す本丸南西の石垣は約40mも延びて


南局(引局)の西側まで続いています


高さは8mを越えていて小田原征伐以降


佐野房綱が豊臣秀吉に仕えた事から


西日本の石垣技術が導入されて


築かれたと思われます


佐野昌綱の後を継いだ佐野宗綱は


常陸国の佐竹氏と同盟を結び北条氏と


戦い続けていましたが宗綱が戦死すると


1587年に北条氏康の子、氏忠を佐野氏の


当主に迎えて北条氏の傘下に入ります


これに反発した昌綱の弟の佐野房綱は


出奔して豊臣秀吉に仕え1590年の


小田原征伐では佐野房綱は唐沢山城を


接収し北条氏忠は秀吉の命令で


高野山に追放されます


1593年豊臣氏家臣の富田一白の二男(五男?)


富田信種を養子に迎えて秀吉の「吉」の


字を一字拝領(偏諱へんき)し佐野信吉と


名乗り佐野信吉が当主となります


1600年の関ヶ原の戦いで信吉は


徳川家康方に付き3万3千石の旧領を


安堵されて佐野藩藩主となりました