京都競馬場から、魚楽 ととらくでマグロ二色丼を食べて、淀城へやってきました。走る人

 

 

淀城の天守は、豊臣秀長の大和郡山城の天守だった。豊臣秀長の大和郡山城の天守は、徳川家康によって、京都の二条城の天守として移築され、寛永元年(1624)、徳川家光が二条城の改修を行なった際に、淀城天守として、再び移築された。その後、宝暦6年(1756)、落雷で消失ビックリマーク

 

淀城 天守台。

大きな穴蔵式の天守台、1623年築城、天守構造が「連立式」望楼型5重5階地下1階

1625年完成、1626年には徳川秀忠と徳川家光が来城びっくりびっくりびっくり

縄張りは宇治川と木津川を堀に活用、梯郭式平城、東に広い出丸の東曲輪、伏見城の建造物利用し徳川家光も上洛の際に逗留、京都の防備監視の重要な拠点、櫓数38基。

都市開発や鉄道の開通で本丸以外は殆んど城郭としての遺構なし。

 

1623年(元和9年)、2代将軍 徳川秀忠の命にて久松松平家 松平定綱が淀藩に35000石で入封、同時期の伏見城廃城に伴い資機材転用し「淀城」築城、天守は二条城の天守が移築建造されたとの伝承、帝都京都のある山城国では唯一の大名家の居城、江戸時代を通じ久松松平家~永井家~石川家~戸田家~大給松平家~稲葉家と譜代大名が歴代藩主を勤めた。

 

 

 

 

 

石垣と京阪電車。

 

 

明治天皇御駐蹕の碑。

 

 

1868年戊辰戦争の「鳥羽・伏見の戦い」で敗れた旧幕府軍は幕府老中 稲葉正邦が藩主の淀城に入城を試みるも、開門されず撤収、藩主 稲葉正邦は江戸城に在城し、淀城は城代が預かり、朝敵と成っていた旧幕府軍を入城させることを拒否。

 

 

 

淀姫ビックリマーク

 

 

江戸時代の淀城vs安土桃山時代の淀城、名前は同じでも全く違う城上差し

安土桃山時代に豊臣秀吉が側室 茶々の産所として築城したのが「淀城」(古淀城)、現「淀城跡」の北へ500m。1595年の秀次事件に関連し廃城。

 

稲葉神社。

 

 

明治維新後の1885年に旧淀藩士により創建。

稲葉氏の家祖『稲葉正成』が祭神上差し

稲葉正成継室は斎藤利三の娘 福(後の春日局)、1723年(享保8年)に稲葉正知が入封し明治維新まで代々稲葉家が藩主として定着。

 





 

 



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