このあいだのインスタライブの際もお話しさせていただいたけど、

水瓶座=天才を最も排出する星座。

 

天才とは、、という定義が難しいこともあるので、(人それぞれだとも思うし)

そこについては細かくは触れないけれど、太陽が水瓶座に入る頃に

やたらと天才についての本を買ったり記事等を見ることが増えた。

そして天才と思われる人との出会いややり取りも増えている。

(星通りに廻っていてそれはそれで面白いと思う!)

その中で思ったのは、

 

天才であるがゆえに生じる孤独。

天才であるがゆえに感じる絶望というものがあるのだろうな、

ということを

天才なる、あるいみ人外なるものにあうたびに思う。

 

天才はその言葉の意味はさておき、

やはり何かにハイパー突出している才覚を持つものであることに異論はないと思う。

 

そしてその感覚や才覚、知性のようなものは”深すぎたり、高すぎたり、鋭すぎたり”して、周りから理解されることも

周りの人たちと同じ景色を見ることもおそらくないのだろうなとおもう。

 

白黒テレビと8Kテレビみたいなもの。(その時点でめっちゃレベルの差がある)

 

いや、それだとまだテレビという認識はあるから、

ちょっとそれも違うかもしれない。

 

teslaは60年代のガソリンカーに理解されない、的な感じかもしれない。

 

 

たとえば普通の人は、

添加物が入っている食べ物を食べても普通に美味しく食べられるかもしれない。

でも、味覚の天才は違う。

 

彼・彼女は食品、食べ物に入っているすべてのパーツ・構成要素を嗅ぎ分け、

素材を当てていくことすらできるかもしれない。

そういう人には日本や先進国での現代社会はきっと地獄だろう・・・。

食べられるものが少なすぎて、チョイスに困る。親しい人たちと会食もいけない等も起こり得る。

もしくは、食べられるものだけを食べていくとすると特に都市部ではコストがかかりすぎて

食事のコストが跳ね上がるだろう。

 

音楽の天才や音に敏感すぎる人は、

都市部の”経済合理性優先”or"実生活には全く関係のない生活ノイズ”には相当アンテナをやられる可能性もある。

 

人との境界について敏感な人はテーブルで隣に座った人からの波長ですら病んでしまうかもしれない。

 

 

天才とはたしかに育つものでもあると思う。(最近読んだ本にもそう書いてあった)

誰にも少ならからずそういう部分はある。

 

だれがいったか、子供はみんな天才だ。

 

ただ、

 

その天才性をみつけて”いかすもころすも”環境次第。

 

そして実は本人の能力によるところも大きいとも思う。

 

天才度合いとか何の分野の天才かによって”発揮されやすいところ”と”見つけてもらいやすいところ”、”評価を受けやすいところ”等に差があるので、どうしてもそういう差も生じてくる。

 

天才の個体差みたいなものとも言えるかもしれない。

 

そして天才中の天才というのも存在しているが、

そこまでいくと”神様と呼ばれる存在”(宇宙の法則みたいなものといってもいいかもしれないが)

が作ったこの世界の輪郭にふれることができるレベルだと思う。

 

そのレベルで世界を見ることができたならば、

おそらく絶望につつまれるかもしれないな、とも思う。

 

お金が〜

とか

恋愛が〜

とか

仕事が〜

とか

トレンドが〜

とか

健康が〜

とか

 

そういう”可変”パラメーターがあるから人生楽しいのだ。

 

ポーカーのように毎回回ってくる”手の内にあるカード”が違うから、楽しめる。

それがじきによってくるくると回る、健康の時期、家族の時期、お金の時期、

テーマごとの学びを深める時期がそれぞれに設定されていて、ルーレットのように

そこを順次埋めていく、学びを収めていく、

そういう可変パラメータをたのしんでいくのが人生であり、

魂の学びを深めていくということ。

 

その可変パラメーターがもつ”儚さ”とか”ゆらぎ”をどこか超越する、神の作った世界の輪郭に

触れる才覚があると”世界の狭さにがっかりする”なんていうこともあるのかもしれない。。

 

水瓶座を多く持つ人はおそらくこの傾向が強いはず・・・・・

 

エンタメの世界や色々な世界に虚無感を感じる。

 

その世界を延長させていくとどこにつながって、どこに到達するのか、

そこまで考えてしまうから、結局何もしない、何もできない、or奇抜な感じで発散を始める、

すごくオリジナルなことをして”周りから評価されない・されにくい”そういうこともあるだろう。

 

でもネット上や、すくなくとも発信新ている人たちの中にはそういう”奇抜もの”もいるかもしれないし、

理解者もいるかもしれない。

 

圧倒的なマイノリティだからこそ、なんらかの”場所が必要”だ。

 

そうすることによって、

天才が天災へと転じることも減り、(天王星もちのリバースエッジ。革命家の暴走)

仲間が増え、

コミュニティができ、

天才の孤独という表現が死後になる日も近づくのかもしれない。