18年前、まだ欧州が共通通貨ユーロを導入する少し前、
人生で初めての一人暮らしに選んだ街、フィレンツェ。
日本の公教育では習わない言葉が主要言語のこの国、この場所を
選んだのは当時はあまり”意味”を感じておらず、体験入学で飛び込んだ学校の
校長の人柄とロケーション、諸々の感じが良かったからというのがメインの理由。
(校長の押しが強かったというのもある!)
もちろんフィレンツェという街がヒューマンサイズだからとか、
イタリア語の中でも標準語だと言われているのが
フィレンツェあたりのトスカーナ地方のものだとされているから、
とかそういう理由もあったような様な気もする。
日本のど田舎から華の都フィレンツェにきて、
イタリア語を学びながら、初めての一人暮らしを体験。
パスタを茹でる前に塩を鍋に入れることすら知らなかったし、
モカ(コーヒーメーカー)を洗剤で洗って怒られたこともあったような…。
当然、英語もろくにしゃべれなかったし、
イタリア語も最初は先生の名前すらわからなかったレベルだが、
なんとか一年を過ごし、それなりに喋れる様になった頃にミラノへと移ったっけ。
ミラノに移ってからは本格的に美大生”になり、イタリア中はもちろん、
世界各地からの学生たちとともに工業デザインとパッケージデザイン (MA)の勉強に励むことになるのだが、
ミラノに移ってからはまたどこかで綴るとして、
今回はフィレンツェの話をもう少し続けよう。
ちょうどイタリアに旅立つ時、
あれは08/25だったかと記憶しているけど、
今になって振り返ってみるとちょうどドラゴンヘッドが
リターンしていて(私のDHは獅子座で10ハウス)
天頂にいる時だった。
本当であれば3、4月に渡航することもできたのだが、
イタリアの学校の事情とvisaの都合もあり、
なぜか半年間のtransit期間、どこにも属さない何もしない
(本当にニートだった!)期間を経て、夏真っ盛りの暑い時期に
イタリアに降り立ったのを今でもよく覚えている。
なんのコネもなく、ただ語学学校とホームステイ先だけを決めて、
1年間のモラトリアム期間の間に語学を勉強しながら
ファインアートか彫刻かデザインか、何を専攻するかを決めてとりあえず
イタリアらしい”クリエイティブなこと”を深く学ぼうと思ってこの街に来たのだった。
1年の間、中世のまま時が止まった様なこの街、
フィレンツェの石畳の街を歩き、
バールにいってはバリスタのおじさんたちと喋り、
最初は全くしゃべれなかったので苦しい思いもしたが、
”OJT”的な形でイタリア語を覚えていき、
ミラノに移る頃には”フィレンツェアクセントのイタリア語をしゃべる日本人がいる”と
言われたりもして、異邦人な自分を楽しんでいたのは懐かしい思い出だ。
イタリア渡航の少し前、
当時、進学するにも”どうしてもこれがやりたい”というものにも出会えず、
仕事をするにも情熱を向けられることが見つからず、
エネルギーの矛先を失い、田舎の刺激レスな生活に限界を感じて”人生を根本からどうにかしたい”
と心の奥底からもとめた18歳の私は、フィレンツェの真ん中で過ごすうちに徐々に本来の自分らしさ、
生き生きした自分を取り戻していった様な気がする。
今覚えばフィレンツェステイは人生のカンフル剤だったのかもしれない。
言葉については、イタリア語でイタリア語を0から学んだので、当然思考パターンもイタリア語になる。
普段からほとんど日本人とは接していなかったからイタリア語/英語を共通言語として過ごす日々は
新しいパーソナリティを自分の中に作り上げていった。
その新しい自分はもはや過去の”しらけた自分ではなく
”イタリア人の様にとまでは言わないが、茶目っ気のある
なんともeasyな自分だった。
枠に当てはめがちな日本特有のあの空気から脱出し、
学生の身分をつかい休みを取ったりしながら旅をしたり、
外国人である特異性をうまく生かしながら現地の生活に馴染み、
自分にとって最も居心地のいい場所やネットワークを築いていったのを思い出す。
さて、フィレンツェと言えば、
ルネサンスが花開いた街として有名だ。
ダンテやブルネレッスキ、ダヴィンチやミケランジェロといったスーパースターたちが集まり
"rinascimento"(リナッシメント;イタリア語でreborn, rebirth)を果たし、
芸術の都としての礎を気付いた土地でもある。
芸術の再開発、新しい価値の創造、新境地を切り開いた街、そういうエネルギーが当時はここに
満ち満ちていたのだろう。
