上田です。

9月14日の「日刊タイビジネス」に掲載されたエッセイを許可を得て、転載します。一部、修正を加えています。


明日から秋学期開始。

2回生のメンバーも決まり、新たな気持ちでゼミに取り組みます。



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これまでのタイを特徴づけてきたのは、継続性ではなかろうか。過日、「継続」と「革新」をテーマにタイの政治経済について講演する機会を得て、タイが他のASEAN諸国と比べると継続性の強い国であることに気が付いた次第である。



ここでいう「革新」とは、それまでその国を規定していた基本的な制度が崩壊し、根本から新制度を構築する等の大きな変化を指している。「断絶」と言い換えてもいいだろう。


たとえばインドネシアのように宗主国との独立戦争を経て独立を勝ち取り、新しい国づくりに着手する、あるいはスハルト大統領という長期独裁政権が崩壊したのちに、混乱を経て新しい政治体制を構築する等の変化があげられる。



確かにタイの近代史を振り返ると、タイも節目となる変革を経験している。たとえば1932年の立憲革命により絶対王政から立憲君主制に移行したことがそれに相当しよう。絶対王政の終焉による王室権威の失墜は、タイの歴史上、大きな変化であったはずである。



しかし、王室の権威は、1940~50年代のクーデタによって政権を掌握した軍人たちによって、復活する。軍人たちがクーデタという違法行為を正当化するために、王室のお墨付きを必要としたからである。


さらに、1973年の10月14日事件は、一般的には、学生デモが民主化を推し進めた事件とされているが、実はこれを機に、国王の政治関与が始まったという。同事件には、軍依存から脱却を図りたい国王の意向が反映されており、いわば軍の協力を得て王室が促進した「民主化」であったからである。


そしてこれ以降、国王が国政に影響力を行使するという体制が現在まで継続することとなった。一般の日本人になじみ深いタイ国王像、つまり「政治的な対立が生じると、国王が仲裁に入り、混乱を鎮める」という「国父」としてのイメージは、この継続性に基づいて作り上げられたものである。



国王を頂点とし、それを上流階級としての軍と官僚が支えるという体制は、1980年代に強化された。そして、この政治的安定を背景に1980年代のタイは、経済成長を達成する。その過程で誕生した都市中間層は、この政治体制の支持者に加わり、同体制はさらに盤石なものとなった。



この強固な体制に揺さぶりをかけたのが、農村部の圧倒的な支持を得て2001年に政権の座に就いたタックシンである。それまでの体制は、都市部の上流階級と中間層にとって都合の良い体制であり、農村の人々と都市貧困層には、政治に参加する機会は与えられていなかった。


それまで維持されてきた都市と農村のある種の均衡状態が、タックシンの登場によりバランスを失い、農村部の人々・都市貧困層を巻き込んで、タイの政治は不安定な時代に突入した。この意味で、タックシンは大きな「変革」をタイ政治にもたらした「変革者」といえよう。



私の知人に、熱烈な黄色シャツ(反タックシン派)支持者の大学人がいる。その知人の言葉を借りるならば、農民は「教育のない、馬鹿」であり、「モノを知らない」存在であるという。従って、彼らの支持を得て首相の座に上り詰めたタックシンは許容しがたく、「タイには民主主義はなじまない」とまで主張する。



タックシンは、結局2006年、軍のクーデタにより、政権の座を追われた。国王に近い軍人筋からの指示により軍が行動を起こしたとされる。しかしながら、2007年に実施された総選挙では、再びタックシン派政党が第一党となり、2008年にはタックシン派政権が誕生する。


しかし、同年、この政権も追放の憂き目にあう。ただし軍隊の力ではなく、憲法裁判所の判決という司法の力によってである。選挙でタックシン派に勝つことがかなわない反タックシン派が、体制を維持するために司法権力を乱用しているのである。



インラック政権が昨年の8月に誕生して、1年が経過した。同政権に対する国民の評価は高く、選挙が実施されれば、勝利は確実といわれている。これに対して司法の力を使って自らに都合の良い判決を下し、体制維持を図ろうとする反タックシン派。現在のタイ社会に、ゆゆしき不平等が存在することは、たとえ農村の人々がどんなに「馬鹿」であったとしても理解できよう。


あるタイ人政治学者は、「農村の人々は、タックシンを利用して、政治ゲームに参加することを選択した」という。そうであるならば、タックシンのみならず、この社会的不平等を正すことを目的とする赤シャツの運動は、タイに「革新」を引き起こす可能性を秘めているといえよう。


