あかり姫と坂本龍馬伝説 -8ページ目

龍馬暗殺150年

坂本龍馬が暗殺されてから今年の11月15日で150年になります。

 

1867年11月15日に京都の近江屋で中岡慎太郎と共に暗殺されたわけですが、いったい誰が龍馬を暗殺したのかをめぐって、歴史の謎として今も様々な説がある。

 

諸説議論が絶えない理由として一つ言えることは、龍馬は諸藩から独立した立場で自由に行動していたため、誰が殺したという説を取ってもそれなりに説明がつけられるということです。

 

長州か薩摩に属して、武士としての出世に励むというのが、今日的な価値観ではまっとうな生き方になるかもしれません。組織に属して、その一員として雑巾がけから始めて這い上がる、そういうルートを歩んだのが伊藤博文ら後の元勲たちとすれば、龍馬の生き方はやはりかなりズレている。

 

尊王攘夷の嵐の中で、龍馬は中岡のように長州の連中と行動を共にすることはしなかったし、身分制の厳格な薩摩藩の庇護の下で、亀山社中を作ってビジネスを始めた。

 

学校教育を通じたエリート選抜システムの中で頑張って出世するというのではなく、一歩ズレたところに自分の足場を置いて、自分の道を踏み固めていったわけです。

 

組織だけではなく、資格もまた、他人が踏み固めた道をなぞって、役人がパッケージ化したものに過ぎません。

資格を取ったら、、その範囲で行動することが認められるに過ぎない。

 

封建社会がタテに整序された箱の積み重ねだとするなら、今の社会も大差はないかもしれない。

龍馬の動きは組織の中に組み込まれるのではなく、幕藩体制を横へ横へと動いていくものです。

 

上が命令してバッと動くことが重要となる武家社会において、特に大政奉還が成し遂げられて幕府と薩長の武力衝突が近づく中で、土佐、薩摩、長州、幕府と一人だけ横へ横へと動いていた龍馬は抹殺されたのです。

 

そう考えると、龍馬暗殺の犯人が分からなくなるというのも自然な話なのです。誰が殺したのか分からないくらい独立した道を歩いていたわけですから。あれも怪しいこれも怪しいと詮索するのは、ああいう人は我々の社会ではみんなで抹殺しちゃうよね、という、いわば「常識的な感覚」に由来するのかもしれません。だって、説が多ければ多いほど、誰が殺したか分からないくらい龍馬は殺されて当然だったということになりますから。

 

仮に近江屋を脱出できたとしても、様々な関係者に追われ続け、いずれは殺されることになるわけです。でもそれって、龍馬の業績を否定する考え方で、現代的な組織人的な見方かもしれません。

 

現代を生きる我々にとってみれば、重要なのは龍馬を誰が殺したかというよりはむしろ、龍馬は乱世をどう生きたかということであり、また、どうすれば殺されずに済んだのかということだと思います。諸説あるくらいさまざまな人に狙われるような人物だったとすれば、同時代の人々や、今日の我々を魅了することは無いでしょう。

 

とはいえ、150年前戦争が近い政治状況が、龍馬の夢を葬り去ったのは事実です。そんな混乱の中でも、龍馬は次の時代の構想を考え続け、その中で自分の生きる道を模索していたのです。

 

最近、仕事をしていて世の中には様々な考え方の人がいることを実感します。正直、今のバイト先は超有名企業ですが、意外にというかやはりというべきか、ブラックです。先日も社員が辞めた。もうすぐ一年になるが、いろいろ問題が見えてくる。職業倫理の次元で、どうすりゃいいんだと悩むことも多く、こんな会社で正社員には絶対になりたくないと思う。

 

はっきり言って、どこにいようと幕末を生き抜くことが出来れば世の中何でもできると思います。部屋に入ったら殺されるなんてことも幕末ならあり得る話です。今の時代、どうやら人の心も相当おかしくなっているようなので、何事も用心しなければならないと思っています。今の時代を生きるヒントを得るために、私は今日も、時代を超えて、志士たちと友達になろうと試みるのであります。

フリーター 坂本龍馬さんを学ぶ 其の三十七

「武市さん、江戸はどうでしたか?」

「武市?知らん。私は天子様の臣、柳川左門であるぞ。」

「では土佐の武市半平太殿はいずこに参られたか」

「しばらく待たれよ」

「お待たせいたした」

「同じ人ではありませぬか!」

「ハハハ!一応別人じゃ。柳川様は公務多忙ゆえ。」

「江戸はいかがでしたか。」

「いやあ、やはり天子様の臣は重みが違う。幕臣共がこの私に跪くのだからな。跪いておる相手が土佐の武市半平太と知ったらどうなっていたことか。この姿を亡き両親に見せられないのが残念でならぬ。」

 

