昔、学生時代に、
”はい、次、やってみて!”と
なんのインストもなく、なんの解説もなく、
さらりと”その場にいる大勢の先輩方”と一緒にルーティーンと化しているトレーニングに組み込まれそうになったことがある。
(同年代もいたが、私よりも早く入会?しているのでここでは先輩と称している)
”はい、次、やってみて”
こちらからすると、
いやいや、
”は?”・・・でしかない。
どんなルールでこの場は動いていて、
何をするのが正解で何がよくて何がダメなのか。
全くその”判断基準とか軸のようなもの”をしめされないままに、
よく言えば、自主性を重んじる形で、わるくいうと、なんの解説も説明もないまま、
ただ、その場に馴染ませられようとする。
まるでベルトコンベアにぽんと落ちて来た未完の製品のように。
ただ、私はその手法・工程が全く理解できない、なじまない”製品”だった。
* * *
振り返れば、確かに昔からめんどくさい子供だったように思う。
”なんでなんで”と理屈を知りたがった。
”いくらいくら”と価格も知りたがった。
”だめなものはだめ”という、その裏にある理屈をしりたいと思ったことなど数知れず。
理・理屈をとにかく深く知りたかったし、教習所では車の仕組みから徹底的に理解したかったので
運転席に座ると”今この動作をするとエンジンルームではどういうことが起きているか”ということを想像したりして、
いちいち挙動がおくれるのでぶつぶつ言われてばかりで(隣に座る教官に)それ以来、運転は毛嫌いしているw。
脱線しそうになるので、
上述の部活やクラブ活動、
習い事の話に主軸を戻そう。
みんなで一緒にインストラクションを受けて(一人だけ特別にインストを受けるとかは苦手だ)
その世界観を共有した上で何かをやる、というのは好きだし、理解できるが、
例えば、上述のケースのように、いきなりバットを持たされて、球が来て、
バットを振れと言われて、何が良いのか悪いのかわからないままに
バットを振ってあたらなければ残念がられたり、怒られたり、フォームが悪いと言われたり、
運動神経が・・・とか言われたり・・・ 苦笑
そういうのがとにかく苦手であり、今でも理解ができない。
スポーツの現場等では、特に当時、部活・甲子園等の全盛期では、
体罰とも言えるような教え方や指導方法があった。
そういった”強化ルーティーン”に体感・体で入っていける人は
きっとすんなりなじめたりもしたのかもしれない。
そして、指導者の教える通りにこなせる人は成績も残せたのかも知れない。
* * * * *
指導者の言う通りできるひとはok。
なんでこうなるんです?などと言おうものなら、
いきなりマウントをとられて、ガツン。
対話も何もない、ただベクトルは
→・・・右から左へ、いや、↓上から下へ。
一方通行で、”やり取り”なんてなにもない。
上と下、教える方と教えられる方。
kingと駒。
今はもうそういう指導は流行らないのだろうし(そうであろうと願いたい!)
もう現場にも現存していないのかもしれないが、
個人的には”世界観”とか"目的・目標”とか”やりかた”みたいなものがはっきりしないままに
なにかを強要されるというのはありえない・・・というか、
今の私の世界の中には存在しないし、受容していない。
* * * * *
鼓膜が破れるほどに叩かれる高校生。(部活で結果を出すため)
殴ったことによって折れた指の骨(熱血指導のため)
こう言うのを見るたびに、
”いやいや、なんだそりゃ!”って思ったりもする。
* * * * *
と、前段が長くなったけれど(毎度お馴染み)
これらの経験が反面教師となって、今の私はある。
占星術というフィルタを通してみた現世。
星読みという世界観。
それら、ちょっと特異な、この世にある数多の学問体系、思考体系とはちょっとだけ違う角度をもつその”価値観”や世界
を共有した上で、セッションの現場等では”個別の話”をしたいと思っている。
故に、個人の鑑定においては、
まずは世界観の共有から、”何をもとに”この理論が展開されるのか、そこを最初にお話しする。
いきなり、
「はい!あなたの星は〜」という話は私の中にはない。
これこれこういったベースとなる価値観があるから、
”なにをどうするためにあなたに今からこういう話をします”というルール。
ポリシーや哲学といってもいいし、美学といってもいいかもしれないけれど、
その”入りの部分”、前段部分を実は最重要視している。
* * * * *
いきなり桃太郎が、”はい!って黍団子”を渡されてもなにがなんだかわからないだろう。
自分でペロリ、食べてしまうかも知れないし。
彼の場合は、もちろん、
”鬼退治に行く”
というテーマが重要だ
某水戸の御老公であれば、
諸国の漫遊・・・だろう(?)
そうじゃないといきなり
うっかり八兵衛が隣に来ても困るに違いない。
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星は使えば、いろいろわかったり、闇にも光が差し込んだりもするが、
(たまに思考がイスカンダルに行ったりもするがw)
星を使った生きかたにはめ込むつもりも、運命強要者になるつもりはさらさらない・・・
当たり前だけれど。
ただ、純粋に人の光が輝く様をそのそばで見られることを楽しんでいるだけ。
(助けるという意識はない:そんなおこがましいことはできない)
ただ、密度の高い時間、高い精度のセッションをするためには、
その瞬間にzoneに入るような意識lvに飛ぶ必要があるし、そこに達するためにも
世界観の共有、事前のインストラクションがとても大事だな、とは思う。
プールに入る前には準備運動をして、水着に着替えて、いざ!
となるように、何事にもそれなりの準備が必要だ。
まして、それが今まで触れたことがない新しい価値観や世界であるなら尚更だ。
いきなりボールを投げつけて、そうら、打ってみろ!みたいなことはしたくないと思っている。
(とはいえ、〜〜はどう思いますか?という問いは投げかけるけれど!(爆)でもそれはセッションの手法だから!)
この世界にあふれる争いや諍いや傷つけ合うことや小競り合いや喧嘩もどきみたいなこと、
それらを見れば見るほどに、知ればしるほどに、世界観を共有すること、
お互いの価値観、世界観を知ること、想像すること、そしてそのための対話は大事だなぁ〜と
このところ、改めて感じている。
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世界観を共有することの大事さ。
but,not 強要。