山中城の土塁は他の城と比べると
少し低い土塁となっています
この土塁は上に乗って戦うのではなく
弾除けの土塁と言えます
先込め式の火縄銃は弾込めに時間がかかり
その間は無防備になる為、土塁越しに
撃ったら頭を土塁に隠して弾込めし
準備が出来たら再び土塁越しに撃つと言う
戦法でした。
おまけに畝堀が敵兵を留めておくと言う
組み合わせでしたので敵兵にとっては
大きな脅威となっていたはずです
大手口攻略の担当をしていた一柳直末は
この戦いで戦死しています
一方中村一氏は豊臣秀次の直轄の武将で
3月29日の戦いでは岱崎出丸の攻略を
担当していました。その中村隊にいたのが
渡辺勘兵衛了(さとる)と言う武士で
渡辺勘兵衛が大手口の前にたどり着いた時
そこには数十人の死傷者がいたと
記録されていますが突入に失敗した
一柳直末隊の兵士たちで埋まっていたそうです
渡辺水庵覚書の中に記されています