「私は萩の医者の子ですよ。私は歳15にして両親を失い兄も死にました。医師の子として医術を学ぶとて、もはや死んだ家族を救うことは出来ませぬ。人はいつ死ぬか分かりません。皇国に生まれし者として、天子様の臣として生きることは何よりの親孝行と存じます。武市さんのご両親も、必ず草葉の陰からご活躍を見ておられることでしょう。私も武市さんに負けておられません!」

 

一介の土佐藩士が、天皇の家臣となると幕府の役人を跪かせるほどの威光を持つ現実は、久坂の魂を大いに燃え立たせたのでした。

 

久坂は、下関で攘夷戦を戦いながら、武市と互いに刺激を受けながら京都で日々勤王に励んだ日々を思い出していました。

 

久坂玄瑞ら藩を超えた草莽の志士で結成した光明寺党が、長州の艦船で外国船を砲撃したのは、朝廷の幕府に対する攘夷決行命令に従ったものでした。

 

朝廷の命令といっても、久坂玄瑞が朝廷に働きかけて、孝明天皇が将軍家茂に期限を区切って攘夷を行うよう命じたものです。一介の「志士」が天皇の臣として朝廷を動かし、将軍を動かしたのです。

 

むろん、幕府として外国と条約を締結し、遵守しなければならない立場にある将軍家茂は難色を示しました。数度の延期の後に、最終的に5月10日の攘夷決行が決まったのでした。

 

5月10日、諸藩はこのような朝廷の命令を無視して動きませんでしたが、長州藩は、いや、久坂玄瑞たち光明寺党が長州藩の艦船に乗り込んで、アメリカ船を夜襲した。正しくは藩の中で、藩を超えた草莽の志士たちの集団が暴走したと言うべきか。

 

ー外国は日本に対する礼を欠いた開国要求を繰り返して、幕府に不平等条約を締結させて日本人の産品を安く買い叩き、日本の富を海外に流出させている。

幕府はもはや神の国たる日本を外国に売り払い、自分たちの権力と特権を維持しているに過ぎない。ましてや幕府が公武合体により天皇を利用しようとすれば、国内の不平等と搾取、対外的不平等が永久に続くことになってしまうー

 

そんな思いを持つ久坂玄瑞が、幕府を中心とした開国を通じた強兵論を主張する長井雅楽の説に妥協する余地はなかったのです。藩内ではいったんは長州の藩論を統一し、朝廷をも席巻するかに見えた長井の説を批判し続けたのです。

不平等条約の破棄と攘夷を主張し続けて長井を失脚させ、毛利慶親公に攘夷を決断せしめ、ついに藩論を転換させたのでした。

 

攘夷決行は、もはや対岸で傍観を決め込んでいた小倉藩の側からみると、久坂玄瑞の独り相撲のようにも見えたかもしれません。

 

久坂玄瑞は、攘夷戦争の報告の為、ひたすら朝廷に向かい急いでいました。

長州が異国と戦っているのに、傍観するとは何事か!。諸藩はもはや朝廷の命令で動くべきだ!。

攘夷戦は久坂にとって、草莽の志士が、諸藩が外国との戦争を遂行することを通じて、朝廷が直接諸藩を動かす新しい皇国を作る、そんな壮大な実践だったのです。

 

京と長州を往復しながら玄瑞は風を切って颯爽と走り続けました。

ー今、自分は新しい国を作っている!ー

久坂が走り抜けた後、ふと振りかえると、比叡の山並みが夕焼け空にそびえたっている。ふと比叡おろしが竹林をザーッと吹き抜けて、心と身体を揺さぶる。そのとき玄瑞は、古い時代が過ぎ去り、天皇を中心とする身分の別のない日本の新しい姿が立ち上がってくるのを、確かに感じることができたのでした。

フリーター 坂本龍馬さんを学ぶ 其の三十六

話は少し戻りますが、龍馬の盟友武市半平太は、久坂玄瑞と共に京都で勤王の志士として活動していました。

 

「松陰先生は我が師である」

 

久坂は、師吉田松陰の教えを講義したところ、武市は吉田松陰を師と仰ぐようになったのでした。

 

大柄で強いのに威嚇したり偉そうな態度を取らず、吉田松陰の弟子たちにその教えを乞い、議論を求める姿は好感を与え、あの人はいい人だと、他藩との多くの人脈を築くことができました。

 

そんな武市が土佐の下士仲間を集めて、京の天子様をお守りしようと有志を募り、自分たちの土佐藩を勤王化しようと、土佐勤王党を立ち上げたのは、自然なことでした。

 

岡田以蔵もまた、この武市の呼びかけに応じて参加したのでした。

 

「そなたの剣は誰のための剣か」

「お殿様への忠義と天子様のために尽くすことは違うのか」

「天子様のために役立つことと、私の言うことを聞くことにいかなる関係があるのか」

 