ちなみに私個人が持つ、DHは獅子座・10ハウスに位置していて、
まさに”花開くエネルギー”を示している。
その開花の場所としてルネサンス(santa maria del fiore(フィレンツェのドゥオモは花の大聖堂と言われる)
の中心地フィレンツェを選んだのはただの偶然ではないだろう。
西洋文化を語る上で絶対に外せない、メディチ家によって土台が作られた最重要地点フィレンツェとルネサンス。
西洋美術史において現代から見ると”折り返し点”といえるスポットに18歳の時(DHリターンの時)に呼ばれて、
濃密な1年間を過ごし、自分0%だった抜け殻のような”ジブン”から、自分100%になれた人生における重要な
トランジット期間を過ごした街フィレンツェ。
そういった経験からか今でも何かがあるとふとここに戻りたくなるものだ。
初めて降り立ってから20年近くが経った今でも当時から通っていたレストラン、バールは現存し、
当時と変わらないメニューやスタッフがそこにいて、1年に一回とか数年に一回帰るたびに
まるで一週間前に来た様に迎えてくれる。
色々なところに旅したし、他の街にも住んだりもしたが、フィレンツェは
今でも18歳当時の自分に戻れる数少ない場所の一つになっている。
今回は初めてきてからちょうど同じ星回りを迎えているということもあり、
(18年に一回しかないので次はまた18年後)
原点回帰というテーマのもと、
18歳の時に過ごしたトスカーナの街にきて、当時と同じ道を歩いたり、
よく通ったところに行ってみたりして
少年だった自分が何を感じていたのか思い出しながら街を散策してみた。
果たして、当時の自分はプロダクトデザインに従事しながらも
徐々に”ライフデザイン”の分野にシフトしていくことになる
人生の転換劇を予測していただろうか。
人生は万華鏡。何が起こるかわからない。
だからおもしろいのだが・・・。
革命の星天王星が動き、DHがリターンするこのタイミングで
ちょうど18年前にいた場所に来て、
当時の自分が未来の自分について想いを馳せていたように
これからの18年について思考を巡らせる。
”reborn・rebirthの街”にて花開かせるため、
大どんでん返しをするために
ここで一人静かにパワーチャージをしているのである。
人生で初めての一人暮らしに選んだ街、フィレンツェ。
日本の公教育では習わない言葉が主要言語のこの国、この場所を
選んだのは当時はあまり”意味”を感じておらず、体験入学で飛び込んだ学校の
校長の人柄とロケーション、諸々の感じが良かったからというのがメインの理由。
(校長の押しが強かったというのもある!)
もちろんフィレンツェという街がヒューマンサイズだからとか、
イタリア語の中でも標準語だと言われているのが
フィレンツェあたりのトスカーナ地方のものだとされているから、
とかそういう理由もあったような様な気もする。
日本のど田舎から華の都フィレンツェにきて、
イタリア語を学びながら、初めての一人暮らしを体験。
パスタを茹でる前に塩を鍋に入れることすら知らなかったし、
モカ(コーヒーメーカー)を洗剤で洗って怒られたこともあったような…。
当然、英語もろくにしゃべれなかったし、
イタリア語も最初は先生の名前すらわからなかったレベルだが、
なんとか一年を過ごし、それなりに喋れる様になった頃にミラノへと移ったっけ。
ミラノに移ってからは本格的に美大生”になり、イタリア中はもちろん、
世界各地からの学生たちとともに工業デザインとパッケージデザイン (MA)の勉強に励むことになるのだが、
ミラノに移ってからはまたどこかで綴るとして、
今回はフィレンツェの話をもう少し続けよう。
ちょうどイタリアに旅立つ時、
あれは08/25だったかと記憶しているけど、
今になって振り返ってみるとちょうどドラゴンヘッドが
リターンしていて(私のDHは獅子座で10ハウス)
天頂にいる時だった。
本当であれば3、4月に渡航することもできたのだが、
イタリアの学校の事情とvisaの都合もあり、
なぜか半年間のtransit期間、どこにも属さない何もしない
(本当にニートだった!)期間を経て、夏真っ盛りの暑い時期に
イタリアに降り立ったのを今でもよく覚えている。
なんのコネもなく、ただ語学学校とホームステイ先だけを決めて、
1年間のモラトリアム期間の間に語学を勉強しながら
ファインアートか彫刻かデザインか、何を専攻するかを決めてとりあえず
イタリアらしい”クリエイティブなこと”を深く学ぼうと思ってこの街に来たのだった。
