「子供の教育と大人の教育」-2 | ueno63jのブログ

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 人間はより楽な方に、より簡単な方に引かれて行く傾向を持っています。この傾向に自ら進んで歯止めをかけ、自分にとって必要不可欠なもの以外のものは極力カットするという生活を実際に行っている人は決して多くはないでしょう。でも、以前に僕が訳してみなさんにお示ししたハウジンガ先生の文章にもあるように、本当の文化、敢えて言いかえれば本当の「文化人」を作るにはこのストイックな発想が絶対に必要なのです。「足し算」ではなく「引き算」の発想です。これが生活化されていることが前提条件なのですが、現在の日本はこの「引き算」の発想が極めてしにくい環境になっています。あまりにも便利でサービスされ過ぎている環境だからです。まして今の若い世代は、生まれた時からそういった恵まれた環境が周囲にあるのが当たり前で、自分に敢えて歯止めをかけるという訓練がなされていません。ですから、自分自身で自分の存在意義や存在している意味を問いかける習慣が以前の時代に生きていた人びとに比べて少ないのです。だから白紙の状態から何かをつかもうという意欲(いわゆるハングリー精神です)が少ないのです。僕の言う「学習意欲の弱化」というのはこれです。

 それが2項の「将来の目標設定の弱化」を引き起こします。一般的に自分の目標設定が弱い人に共通しているのは、「どうせ自分にはこれくらいしか出来ない」と、自分の可能性にあきらめの思いを持っていることが挙げられます。恵まれた環境で育ちながら、自分で自分を確かめたわけでもないのに、ちょっと誰かから批判されたりやろうとしていたことに行き詰まったりしただけで、簡単に自分の可能性や夢をあきらめてしまう。ドラマなどではよく「夢を持とう」だとか「夢に向かって」などと言っていますが、現実に教室で夢の話をしても、自分の夢を具体的に、自信を持って語ってくれる学生や生徒はほとんどいません。常に接してとっても親しくしている学生であるにもかかわらず、です。みんなどこかに「あきらめ」の思いが隠れていて、「夢なんか話してもどうせ夢で終わってしまうんだろう?」といった、へんに冷めたものが伝わって来るのです。まあ、恥ずかしがりの日本人(実はこれこそ、僕が日本人の持つ特性の中で最も問題のある部分だと思っていることなのですが―後述)のことですから熱く夢に対して語ることをへんに恥ずかしがって消極的になっている部分もあるとは思いますが。

 目標を設定するというのはとても勇気のいることです。それ以後の自分の生活、自分の価値観を、その目標に向けてセットしなければならないからです。途中で辛くても嫌になっても、自分との約束を守る、という毅然とした態度が求められます。お分かりでしょうか? 目標設定が弱くなっているというのは、一つには環境が恵まれ過ぎていて選択肢が多過ぎ、どれを選ぶかに迷うということや迷わずともえり好みさえしなければ何でも簡単に出来るチャンスがある、という社会のあり方に原因があるのですが、もう一つ、より重大な原因としては、日本人全体が恵まれ過ぎた環境で生活するうちに「甘えん坊」になってしまっていることが挙げられるのです。目標を設定して、そのために「ありのまま」ではない、何かを犠牲にするような生き方はしたくない、と考える人が確実に増えているということです。自分からそんなしんどい、「損な」生き方をしなくても、それなりに「そつの無い」生き方が出来ればいいじゃないか、と。

 まあ、生き方は個人の問題ですから、その生き方を僕が勝手に否定するのは失礼かも知れません。でもこのような発想が単に個人の範囲で終わっていれば全く問題は無いのですが、このように考える人の数が爆発的に増えて社会化すると(そして現在の日本はまさにこうなっているから問題なのです)、大きな社会問題を引き起こすようになるのです。

 自分から積極的に自分を振り返り、無の状態から自分を作り上げて行こうという「学習意欲」も無く、さらに社会が恵まれていようがどうであろうが自分の目標を真っ直ぐに見据えてストイックに自分を磨いて行く(あるいは追い込んで行く)という生活態度も無く、ただ社会が与えてくれるものを無意識に享受し(受身の生活、まさにおっぱいをねだる赤ん坊と同じです)、しんどいことは極力避けようとする「甘えん坊」が周囲に充満して来るとどうなるか?

 ハウジンガ先生は『あしたの影の中で』(ブログに掲載しています)でおっしゃっています。「適切なことと不適切なことに対する感覚の欠如、人としての品性の欠如、他人や他の意見に対する敬意の欠如、自分の人となりに対する過度の専念」といった、「永遠の未成熟期」と呼ぶべき特徴を帯びるようになるのだ、と(『あしたの影の中で』、ⅩⅥ「ピュエリリスム」(幼稚性))。まさにそうなのです。それが僕の示した3項「他人の立場や事情からものを考える想像力の欠如」ということです。「いじめ」などまさに典型的なことでしょう。いじめられている人の気持ちや立場を想像出来ず、ただ自分が見て嫌いなヤツだから、なんとなくウザいから、といった、極めて自分勝手な理由で他人を傷つける…。

 現代日本人は、その発想がほぼ全て「自分」を主語にした発想なのです。「私は」これが好きだとか「オレは」こいつが嫌いだ、とか。自分にしか関心が無い。その関心がプラスの関心であれマイナスの関心であれ、です。