京都 三条大橋。



鴨川 下流。



池田屋騒動 擬宝珠刀傷跡。



坂本龍馬 寓居之趾(酢屋)。



河原町通り。



京極かねよ。😱並んでるビックリマーク

何かもう行きたい時に行けない店にビックリマーク

昔、この並びにペット🦜売ってたよなぁはてなマークびっくり


新京極のろっくんプラザ。

新京極と言えば修学旅行生のメッカビックリマークはてなマーク今は夏休みですね。夷人さんのメッカになってますガーン

幕末の尊王攘夷派には予想出来たでしょうかガーン


で、新京極の曲がってる地点。何回も通ってますが、あんまり意識したことなかったなぁ。


「光る君へ」より。



浄土宗 西山深草派 誓願寺。

創建は天智天皇6年(667)と伝わり、第38代・天智天皇の勅願により、奈良に建立されたのが起源です。当初の宗派は三論宗でしたが、後に法相宗の興福寺所有となり、平安時代には清少納言和泉式部が帰依し、女人往生の寺となりました。

その後、誓願寺は法相宗の蔵俊僧都が法然上人に譲ったことにより浄土宗の所属となり、京の一条小川に移転します。そこに法然上人の弟子である西山上人証空が入り、浄土宗西山派が成立して行きました。後に、弟子の立信が深草の地に真宗院を建立し、更に立信自らの考えをも取り入れて深草流の教えを確立します。

天正元年(1573)の火災で荒廃してしまいましたが、天正19年(1591)2月には豊臣秀吉の命を受け現在の新京極へ移転し、秀吉の側室であった京極竜子とその生家の京極氏から広い敷地が与えられます。安永年間(1772-1781)には塔頭18ヵ寺の他、三重塔も存在し、境内には芝居小屋、見せ物小屋が立ち並んでいましたが、幾度となく大火に罹り、さらに明治維新に続く廃仏毀釈や明治5年(1872)から始まった新京極通の整備で寺地を公収され、境内は狭隘となりました。


拝観料いりません。



手水。





拝殿します。



阿弥陀如来坐像 お願い





和泉式部上差し

「誓願寺縁起」によると、和泉式部は、娘を亡くした苦しみから救われる道を求め、播磨の書写山・円教寺(姫路市)の性空(しょうくう)上人を訪ねました。

しかし性空上人は「今、あなたが求めるべきものは極楽往生の教え。京都八幡山の石清水八幡宮に現れられた大菩薩は、本地(ほんじ:神仏の本体)は、人々を苦しみから救うためこの世に現れられた極楽の阿弥陀如来です。石清水八幡宮に詣で一心に祈りなさい。必ず願いが通じるでしょう」と話されました。

石清水八幡宮へ辿り着いた和泉式部は、大菩薩の前で七日七夜、極楽往生の道を祈りました。八月中旬の明け方、八十歳ぐらいの老僧が宝殿より現れ告げました。「京都誓願寺の本尊は人々を苦しみから救うため、すべての行を修められた仏さま。そのお姿は春日大明神がお作りになったといわれる西方浄土、生身の仏さま。人々を浄土に導くため、仮のお姿として誓願寺に現れられ、毎日一度は必ず西方浄土に通われている。阿弥陀様に礼拝、称名し、一生を掛け極楽往生の道を祈りなさい」と告げ消えました。

和泉式部は誓願寺へ辿り着きました。そして誓願寺に四十八日の間籠もり、一日中ひたすら念仏を称え往生を願いました。ある夜のこと。七十歳程の老尼が仏壇に現れ「往生は、阿弥陀如来様にすべてをおまかせすればいいのです。南無阿弥陀仏と称えれば、慈悲の光に照らされ迷いの道が晴れるのです。女性の往生は、韋提希夫人が目の当たりに来迎を拝まれたことで証明されました。疑いありません。」と告げました。 こうして和泉式部は、髪を切り尼になりました。法名は専意と名付けられ、誓願寺の傍らに柴の庵を結びました。この庵は小御堂と呼ばれ、関白藤原道長が、娘の上東門院に仕えていた和泉式部ために一庵を与えたのが起こりといわれています。 式部は常に庵に籠り、朝夕に本尊阿弥陀如来さまに詣で、それ以外の外出は控えられ、 67代三条天皇の時代、長和三年(1014)3月21日、往生の素懐を遂げました


一言観世音菩薩。



十一面観世音菩薩。





鐘楼。





次へ行きます。走る人



パンフ。














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