こうした問いに対して、以蔵はなかなか答えることが出来ませんでした。

 

「いついかなる相手に対しても、いかなる状況にあっても、惑わされない心を持たなくては、いかなる剣の技も役に立たぬ。」

 

「私を信じずとも良い。お国を信じずとも良い。まずは己自身を信じて行動せよ。そして天子様に信頼される人になれ!」

 

武市は以蔵が答えられないと、必ずこのように説くのでした。

 

「天子様に信頼されるとはどのようなことですか」と問うと、

 

「それは自分で考えよ。分からなければ周囲の者や家の者に聞いてみよ」という答えが返ってくるだけでした。

 

以蔵はどこか解せないと感じつつも、武市の教えによって、世の中の移り変わりと剣術や国のあり方には関係があるということを理解することができたのです。

 

叔父が国学者であった武市は、諱を小盾といい、常日頃より天子様をお守りするよう教えられて育ったのでした。

 

そしていよいよ外敵が迫り、土佐でも大騒ぎになった中で、武市は久坂の話に大いに感銘を受けたのでした。

 

「身分が低い我々には、藩のために出来ることは少ない。しかし、今は外敵が我が国の占領支配を目論んでおる。我らの力が天子様のお役に立つ日が来た。己の独立がなくして我が身は守れません。我が身を守れぬのであれば、天子様のお役に立つことはありえません。いざというときに天子様をお守りできるかどうかは、君次第です。」

 

眼光鋭くこうまくし立てることもあれば、

 

「私の諱は「小盾」です。いくら努力したところで、天子様にとって小さな盾に過ぎません。天子様をお守りするには諸君の協力が必要なのです。」

 

と笑いながら言います。

 

このような武市の腰の低さは、土佐の身分の低い若者たちの自立心とやる気を燃え立たせ、勤王活動に向かわせるに十分でした。

 

他方で、勤王、勤王と騒ぎながら親や身内を蔑ろにする者、親に悪態をつく者も増えました。このような者には

 

「親や家族に信頼されぬ者が天子様の信頼を得られることなどあろうか」

と諭すのでした。

 

こうして勤王党では、必然的に自分に出来ることは自ら率先して行うことが求められました。行動は仲間と協議しつつ、各自の責任で行うものとされました。地域で尊敬され、勤王党加盟者は200名近くに上りました。

 

吉田東洋殺害もまた、勤王党内で出た自由な意見から、党員が自発的に進めたものでした。武市は制止しながらも、止めることはできなかったのです

 

そして土佐勤王党の尽力の成果により、土佐藩が京都の警備と国事周旋を朝廷に命じられました。武市は周旋活動のために土佐藩邸を離れて京都三条木屋町に居を構え、久坂と共に自発的な勤王活動を行ったのでした

 

武市はこうした中で、持論である天皇の臣としての身分を超えた平等と日本全体の勤王化を実現しようと、藩主豊範の名で朝廷に向けた建白書を起草したのでした。その内容は、山城、摂津、大和、近江の四力国を天皇の直轄地とし、直轄地に配置した親王以下の国司は諸国浪士を家来として召し抱えること、江戸への参勤交代を五年ないし三年に一度へと軽減させることなどを建言すると共に、政令は全て天皇から諸大名へ直接発すべきであるとしました。朝廷を中心とする政治を身分を超えた草莽の志士が主導するという大きな理想を掲げつつ、出来ることを着実に実現していこうとしたのです。

 

そして、柳川左門という名をもらい、姉小路公知の部下として将軍に謁見し、幕府のもてなしを受けたのでした。

 

武市の日々の勤王活動が、徳川将軍の活動と対等なものとなった瞬間でした。

天皇の臣は為政者以上の威厳を持つことを、武市は肌で実感したのです。

そしてこのことは、久坂玄瑞にも大きな刺激を与えました。

 

ー我々は天子様の臣である。もはや将軍とその家臣どもである大名どもにひれ伏す必要などないのだ。天子様の国を作り、豊かにするのは我々草莽の志士であるー

武市も久坂も、天皇の臣として、このような強い使命感を共有していたのです。

この観点から、自分の藩内の立場に基づいて、藩論を勤王に変えていこうという姿勢を強めていったのです。以前お話した平井収二郎たちの活躍は、まさにこの朝廷への働きかけを通じて、土佐藩をして勤王活動を行わしめるための活動であり、もはやその活動は藩を超越した活動となっていたのです。

 

久坂にとって、藩内にはもはや怖いものは何もありませんでした。長州は公武合体派の穏健派である長井雅楽が失脚した後は、尊王攘夷派が実権を握り、朝廷との結びつきを強めて行きました。久坂たちがそれを担ったのです。土佐の武市は厳格かつ慎重な性格でしたが、久坂は正論をぶって周囲を鼓舞し、行動を促していく性格です。そして、その言葉は次第に強いものになっていきました。久坂が批判した者を殺せという者が現れると、周囲もそれに同調する雰囲気になり、久坂もそれを否定しないとなると、実行犯が殺害を担当するという流れが出来て行きました。久坂や武市とその仲間たちは討議を繰り返す中で、明示ないし暗黙の了解で人斬りを繰り返すようになったのです。