どうも。数少ない体育会系上田ゼミ生、3回生の石井です。

みなさんゼミ説明会、あと今頃ですが合宿お疲れ様でした。
日頃の飲み会にはほとんど参加できてないうえに(最初の一度だけですね)、挙句の果てに合宿まで不参加という離れ業を成し遂げてしまった僕です。特に同じディベート班のみんなには迷惑かけました。
石井はなにしとんねんー、とみなさん思われているはずなので弁明の意味もこめてブログを書きます。学術的な記述はゼロです。このページに似つかわしくない内容だったら先生ごめんなさい。ごめんなさい。


さて、夏休み!
海や山や旅行やインターン等々、みなさんの充実振りはfacebookなどで拝見させていただきました。
さて僕といえば……はい、山には行きました。走りに。夏休みの50%ぐらいは京都の猛暑を避けて、高地トレーニングを行っておりました。長野県菅平に10日間、実家の山梨県小淵沢に2週間ほどです。
実家が高地トレーニング?私の家ですが、標高1100mほどの山岳地帯にあります。人口も5000人ぐらいで四方が山や森に囲まれた“ど”が3つくらい付く田舎です。
非常に涼しかったために、調子にのって最高一日で53kmほど走りました。
正気沙汰ではないですね。ちなみ53kmというと、直線距離ならば京田辺から神戸市ぐらいまでいけます。

なぜこうも走り回っていたかというと、9月9日から国立で行われた全日本インカレに出場するというビックなイベントがあったからです。全日本ということもあって、気持ち悪いくらい足の速い連中しかいませんでした。山梨○院大のケニア人選手には周回遅れくらいました。人間の動きとは思えぬキレキレの走りで、バテバテの僕を抜き去っていきました。
結果はとにかくボロ負けでした。5000mと10000mの2種目に出場したのですが、両種目とも後ろから数えたほうが大分早い、といった感じでした。
とは言え、もう一年チャンスが残っています。もう一度ケニア人目指して頑張ってみたいと思います。


そんなこんなでゼミの催しには全く参加できませんでした。ごめんなさい。
秋からは飲み会もできるだけ行きます。実はお酒は結構好きです。ちなみに部のOFFが基本月曜日なので、ずうずうしいですが月曜日にセッティングしてもらえればありがたいです。
田舎が恋しくなったら、たまには京田辺でも飲み会やりましょう。めんどくさいとか言わないでください。それなら僕もふらっと行けますので。


では残り少ない夏休みをどうか有意義に。

お久しぶりです。ナメカタです。夏休みももう終わりですね。
タイに研修旅行に行った人もいたようですが、自分は東京や広島などに行っておりました。


それとは全然関係ないんですが、先日、新祝園の近くにある国立国会図書館関西館に行ってきました。
聞いたのある方も多いかもしれません。日本全国の書籍や統計、学術的な雑誌などがすべて集められているという図書館です。

$同志社大学経済学部上田ゼミのブログ-国会図書館

館内は撮影NGでした。また貸し出しも不可で、館内での閲覧のみ。館内に持ち込める荷物にもかなり制限があります。が、なぜかノートパソコンはOKでした。また、館内で有料のコピーが可能です。


開架されている(自分で取れる)本はそんなに多くなく、基本的には書庫にある本を取ってきてもらうことが多いのですが、それでもとんでもない品揃えでした。とくに統計出版物が豊富で、数万円もするのでバイト代で手が出せないものや、大学の図書館にすら無いものも多くありました。
また、和書、洋書はもちろんのこと、中国語・韓国語の書籍も充実しているようでした(自分では全然わからなかったけど)。

これで人口でもGDPでも国家予算でも調べ放題です。ディベートのために最初からここに来るべきでした。そして、京田辺にいた間にもっと利用しに来るべきでした。



多分ゼミ生の人はなんとなく聞いたことはあると思うんですが、京田辺~奈良市北部~枚方・四條畷の辺りは関西文化学術研究都市といい、さまざまな企業や大学の研究・研修施設が密集しています。関西外大、阪大、大阪電通大、京都府立大学など。同志社大学と同志社女子大学の京田辺キャンパスもその一つです。
企業では東京海上日動火災保険、島津製作所、福寿園、パナソニック、NTT、オムロン、ロート製薬、積水ハウスなど。
あとはさまざまな財団法人などなど。
正直なところ、経済学部にとっては馴染みのないものもあるかもしれません。
しかし、(いつもは奈良までの通り道でスルーしてしまうことも多い学研都市ですが、)日本企業・社会を支える最先端技術は、こういった学術研究地域に支えられているのだと思いました。


$同志社大学経済学部上田ゼミのブログ-カード
登録利用者カードを作ってみました。卒業までに何度かは利用したいと思います。