日本と大分と指原莉乃の左翼的考察|ケンケンのブログ -75ページ目

【吉岡秀人さん講演会】

僕の若い友人が懸命に取り組んでいることを紹介します。

以下、転送歓迎のお知らせメールをブログ向けに編集したもの。

 ミャンマーなどで無償無給の医療活動を続ける小児外科医・吉岡秀人さん。

最近、新聞やテレビで取り上げられることが多いですが、2011年1月16日(日)午後11時~OBS「情熱大陸」に出演します。同番組出演はなんと3度目!!若者を中心として根強い人気を誇る同番組史上、初めてのことです。
「情熱大陸」の動画はこちら http://synopsises.blogspot.com/2010/01/blog-post_1518.html

 「医療のあるべき姿」を追い求める吉岡さんは、実は大分大学医学部出身なのです。その吉岡さんがこのたび初めて大分で講演会を開きます。講演のテーマは、「いのちの大切さ」。医療関係者や学生にはぜひ聴いていただきたいと思います。

 詳しくはブログを見てください。→(吉岡秀人さん講演会実行委員会のブログhttp://blogs.yahoo.co.jp/judicial1983scrivener
 

【吉岡秀人さん講演会】
タイトル:「大分の人に贈る“いのちの授業”~私の出会った“いのち”の記憶」
日時:2月13日(日)13時半開演
場所: 大分市 のコンパルホール(限定500席)
入場料:500円
問い合わせ先:「吉岡秀人さん講演会実行委員会」・羽山(judicial1983scrivener@yahoo.co.jp)

 入場料500円はかなりお得ですし、十分聴く価値のある話をしてもらえると思います。
気になる方はメールをください。



活弁上映会へのお誘い

大活弁上映会
11月28日(日)19:00開場 19:30開演
大分市コンパルホール4F集会室
活弁士 麻生八咫(あそうやた) 
前売り2000円 当日3000円

↓チラシはこちら
ケンケンのブログ


上映演目
「坂本龍馬」昭和3年35分
監督/枝正義郎 主演/阪東妻三郎
「豪勇ロイド」大正11年 16分
主演/ハロルド・ロイド
「国定忠治」大正13年 14分
監督/マキノ省三 主演/澤田正二郎
※ワークショップあり

問い合わせ、チケット販売は、主催の都町フラミンゴ(097-532-0019 昼間は097-536-3833)まで。

チケットは、僕も扱っています。
肝心の僕が行けないのですが(苦笑)、こんな面白そうな企画で赤字を出すともったいない!と思って応援しています。



若い人は活弁ってわかるのかな?



※活弁(用語説明)
活弁とは、無声映画の時代に、日本では映画(活動写真)上映時に弁士さんがついて、講談よろしく肉声による解説をつけたもの。トーキー(音声つき映画)の登場とともに廃れていきました。
「龍馬危うし!果たして、日本の夜明けは来るのでありましょうか?」といった感じ?
映画が発明された欧米では、無音で上映していたそうです。解説としては字幕でじゅうぶんだったようです。講談とか落語の文化のある日本人は、それでは物足らなかったのでしょうね。講談風の解説を横で生の声でやる、という活弁の文化が発達しました。
これが、トーキーになると、外国語映画には日本人の俳優・声優さんによる日本語吹き替えをつける、という発想に直結したそうです。字幕の文化圏では、自分たちの言語の音声をつける、というのは思いつかなかったそうです。世界に冠たる日本の声優文化の源流が、活弁の文化なのだそうです。

映画『キャタピラー』 かけこみセーフ。

映画『キャタピラー』を見ました。たぶん、明日(9/17)で大分での上映もおしまいなので、かけこみセーフ。
『赤軍-PFLP』を監督した若松孝二さんには、それだけで僕には偏見があります。1980年代末に『赤軍-PFLP』の上映会が、1年間に複数回催されるという、異常な大学に学生として在籍したことに由来するものなのでしょう。でも、ベルリン映画祭主演女優賞と監督賞の受賞作品で「反戦」を触れ込みにしているとあらば、見ておかなければいけない、と思いました。80年代後半とは時代も変わりました。批判したいのなら、なおさら見ておかねば、とも思いました。