1年の間、中世のまま時が止まった様なこの街、
フィレンツェの石畳の街を歩き、
バールにいってはバリスタのおじさんたちと喋り、
最初は全くしゃべれなかったので苦しい思いもしたが、
”OJT”的な形でイタリア語を覚えていき、
ミラノに移る頃には”フィレンツェアクセントのイタリア語をしゃべる日本人がいる”と
言われたりもして、異邦人な自分を楽しんでいたのは懐かしい思い出だ。
イタリア渡航の少し前、
当時、進学するにも”どうしてもこれがやりたい”というものにも出会えず、
仕事をするにも情熱を向けられることが見つからず、
エネルギーの矛先を失い、田舎の刺激レスな生活に限界を感じて”人生を根本からどうにかしたい”
と心の奥底からもとめた18歳の私は、フィレンツェの真ん中で過ごすうちに徐々に本来の自分らしさ、
生き生きした自分を取り戻していった様な気がする。
今覚えばフィレンツェステイは人生のカンフル剤だったのかもしれない。
言葉については、イタリア語でイタリア語を0から学んだので、当然思考パターンもイタリア語になる。
普段からほとんど日本人とは接していなかったからイタリア語/英語を共通言語として過ごす日々は
新しいパーソナリティを自分の中に作り上げていった。
その新しい自分はもはや過去の”しらけた自分ではなく
”イタリア人の様にとまでは言わないが、茶目っ気のある
なんともeasyな自分だった。
枠に当てはめがちな日本特有のあの空気から脱出し、
学生の身分をつかい休みを取ったりしながら旅をしたり、
外国人である特異性をうまく生かしながら現地の生活に馴染み、
自分にとって最も居心地のいい場所やネットワークを築いていったのを思い出す。
さて、フィレンツェと言えば、
ルネサンスが花開いた街として有名だ。
ダンテやブルネレッスキ、ダヴィンチやミケランジェロといったスーパースターたちが集まり
"rinascimento"(リナッシメント;イタリア語でreborn, rebirth)を果たし、
芸術の都としての礎を気付いた土地でもある。
芸術の再開発、新しい価値の創造、新境地を切り開いた街、そういうエネルギーが当時はここに
満ち満ちていたのだろう。
ちなみに私個人が持つ、DHは獅子座・10ハウスに位置していて、
まさに”花開くエネルギー”を示している。
その開花の場所としてルネサンス(santa maria del fiore(フィレンツェのドゥオモは花の大聖堂と言われる)
の中心地フィレンツェを選んだのはただの偶然ではないだろう。
西洋文化を語る上で絶対に外せない、メディチ家によって土台が作られた最重要地点フィレンツェとルネサンス。
西洋美術史において現代から見ると”折り返し点”といえるスポットに18歳の時(DHリターンの時)に呼ばれて、
濃密な1年間を過ごし、自分0%だった抜け殻のような”ジブン”から、自分100%になれた人生における重要な
トランジット期間を過ごした街フィレンツェ。
そういった経験からか今でも何かがあるとふとここに戻りたくなるものだ。
初めて降り立ってから20年近くが経った今でも当時から通っていたレストラン、バールは現存し、
当時と変わらないメニューやスタッフがそこにいて、1年に一回とか数年に一回帰るたびに
まるで一週間前に来た様に迎えてくれる。
色々なところに旅したし、他の街にも住んだりもしたが、フィレンツェは
今でも18歳当時の自分に戻れる数少ない場所の一つになっている。
今回は初めてきてからちょうど同じ星回りを迎えているということもあり、
(18年に一回しかないので次はまた18年後)
原点回帰というテーマのもと、
18歳の時に過ごしたトスカーナの街にきて、当時と同じ道を歩いたり、
よく通ったところに行ってみたりして
少年だった自分が何を感じていたのか思い出しながら街を散策してみた。
果たして、当時の自分はプロダクトデザインに従事しながらも
徐々に”ライフデザイン”の分野にシフトしていくことになる
人生の転換劇を予測していただろうか。
人生は万華鏡。何が起こるかわからない。
だからおもしろいのだが・・・。
革命の星天王星が動き、DHがリターンするこのタイミングで
ちょうど18年前にいた場所に来て、
当時の自分が未来の自分について想いを馳せていたように
これからの18年について思考を巡らせる。
”reborn・rebirthの街”にて花開かせるため、
大どんでん返しをするために
ここで一人静かにパワーチャージをしているのである。