当たり前だが、
小学校の教育の現場では
小学生vs大学生という学力バトルは行われない。
それがいわゆる”大人の実社会”に飛び込んだ瞬間に
モスキート級vsヘビー級のバトルが起きたりする、
会社 A vs 会社B のプレゼン合戦に”新入社員〜第二新卒までしかプレゼン要員にしてはいけない”なんていう決まりは
実戦にはない。
問答無用の実力社会、そこには個人の能力以上に政治力やいろいろなものが複雑に絡み、試合の舞台にすら立たせてもらえない、or勝負の前から結果は決まっているなんていうこともあるかもしれない。
例えば短距離型のボクサーなのに遠方からライフルで打たれる的な、
no mercyの異種格闘技戦がそこにはある。
「できる」ことをベースに人生の駒を進めてくると
上には上がいることをしって、絶対に越えられないような壁のようなもの、才能の限度みたいなものを知って、ショックを受けるかもしれない。
もしくは常に比べられること、勝負をすることに強烈なストレスを受けるかもしれない。
それに対して、
私はこれが好き、というのは”相対評価”ではない。
自分だけが持つ価値観、自分の、自分のための絶対評価だ。
他人が何を言おうと、私は〇〇○が好き。
私は何にはまっている、〇〇をしていたら朝昼晩ご飯すらもいらない、食べるのを忘れていた。
そういうことが言える人はある意味、今の時代、すごく幸せかもしれない。
もちろん好きこそ物の上手なれともいうので、やり続けるうちにとんでもなく上達したり、
自分流みたいなものが知らず知らずのうちにできていく可能性もある。
報酬となって帰ってこなくてもずっとやり続けることができるというのは、ある意味才能だ。
〇〇が好きで好きで仕方がない!
朝も昼もずっとそれを考えている!
そこには比較も、他者から見た自分像にこだわるエゴもない。
何の外的干渉もない世界。
そしてその世界の中にいるあなたとその”なにか”。
それこそがあなたの中にある今生を渡っていくための
聖剣そのものなのかもしれず、その最強の武器のありかは個人個人のホロスコープにしっかりと描かれている。