「戦争の悲惨さ」という手垢にまみれた言葉では表現できないような、いろいろなことを表現した映画でした。
生きていくことは、きれいごとではすまない。俗に三大欲求といわれる、食欲、睡眠、性欲については、特にそうです。加えて、人として認められたい・褒められたいという欲求も「社会的本能」といっていいと思いますが、これもきれいごとではすまないこと。
このきれいごとですまないことを、きちんと描いたところにこの映画のすばらしさがあります。特に、性欲について逃げなかったところがすごい。
性欲について逃げなかったことを、若松監督の経歴(かつて、ピンク映画で有名だった。「映画斜陽の時代」は、若手映画人はピンク映画にしか活躍の場がなかったとしても、フリーセックスの主張も若松監督は入れたらしい)から考える方は多いでしょう。僕も、性をタブーにしなかったのには、その経歴が影響しているとは思います。しかし、『キャタピラー』の性表現はピンク映画のそれとは正反対のところにあります。ここに『キャタピラー』の真骨頂があると言っていいほどに。
舞台を農村に設定したことも、僕は成功していると思います。空襲におびえることのない静かな生活。美しい情景描写で季節の移り変わりを示し、それによって時間の経過を説明する手法。絶対的な飢餓に陥った都市とは違った、食料不足を表現することで、物資不足のあり方に共感しやすくなっているという効果。知的障害者の配置のしかた。一軒家同士が離れているためにできあがる「開放的な密室」。
戦時の農村としての本音と建前は別のところにありますが、これはこの映画のテーマではないから、それは問題にすべくもありません。
個人的に興味を引かれたのは「ご真影」の扱い。僕の認識では、戦前や戦時中は、誰でも彼でも「ご真影」の所持が許されたわけではありません。「ご真影」を下賜されること自体が、大事な栄誉だったのです。その「ご真影」を、たびたび映すことの意味を、その若松監督の意図をかみしめたい。
この映画にきれいごとがあるとすれば、加害の記憶があの登場人物のトラウマとなっていること。これは、あの人が根は優しい人だったのだと解釈しようと思います。
それから、あの人の戦後を見せなかったのも、安直な演出だと思いました。僕はあの人が戦後をどう生きたのかを見たかった。主人公(寺島しのぶさん)が「一緒に生きていこうねぇ」と言っていただけに。

で、エンディングテーマは元ちとせさんの歌う「死んだ女の子」これが泣かせるのです。↓


原曲はピート・シーガーが歌って有名になったもので、原詩は英語。日本では、高石友也さんが歌っていたようです。ベトナム戦争中の反戦歌として歌われたものです。パンフレットで若松監督は、この曲の存在を寺島しのぶさんの事務所の社長さんから聞いて知ったと言っていますが、ピート・シーガーや高石友也さんの歌を若松さんが知らないはずはないので、たぶん元ちとせさんバージョンの存在のことなのでしょう。
僕は、平和歌集といったタイトルの本で、歌詞は読んだことがありました。しかし、歌として聴いたのはこれが初めて。映画館の窓口の方は、「サントラには入っていなくて、元ちとせさんのアルバムには入っています」とのこと。で、CD店に行くと『Orient』と『ハナダイロ』の初回限定盤のみにボーナストラックとして入っていて、CD店ではもう売っていないとのこと。
ヤフオクで買うぞ!

「韓国併合」100年を考えるつどい

8月29日で「韓国併合」から100年

「韓国併合」100年を考えるつどい


8月29日()午前10時~

会場 けんせい歯科2階会議室(大分市古ヶ鶴1-4-1)

報告者 「walk9/韓国巡礼」参加者

ホームページ http://www.minamoto-life.com/walk9 /
     ブログ http://ameblo.jp/walk9-korea


報告後、質問とフリートークの時間


1910年8月22日に「韓国併合条約」が日本の強制によって調印され、これが29日に公布されることで、韓国という国家が地球上から消滅しました。

 私たちは、「韓国併合」一〇〇年の節目に、その意味を考えたいと思います。



主催  「『韓国併合』を考えるつどい」実行委員会
(お問い合わせは私まで)



