622年聖徳太子(厩戸皇子)が死去した後
天皇以上に権力を持ったのが蘇我馬子です
626年に馬子が死去すると息子の蝦夷が
大臣を継承します
628年に推古天皇が皇位継承者を指名せずに
亡くなり豪族間で継承者争いが始まりました
蝦夷は聖徳太子の子、山背大兄王が皇位に
就かぬよう田村皇子(後の舒明天皇)の即位を
進めましたが舒明天皇(じょめいてんのう)も
641年に継承者を指名せずに亡くなり
舒明天皇の皇后「宝皇女」を一時的に
皇極天皇として即位させます
その後、入鹿は舒明天皇の第一皇子
古人大兄皇子(ふるひとのおおえのみこ)を
次期天皇に擁立しようと画策しますが
反対勢力が山背大兄王(やましろのおおえのおう)
を推して継承者争いが始まります
入鹿は山背大兄王を斑鳩宮で襲撃し
山背大兄王は生駒山に逃げますが
飛鳥宮(飛鳥寺)に戻り妻子と共に自害します
これに対して古人大兄皇子の異父弟だった
中大兄皇子と神祇官長官の息子の
中臣鎌足たちが天皇を中心とする
国家体制を目的に入鹿暗殺計画を立てて
645年7月10日に乙巳の変が起こりました