人は往々にして形があるものに目を向けがちですが、

形がないもの、形として生まれる前のものにも

目を向けてみるともっとたくさんのコトをインプット・得られるはずです。

 

例えば、

私が毎日twitter上でつぶやいている”今日のほししらべ”。

 

あれも我々の地球のリズムを1日単位にフォーカスして要点のみをきりとって要約し伝えているにすぎません。

赤から青までのグラデーションの紙があったとしてそこをタイムラインが進んでいて、今日にあたるところを我々の意識が

通過する時にどういうことが体に心にフィードバックされるかそういうことを書いているだけなのです。

 

星も観ていますが、実は大いなる流れの方からのインプットの方がはるかに大きいです。

(だから星しらべ *調べではなく!(星のしらべ(音楽のイメージです・analyticsではなくて、メロディ、tuneのイメージです)

 

 

形として世に降ろされている”もの・こと”よりも、

宇宙という大河を流れるエネルギーをみること、

そしてそこに繋がるコト。

(それを古代中国ではタオ(道)といったのかもしれません)

 

それゆえ、型を重要視する西洋文明に対し、

東洋では形を最終形にしないものが多い気がします。

わび・さびと言われたり、zen的なマインドにも通ずるその思想は、外側に宇宙を見つけるものではなく、内在神との対話を目的とし、内側に宇宙を見つけるコトにあります。

お稽古ごと、習い事は、まず、宇宙への道を作季やすくするための準備段階とも言える”型”から入り、

その後、それを壊してみて、己と向き合い、そして完全なるオリジナルに達し(しがらみや自分にまとわりつくものを外していくコトで自己意識が消えていく)、無になり、宇宙と同一になる。いわば、宇宙がエゴになるのです。

 

武道や芸術等の〜道も、道がつくように、

それぞれの学び、修練、経験、積み重ねてきたもの、そういうものから

宇宙へと繋がるための道を得るための手段であり、

自己鍛錬、芸術性の発露であり、感性教育・鍛錬であるといえそうです。

 

〜〜道等でよく言われる、

守・破・離(しゅ・は・り)とはまさにその流れ、

宇宙へと繋がる道とその開通方法を表したものなのかもしれません。