読売新聞西部本社とのやりとり~「赤とんぼの会」意見広告をめぐって~

大分の平和団体赤とんぼの会 が、2010年も8月15日付主要5紙大分版に意見広告を出しました。千数百人に及ぶ賛同カンパを集めてのこと。今年で28年目です。カンパを寄せた人びとのお名前が小さな文字で印刷されています。共産党や社民党や市民派の地方議員や、各種運動団体の幹部といった有名人から、無名の人びと(本名で出している人も、面白いペンネームで出している人も、匿名の人も)も、まったく対等に党派を超えて名前が並びます。毎年、「今年もすごいねえ」と思って、拍手しています。
 今年は「非武装・不戦の憲法九条を28年目の今年も広告します!!」の大見出しの全面広告。一見、つつがなく見えます。
 しかし、今年は読売新聞掲載の広告に異変です。全面広告の下方の記事に異変です。
 以下に、コピーを載せます。上が大分合同新聞掲載のもの。これは、西日本新聞、朝日新聞、毎日新聞掲載のものとまったく同じです。
 下が読売新聞掲載のもの。違いますよね。

ケンケンのブログ-大分合同新聞100815掲載

ケンケンのブログ-読売新聞大分版100815掲載









 2010年8月16日午後、「赤とんぼの会」の意見広告について聞きたい、と福岡にある読売新聞西部本社(代表電話092-715-4311)に電話しました。以下はそのやりとりの要約です。

 最初に出たのは「広告部」の若い男性(名前は記憶していません)。「赤とんぼの会」がどんな意見広告を出しているのかも知らない様子だったので、「わかる人を出してください」と言いました。大分の担当者が昼休み中で不在だということで、名前(求められてはいませんがフルネームを名乗りました)と電話番号を告げて折り返し電話をいただくことにしました。
 その後、広告第二部のワタナベさん(漢字でお名前を確認することはしませんでした)から電話がありました。削除を求めた理由を聞いたところ、「情報に根拠がない」と言いました。「AFP、ザ・ボイス・オブ・ロシア、新華社、UPIは、根拠のない情報を報道しているという意味ですね?これらの通信社の配信記事は信用できないと?」と聞き返すと、たちまち返答に窮しました。そうだとは言えませんでした。「元の情報源とニュアンスが違うのでは」といったことを言うので、「あなたは元の情報源に何と書いてあったのか、ご自身で確認されたんですか?」と言うと、「いえ、推測です」と言います。「根拠がないというその根拠は?」と聞いても答えられません。「ここの部分は日本のメディアが報道しないことへの批判が含まれています。自社の報道への批判だから載せないんですか?」と言うと「そんなことはないです」と言います。「社論への異論は意見広告でも載せたくないから、いろいろと口実をつけてイチャモンをつけているんでしょ?」と言うと「そうではありません」と言います。「では、納得できる根拠を出してください」と言うと、前述のことに類する推測とか想像ばかりです。「『上官の命令で捕虜を銃殺した』という戦争体験者からのメッセージの『銃殺した』という表現はなぜいけないんですか?」と聞いても答えられません。「その判断は広告審査部といった名称の部署がしているんですよね?あなたは普段は営業とかをなさっている方ですね?」と聞くと「そうです」と認めました。「根拠を答えられる人をお願いします」と言いましたら、「わかりました」と言って一旦電話を切りました。
 その後、再び広告第二部のワタナベさんから電話。「赤とんぼの会に、情報の根拠を求めたら、会報を示されました。情報源の原文は示されていませんでした。出典の日付などは会報に書いていました。会報には、外務省など政府機関への問い合わせをしたことと、政府側の返答が載っていました」という説明があり、「そのうえで、根拠がないと判断しました」と言います。「小さな市民団体の会報には信用性がないということですか?だとしたら、ちゃんと出典を示していますよね?」と言うと、また答えに窮します。「読売さんは大メディアです。語学に堪能な社員はいらっしゃいますよね?原文を見たうえで、その通信社の記事は信用できないとおっしゃっているんですか?」というと、実質的な返答はありません。「私は原文を見ていませんが」と言いながら、推測や想像が返ってくるのみです。推測や想像だとはじめから断る「責任ある」態度です。「赤とんぼの会の問い合わせに対する政府側の返答は、報道を否定するものだったんですか?」と聞くと、「いや、私は政府側の返答として会報に何と書いてあったか存じません」と言います。「じゃあ、政府側は否定せずにあいまいな返答に終始したんじゃないんですか?そうだったら『政府は否定せず』とするのがメディアの常識ですよね?」と言うと、「政府側の返答の内容は知りません」と答えます。後で、「両論のある情報なのでは」と言うことがあったので、「両論って何ですか?日本政府が否定したかどうか、あなたは把握していないんですよね?」と言うと、それが推測であることを認めます。しまいには、「当事者間の話を第三者に話すわけにはいきませんので」と赤とんぼの会に責任の一端を負わせるかのような発言。「大メディアが市民団体の意見広告に文句をつけるのは検閲だ」と言うと、「そんなことはありません。赤とんぼの会さんとの関係でこういう内容になった」と答えます。赤とんぼの会がこの内容で了承したかのような物言いをします。「時間もないし、意見広告が載らなかったら困るから、赤とんぼの会は妥協したんですよね?」と聞いても言葉を濁します。「経過の説明があったのみで、結局、読売さんが社として『根拠がない』と判断した、その根拠は示されなかった。『読売は根拠もろくに示すこともできずに検閲をした』と知り合いにふれてまわりますよ。ブログにもそう書きます。それでいいんですね?」と言うと「検閲にはあたりません。これ以上のことは言えません」と繰り返します。
 「広告審査部というのは、広告にウソや誇張はないかといった、本来、消費者保護などのための部署ですよね?」と言うと、「よくご存じですね」と言います。「そういう部署が、根拠も示せずに『情報に根拠がない』と言うのは、大メディアという立場の強い者が、立場の弱い者に対して検閲を行っている、ということだ」と言えば「そうではありません。当事者間の話です」と答えます。「非対称的な力関係の間の者同士の契約関係の諸問題とか、考えたことがないんでしょ?」と言っても、まともな返答はありません。「『自由社会』を標榜してきた読売新聞がこんなことでいいんですか?」と言っても、まともに答えられません。最初は紳士的に言うつもりで電話をしたのですが、結局、終始キレ・モードになってしまいました。最後のほうは、僕はもうブチキレ。「先日、アメリカでトヨタの広告がウソだらけだったことが判明した。プルサーマルなんて(ウラン用の原子炉でプルトニウムを含む燃料を燃やすという)素人でもおかしいと思うような、電力会社の「安全だ」という広告も繰り返し載せている。以前、グレーゾーン金利があったころは、(年利)29.2%という違法金利を平気で消費者金融の広告に明記していた。それなのに、市民団体の意見広告にはこういうことなんですか?」と。()内は言っていないことを、説明的に補足したものです。
 このやりとりの本質は、返答する能力と権限ある者に応対をさせなかった、という読売新聞西部本社のやり方にあります。広告審査部の担当者に応対をさせずに、広告第二部の担当者にすべての応対をさせたことに。ワタナベさんには、この応対以上の返答をする権限は与えられていなかったし、広告審査部の見解を繰り返すのみに終始したのはそのせい。だから、推測や想像で言いくるめようとして墓穴を掘っているのです。本当の審査基準を知る立場にない彼が、「これ以上のことは言えない」というのは、「これ以上のことは言うな」と上司から指示されているとしか、考えられません。

