私は選択が苦手だ。

だって選択は一生ものだから。

余裕があればあるほどそれは難しくなる。

時間がないとか、精神的に追いやられてるとか、そんなとき、意外と大胆な選択をしたりするもんだと思う。

昔とても好きだと思っていた人がいました。

その人のためなら何でもできると。

そのせいで壊れてしまった、いや、私が自ら壊してしまった関係がある。

今、私が惜しいのは壊してしまったほう。

しかし、壊さなかったら、愛しさも感じず、惜しいと思うこともないだろうと知っているのだから、結局それは正しい選択だったのかも。

今よりもっと子供だったとき、私は自分に選択の力がないと思っていた。

それより少し歳をとったとき、自分にできる選択を間違えずに選ぼうと思った。

今私は、どんな時も自分が遠くまで考え、選択してきたことになんとなく気づいている。

自分の周到さ。それは少し悲しい。

でも、もっともっと先まで、今自分が周到に用意して向かっている先までいったら、私は案外、道理の枠を通り越して、気持ちのままに(それでいてやはり周到な)選択をするのかも。

山崎はそれでも電車を一本やり過ごしたんじゃないかと思う。

そしてそこに淡いレモン色のワンピースを見つけたんじゃないかと思う。

それは衝動的な選択のように見えて、案外計画的な、冒頭でなった一本の電話からすでに決まっていた答えのような気もする。
江國さんの小説には携帯電話が出てこない。(なつのひかりのキャラメル箱は除いて)

私はそれに少し違和感を感じる。けいたいをもっていないひと。

特別でない、ありふれた日常を送る、どこにでもいそうな、それでいて自分は絶対になることのできない、やはり特別な登場人物。

細部まで書き込まれたディテイルは私の想像力を掻き立て、まるで映画を見ているように、目の前に情景を広げる。

それでいて、スペシャルでないけれど、かといって身近でもない設定は、私を逆に現実から遠ざけているような。

不思議な生活感とその逆をいっぺんに体験したような感じになる。

つまり、実在しそうな、そして何かを間違えると自分もそこにたどりつきそうな、しかし間違えないということをなんとなく心のそこで知っている、そんなひとたちの生活。

そこに生きている彼女たちのストーリーを悲しいと思う。

それでいてなんとなくその悲しいに憧れる。

いっそ、おんなじように自由になりたいと思う。

さみしくてもいいような、力強い気持ちになる。むしろ一人でいたほうがいいような気さえする。

けいたいをもっていないひとたち。じゆうなじゆなひとたち。

携帯電話に何かを期待するのは疲れる。私はジョニーがいないと何をしていいかわからなくて途方に暮れる。

音がなると知っているのに画面を確認しないと不安を感じる。

これはもう一種のトラウマみたいだと思う。
変わっていくのが怖いこと。

1.段ボールを買いに行ったこと。
2.日本にいること。
3.一人で平気なこと。

変わらないのが怖いこと。

1.内定が取れないこと。
2.したがって9月以降の予定がたてられないこと。
3.自宅が居心地がいいこと。
4.真っ白なディザテーション。