言い、その金は手元にあるのに、抱く気になれない奇妙な失恋。「人間は自分の心だけは、偽ることができない」という人生の真実を描いている)

 ついに高男の闇商売に捜査が迫る。汐時。高男は会社を解散した。丼池に正規の繊維店を開いた。高男は思い余って多津子に会う。「貴女を買いたい」と言うが今度は断られる。(この辺もリアル。恋愛でチャンスは一度だけ、逃がしたチャンスに後ろ髪は無いという、これまた人生の真理)

 高男はまた多津子に会い、今度は落ち着いて出会いの想い出などを話す。逃走中の高男に会ったことを多津子は実は覚えていだ。

 高男が多津子に大金をやったことを、みどりが知り、腹いせに浪費を始めた。

 多津子の家で菊見の会が開かれた。そこで高男は多津子と話す。会の後、残っていてほしいと言われるが高男は帰った。経営する繊維店は順調。

 高男は街で偶然多津子に会う。多津子は今度は「私を一億円で買ってくれ」と言う。高男は承諾。買う日取りも決まる。高男はその時、やるかどうか迷っていた毛織物で大勝負して一億円作る決意をした。商売の先輩から「やめとけ」と助言されるが無視。勝負に出る。しかし相場が急転、高男は多額の負債を負う。多津子から電話がかかってくるが、高男にはもう多津子は遠い存在としか思えなかった。高男は自殺を決意する。終(結局、女が踏ん切り付けさせて大勝負に打って出るが命取りとなる)

 

(多津子が、高男の心に揺さぶりをかけるだけの、無力で迷惑な存在としてしか描かれていない。もしも多津子が、読者の心をも魅了するような魅力的な女性として描かれていたら、この小説はますます魅力的な作品になっていただろう。)

(一億円という現実離れした価格から考えて、多津子はおそらく、カネ関係なく高男に抱かれる気になっていたと思われる。その現実離れした金額のために高男は無茶な勝負に出て、全てを失ってしまう。高男の人生は現実離れしたものに左右される空虚なものでしかなかった)