「全部捨てた気になってみよう!」などと、心が言い出しました。
「実際に全部捨てるのは大変やし、その気になってみるだけでもだいぶ違うしなー」だそうです。
そしてそのための呪文は、「ゼロは無限のゼロ」となります。
これを唱えてみて浮かぶイメージは、サバイバルもののゲームを、ある程度経験を積んだ状態で1から始める、というものです。
経験を積んでいるので、ゲームの中でどのアイテムが重要で不足しがちか、逆にどのアイテムは簡単に手に入って余りがちか、ということがわかっている。
そして1からのスタートなので、持ち物は本当に最小限しかない! となっています。
こうなると、ゲームの中で手に入れるアイテムも、必要なものだけ最低限、と自然になっていきます。
なにせ1からのスタートなので、一度に持ち運べるアイテムの数も、保管できる倉庫的な設備も少なく、厳選せざるを得ないのです。
でもこうなると、なにかが欲しくなって、でも手持ちにはない! というときに、探しに行くのが楽しみになってきます。
「いつか必要になるかもしれないから」と思って、なんでもかんでも集めて溜め込んでいたときは、いざというときに探しに行かなくても済むという楽さはあったんです。
それも悪くないけれど、必要なものを必要なときに必要な数だけ探しに行く、そんなサバイバル生活をゲームの中で過ごすのも悪くないな、と感じるんです。
さらに「ゼロは無限のゼロ」を唱えてみます。
すると今度は、今の自分は家の中に余計なゴミをいろいろ溜め込んでいると思ったけれど、本当にそうか? という疑問がわいてきました。
私が実際に持っているもののうち、本当に必要なものって、ごくわずかな気がする。
ということは、自分は余計なものをたくさん持っていると思っているけれど、実は持ってないのと同じことなのかも? なんてことを思うんです。
余計なゴミを捨てれば、もっと部屋を広く有効に使えるし、いざというとき簡単に引っ越したりできるじゃん! とは思います。
でも、実際には今の部屋の広さでも特に問題なく生活できていますし、そもそも引っ越す予定もありません。
そして、もしも実際に引っ越すことになったら、余計なものをガンガン捨てていく楽しみが体験できるかも、なんてことを思ったりするんです。
心が「もういっちょ!」と言うので、またさらに「ゼロは無限のゼロ」を唱えます。
そうしたら、内面的・精神的な意味でも、自分はもっと余計なものを色々手放さないといけないと思っていたけれど、別にそんなことしなくてもいいのかも? という思いがわいてきました。
例えば、もしも事故かなにかで私は今日死んでしまう! となった場合、死んでしまった時点で、多分いろんなものを手放すことになっている。
そしてそんなことを仮定したとき、死ぬ準備としてなにかを手放す必要はあるか? と思うと、別になにもないな、とも思うんです。
死への恐怖は手放したほうが楽に生きられる! と普段は思っていたけれど、今日死んでしまうという仮定に立てば、別にその恐怖を手放さなくても、どうせ24時間もせずに死のほうが向こうから勝手にやってくるので、どうでもいい話になる。
そう考えると、今日死ぬという仮定であっても、100年後に死ぬという仮定であっても、別に変わらないのでは? なんて思ったりします。
いやいや、それは全然話が違ってくるだろ! と私の中の常識はささやいているんですが、私の中の感覚のほうは、別に同じ話だよな、などと感じているんです。
元々、自分の持ち物など、実はなにもなかったのかもしれない。
本当に自分が持っているものなら、死のうがどうなろうが、自分のものであることは変わらない気がするんです。
けれど、死によって自分が持っているものは全て失われる、と自然に感じているということは、実は自分がなにかを持っているという、それ自体が幻想なのかもしれない。
そしてゲームのように、持っていないなにかを必要になったときは、それを探すための冒険に出るのも、結構面白いかもしれないな、なんてことを思うんです。