我に返ったように、

とか

我に帰る、

という表現があるが、

あれは本当に”我”に返っているのだろうか。

 

というか、そもそも我ってなんだ?

 

いろいろ考えてみたりしますが、

 

そもそも”我ってなんじゃいな?”と思うわけですよ。

 

・・・

 

自分探しの旅に出るとか、

自分がわかりませんとか、

自分を許すとか、自分を・・・って、

色々な場面で見かけたり使われたりします。

 

人は「自分なるもの」がわからなくなったり、

「自分なるもの」=アイデンティティみたいなものが時には何かの題材になったりもしますが、

そもそも”自分”ってなんでしょうね?!

 

ふとしたきっかけ、
またはタイミングで

”あれ、わたしってこんなことかんがえるひとだったっけかな?”とか、

”こんなことに興味を持ったりもするんだ私〜へぇ〜”みたいなことって

皆さん経験があると思いますが、

そうやって考えると、”内的自分”とは、実に揺らぎがあるもので・動いていくもので・固定されていないもののように思われますがいかがでしょうか?

(ちなみにその反対は”外的自分”。それは名前・戸籍・大まかな見た目・属性等、変わりづらいもの、固定化されているものを指す)

 

でもこの謎も”星ベース”で考えると分かりやすく整理できるものなのかな、と思ったり。

 

みな、人というのはそもそも

10個の天体をその内にもつもの。

 

つまり人間という器のなかには10個の色・個性があるということ。

 

とすると、

「あーー今日はこの人の日なんだな」とか、

「あー今日はあの人はお留守で、逆に反逆の気質が表に出ているんだな」

というふうに自分の中の異なる個性の存在を受け止め、受容することができます。

 

ちなみに7つの個人天体と3つのトラサタ天体があり、それで合計10個なのですが、

トラサタは世代のものだからあまり影響はないかもと思われがちですが、私の研究によると、

その各自のトラサタ天体の”サイン”はさておき、”ハウス”においては結構な影響が出る!というのはアリアリかと思われます。

 

なので、10の天体のどれが今日は表に出てくるんだろう〜ワクワク!ぐらいで過ごしていくと、

”自分”とは〜という、あたかも”一人しかいない自分を探す旅”にでなくても、最初から自分なるものはいくつもの側面・顔があるものだから、その時々に浮かんでくる”自分・・・といわれるもの”を楽しめばいいジャーン!などと言えそうではないですか!?

 

 

要するに、

 

”あなたのパフェてどんな感じですか”

 

というのが自分というものの正体というか、

一つの捉え方かなと思っています。

 

「自分」と言われる器に「フルーツとチョコとクリスピーズとクリーム/チョコ」がどんなふうに重なり、

レイヤーとなり、地層みたいになっているのか。

 

例えば、

私であれば、

 

yujiパフェ = 山羊座(太陽)という器に水瓶座x2・天秤座x3・牡牛座x1・射手座x1・蠍座x1・(山羊座x1:太陽以外でも山羊座あるため)を盛られているもの

 

といった具合です。

 

太陽ですらも朝日と西日でその色・光り方が違うように、

人もその瞬間瞬間で”キャラ・表にみせる光”が変わってくるのは当然のことのように思いますがいかがでしょうか。

 

あ、そうそう、某漫画の某仙水なるキャラは、

7つのキャラをそのうちに持つ存在でしたが(彼の場合は多重人格という設定)

まさにああいう感じです。

 

その時その時によって、”キャラが異なる”、それはもちろん誰と対峙しているかとか何をしているか、というのもそうでしょうし、その日その日の天体配置によっても変わったり、誰といるか(結婚・付き合うなど)によっても変わってくるものかと思われます。

 

あー、今日はどんなパフェの味なんやろなぁ〜。

 

行き着くのはそこかぃ!

 

とおこられそうですが、

 

自分ってパフェなんやぁ〜

 

と捉えたほうが、

もっとイージーにでも面白おかしく人生を歩んでいけそうに思えますが、

いかがでしょう?