 お金を出しさえすれば、自由に意見表明の権利を行使できるという、庶民には不利な広告媒体からさえ、こうして表現の自由の範囲が削られようとしています。僕は怒り心頭です。
 僕にできることは限られています。しかし、できることはすべてやるつもりです。
 100年前、大逆事件と「韓国併合」は同時進行で起こされました。タテワリの日本の権力機構は、連携してはいないと思います。しかし、全体として日本の国家と社会が向いていた方向を両事件は示しています。「韓国併合」のその瞬間、健在であれば反対の声をあげていただろう社会主義者たちはみな獄中でした。わずかに石川啄木のノートに「地図の上朝鮮国にくろぐろと墨を塗りつつ秋風を聞く」とある程度。これも、この直後に出版された短歌集『一握の砂』に収録できず、啄木の死後に発見されています。公然とあげた声ではありませんでした。
 冒頭のコピーにある赤とんぼの会の言葉が胸に響きます。「私たちは五感を研ぎ澄まして、戦争の芽を摘んでいかねばなりません」
 表現の自由の制限によって、ただちに戦争にはつながらないかもしれません。しかし、この30年間、実態として日本人は物言わぬ人びとの集団になっています。その結果が、日本社会での貧困の横行です。最も貧しい人びとこそ、最も物言わぬ人びとである現実。それが、今ここにある現実です。
 で、さらに表現の自由が狭められた先には何があるのか?貧困であれ戦争であれ環境破壊であれ、いちばん被害をこうむるのは、「最も物言わぬ人びと」(子ども、障がい者、老人などを含み、今現在は若い世代の多くが含まれる)です。そして、声をあげられる者がまず声をあげないと。だから、僕はここに小さな(自分では大声のつもり)声をあげます。

1