 

以蔵も、自分たちの剣術で、外国に日本を売り渡そうと企んでいるとか、天皇を蔑ろにしていると言われる者を、天子様のためと切り捨てることには何のためらいもありませんでした。自分の剣が国のためになっていると皆が言う。自分の剣で勤王党の仲間を守っているという自負がありました。

 

何より、藩内で身分が低い者たちが天子様の威を借りて、征夷大将軍にさえも京に呼びつけて命令をしようということで、志士たちの意気が上がったのは言うまでもありません。

 

そして、久坂は、将軍に期限を決めて攘夷を決行するよう天皇に誓えと主張したのでした。久坂は、一時、反対する公武合体派の岩倉具視らを斬ろうと主張したのですが、久坂を落ち着かせたのも武市でした。「それは無益である」と説いてこれを止めさせることが出来たのです。

 

以前お話したように、高杉晋作は謹慎中に、攘夷の約束に応じない将軍の襲撃準備をしたのでした。

 

藩主が家臣の提案に「そうせい」と是認する「そうせい侯」を戴く自由な雰囲気の長州にあってこそ、久坂は身分を超えて藩を超えた草莽の行動を訴えることが出来たのでした。これにに対して、武市半平太は保守的な雰囲気の強い土佐藩士としての立場での活動でしたから、かなり事情が違っていました。土佐藩全体で天子様への忠誠を尽くすよう主張することは、公武合体派である徳川への恩義と忠誠とを重視してきた譜代の土佐藩では、微妙な問題をはらんでいたのです。

 

土佐藩で尊王攘夷を主張することは、上司が下士を支配して、理不尽な身分社会が長年続いた土佐藩の秩序を打ちこわし、藩政改革を行うことを意味しました。

 

脱藩した龍馬は自由な立場から発言したのに対して、、武市たちは土佐藩士として他藩応接役としての責任ある立場からの発言は、日本を勤王に変えるために身分の上の者に命がけのものとなることを意味しました。武市の発言には、他の草莽の志士とは比べ物にならないほどの重みがあったのです。

 

武市は、直面した困難も身をもって実践することこそ新たな時代の志士の姿であり、正々堂々と次の時代を切り開こうとしたのです。

 

春嶽公との面会にあたり、龍馬が仲間と共に面会を求めたのに対して、武市が単独での春嶽公面会を求めたように、武市は自分に自信がありました。天子様の臣として、相手が誰であっても正論をもって説得する姿勢で臨んだのです。

 

そんな武市の姿勢は、土佐藩内でも貫かれました。藩士として殿様と藩への忠義を尽くしながら、天皇の臣下として国を守るために、身分制社会と幕藩体制、そして土佐藩の身分制社会の重い扉をこじ開けて藩を勤王化するために、たとえ相手が誰であっても正々堂々と主張することには、何の迷いも無かったのです。

 

武市はもはや小さな土佐藩士を超えて、天皇に信頼される改革者となっていました。そして、その視線の先には、幕藩体制の身分の束縛から解き放たれて、全ての者が等しく天皇の臣として、国を豊かにしていくという理想の国家像があったのです。

 

脱藩などしなくとも、我が土佐藩全体で、王政復古を実現しようではないか!そんな高い理想を掲げる武市にとって、土佐藩の幕府との伝統的な主従関係などは早急に断ち切るべき障害でしかなかったのです。

 

「もはや徳川家に忠義を尽くすのをやめてもよいではありませんか」

 

武市がこうして前藩主の山内容堂に藩の改革を迫ったのは勤王の志士としての正論でした。しかし、同時に土佐藩士としての発言としては、勤王と幕府への忠誠の間で揺れる容堂公と、藩の秩序を揺るがす発言であり、身分秩序を覆そうとする行為としての意味を持つ命がけの行為であったのです。

 

そして、武市の発言を冷静に受け取り、同じ勤王家を自称してその意味するところを正確に理解していたのは容堂公だったのです。

 

今、武市半平太の像は、高知駅前に堂々と立っています。龍馬と慎太郎の銅像と共に。土佐藩には、いかなる自由な振る舞いも認めるが、全ては厳然たる秩序を守った上で許される行為に過ぎないという暗黙の掟があった。いや、ひょっとしたらひょっとして、今もあるのかもしれないと思う。武市半平太と土佐勤王党の活動は、自由には責任が伴うという言葉の本当の意味を思い知らされると同時に、その後の土佐の人々の自由を求める切実な心に火を灯した、と言えるのかもしれません。