先だってtwitter(https://twitter.com/yujiscope/)
にupしたツイート、
『幸せって?運命の人って』というサンタ・神様談義について。
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願い人A「サンタさん、私を幸せにして下さい!」
サンタ「ok! でも、幸せって何?」
願い人A「幸せ…うーん…」
サンタ「…え、わからんの?もしかして自分で言っときながらわからんの?」
願い人A「幸せって何ですか?教えて下さい!」
サンタ「…じゃあの…」…パカランパカラン(←トナカイの音)
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願い人B「神様、運命の人に会えますように!」
神様「ok! でも、運命の人ってだれ?どんな人?」
願い人B「運命の…うーん…」
神様「…え、わからんの?もしかして自分で言っときながらわからんの?」
願い人B「私にとって運命の人って誰ですか?」
神様「…じゃあの…」…ヒラリ(写真が落ちる音)
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この二つ。
いろいろな解釈ができると思いますが、
upした真意は二つ。
「幸せって?」
それぞれの各人にとっての幸せ像ってあるかもしれませんが、
そもそも幸せってなんでしょうか?
なにかがあるから幸せ?
何かを得たら、たとえば経済的な安定とか結婚できますようにとか?そういうのが”あれば”幸せ?
ではそれらがなければ不幸せ?
サンタさんは”幸せってなんですか?”なんていう”小マヌケ”なことをいう人の元から”じゃあの”って去っていきますが、
それはもうその人が幸せだから。
もうすでにあるものを”あげること”はできない。
そしてそれに気づいていないことからその場を去ったのです。
ある・ないの二元論からの脱却。
あるから〜
ないから〜
これがあれば〜
こういうイメージが〜
確かにそれも大事でしょう。
ただ、ただいまここを生きる。
今ここのマインドでいることができれば”幸せになる”というどこかメタフィジカルな概念に踊らされることなく、
真の自分を生き切ることができるはず。
それこそが真のあり方であり、他の誰にも生きることのできない自分らしい生き方のはずだからです。
幸せなんて手に入れるもんじゃない。
もうあなたのなかに自然にあるものだから。
そして
「運命の人」について。
運命の人は拡大解釈をしてしまえば出会う人全てが運命の人たちです。
全ては運命、因果律のシナリオ通りにことはすすんでいて、どちらに進んでも軌道修正の役目をもつ
ゲートキーパーが現れたり、レールに乗れば開運のブースターが現れたりします。
運命の度合い?のようなものこそちがえど誰一人欠けてもあなたの人生はあなたの人生でありえません。
ひどい別れをすることになる人も運命の人。
DVをしてくる人も運命の人。
小学校のクラスメイトも運命の人。
もちろんそれがある意味暴論なのは百も承知です。(全てが運命の人なんてありえない!)
でも運命の人なんていう淡い幻影に人生を振り回されるのではなく、直感で生きていれば
いわゆる”巷で言うところの”運命の人に会った時にはすぐにわかるはず。
それこそ運命の人たちが運命の人にめぐり合わせてくれます。
つまり運命の人に合わせてください!と懇願する”願い人B"はもうすでに出会っている多くの運命の人に対する
見方を変えることで本来の運命の人に会えるのです。
そしてその頃にはもう”運命の人バイアス”はマインドから消え失せているでしょう。
だれひとりかけてもあなたの人生のタペストリーは完成しない。
幸せも運命の人も、
概念としては面白いものです。
ただ、それに振り回されるのは考えもの。
今ここを一生懸命に生きる
やってくるサインを咀嚼して最も活躍できる場所で生きる
それこそが人生の進め方の王道であり、
神様と最強タッグを組める方法なのかもしれません。