1714年七代将軍家継の生母月光院に
仕えていた御年寄の江島(絵島)と
同じ年寄の宮路は共に前将軍家宣の
墓参の帰りに生島の芝居を見物
その後、生島を招いての宴会に
夢中になって門限を破ってしまいます
しかし門限が審理されたのではなく
大奥の規律の緩みが重要視され
評議所は江島を死罪としましたが
減刑されて、高遠藩預かりになります
江島との密会を疑われた生島は
三宅島に遠島となりますが
1742年に徳川吉宗により赦免され
江戸に戻りますが翌年73歳で死亡しています
ただ生島は三宅島で死に墓もあると言う
説もあり、どっちが本当なの⁉️
高遠藩には江島の取り扱いの文書が
出されていました。
27年の幽閉で61歳で亡くなりました
紙も硯もダメと言う厳しさでした