あかり姫と坂本龍馬伝説 -24ページ目

フリーター 坂本龍馬さんを学ぶ 其の六

 前回の話で、なあんだ。龍馬は佐幕派だったのか。だったら最初から土佐勤王党なんかに入らなきゃ良かったんだよ、真面目に勉強して勝先生に入門すれば良かったんだよ、といわれるかもしれません。

 確かに、龍馬は党員でなければ脱藩する必要もなかったし、土佐藩を後ろ盾にしてさらに活躍できた可能性は否定できません。


 元々、土佐勤王党は尊王攘夷、つまり天皇を重んじて外国を討つという思想を藩を挙げて行うことを目標としつつ、安政の大獄で失脚した山内容堂公の復権を求める運動だったようです。しかし、党員になったのはほとんどが下士でした。言ってみれば、尊王攘夷にかこつけて、下士の藩内での勢力拡大を図る政治運動としての性格があり、広い支持を受けました。


土佐藩は元々公武合体の立場であり、吉田東洋らの開国派の影響が強い藩でした。これに対して武市らは尊王攘夷の方針で藩政改革を進めて藩の実権を握ろうと目論んだようです。そして、背景として、下士たちは、以前も書いたように、井口村刃傷事件のときのように上士にナメられないように、団結することで、上士に対抗していこうという気運が背景にありました。


そのため、龍馬が党に率先して入って、下士をまとめていこうと考えたと思われます。仲間思いで、熱い男である龍馬は、今必要なのは下士の団結だと考えていた龍馬は、下士をまとめていこうという武市さんの勇気に感動したのでしょう。土佐では一番に加盟しています。


 入る必要は無かったといえばそれまでです。しかし、組織を通じて中岡ら、仲間たちと行動し、見分を広げることができました。他藩の様々な立場の志士たちと意見を交わし、交流をする中で、自分の立ち位置を考えるきっかけとなったと思われます。


 脱藩のきっかけとして、長州の久坂玄瑞という松下村塾出身のキレ者に、藩の枠を超えた尊王攘夷の大切さを説かれたことが言われています。久坂は龍馬より四歳年下ですが、秀才の誉れが高く、その見識に感動したと言われています。また、薩摩藩が挙兵するという噂があり、乗り遅れまいとしたという話もあります。仲間思いの龍馬にとって、尊王攘夷のために脱藩するのだという大義が重要だったのであり、それで周りが納得すれば良かったのでしょう。


 むしろ、ここでのキーワードは、思想や信条ではなく、「仲間との信頼関係」ということになります。龍馬は、様々な意見を聞いて見分を広めながら、自分の立ち位置を見出していく姿勢を取りました。異説から目を背けるのでなく、どうしてその人がそう考えるのかに思いを致して、我がこととして考えました。だから、その思想や政治行動まで共にしなくても、その人に共感し、仲間になることができたのです。


 世の中、思想や信条の次元でモノが決まることはそうそうあるものではありません。尊王攘夷派も、公武合体派も、つきつめれば外国から日本を守る点では一緒でしょうと。そういう次元で考えていた。いわゆる一流の人の話って、どこかハッとさせられるものがありますが、龍馬は感動しやすい人だった。だって、久坂玄瑞の話を聞いて、勝海舟に弟子入りとか、普通の人ではありませんから。でも、この時代の人たちのことを冷静に見ると、何でこの人たち殺し合ってるの?と思うことが多い。



 江戸で勝先生に入門した際は、近藤長次郎や甥の高松太郎の他、土佐勤王党時代の仲間たちもどんどん誘ったようです。これは、自分の土佐時代の気の合う仲間たちを身辺に置いて、強固な派閥を作る狙いがあったと考えられます。勤王党時代から、コイツは使える、使えない等々、冷静に判断していた(笑)。。この流れはその後の海援隊にもつながっていきますが、少年時代からの気心の知れた仲間たちとの強い絆は、何事をなすにも強いものがあります。



 バイトでも一匹狼よりも仲間が多い方が物事を成すのは容易になります。気心知れた仲間と一緒だと仕事がはかどります。怒られるのも一緒ですから、ストレスも全然違います。だから、知らない人とも話をしてみると、思いがけず世界が開けてくることがある。調子に乗って話していると、宗教の勧誘に話題が変わってたりすることもまれにありますが(笑)。その意味で、さまざまなことにチャレンジして多くの人と接して見分を広めながら、仲間を作っていくことは、有意義なことだと改めて認識させられます。


 

 ここで、坂本龍馬を競輪に喩えてみましょう。何が思い浮かびますか?私はライン戦です。強力な坂本龍馬ラインが終始レースを引っ張って行く様子が目に浮かびます。

フリーター 坂本龍馬さんを学ぶ 其の五

龍馬は、12歳の頃、生母幸と死別します。そして、その後に父八平は後妻に伊与を迎えます。この女性も再婚だったようですが、龍馬を厳しくしつけたようです。龍馬は伊与の前の嫁ぎ先に乙女姉さんと一緒に度々船で遊びに行っていたそうで、それが廻船問屋で有名な川島家でした。そこで、龍馬少年は、様々な珍しいモノを見て、世界や海への憧れを抱いたのでしょう。


龍馬の人生は海と共にあったと言っても過言ではありません。少年の頃から海を眺めて育ち、江戸に出て黒船を目撃し衝撃を受けた。象山先生の塾に入ったり、脱藩後は、勝海舟先生に弟子入りしました。そして、航海術を学んで、後の亀山社中、海援隊へとつながっていくのです。


私には、龍馬は少年時代からの夢を追いかけ続け、専門的な資格を得て、事業を興すことに成功したように見えます。今でいえば、大学を出て、一流企業や公務員になって出世コースに乗るルートがある。他方で、何らかの先進的な資格を取るための道を探り、専門知識を生かして仕事をして行こうと思う人がいる。大型船を操作するなんて、普通の人にはできないことです。恐らく、今も特殊な資格に属するのではないでしょうか。


こう書くと、いったい何時代だと思ってるんだ?封建時代だぞ!そんな自由な人生があるはずがないだろうとも思えます。しかし、今日の日本は、幕末に似てきたように思えます。藩の身分秩序の中で、実力をつけてエリートとしてのし上がって行くか、脱藩して自由を謳歌するか。武市半平太の土佐勤王党は、どちらかといえば前者です。藩の中で自分たちの影響力を拡大して行こうという方針です。一藩勤王の方針で、土佐藩を大きく動かしていきました。


他方、龍馬は、政治闘争でなく、自力を付ける道を選びました。兵学、砲術、蘭学、航海術等々、とにかく学業も実務志向だったと思われます。好きなことをやっているように見えて、実は周到な考えに基づいて人生設計をしている。龍馬は商家の出身ですから、自分の命を粗末にする人ではなかった。周りの利益に常に目を配ることができた。何をどうすればどうなるかを、常に考えながら学び、行動していた。そうすることが、どんな意味があるのか、きちんと考えていた。自分が海軍の技術を会得すれば、日本を外国から守ることができると同時に、海外とのビジネスにより利益が上がり、国が潤うことにもつながると。そこまで考えていたのです。だからこそ、日本はひとつにまとまって、海外に対峙していかねばならないと考えた。そのため、勝への紹介状を書いてもらった際に話した松平春嶽には、龍馬の考えは立派な攘夷の思想だと思え、勝先生にも受け入れられて、弟子にしてもらえた。


ちなみに、龍馬は、大きな藩(松平春嶽の越前藩と思われる)から二度もスカウトが来たと手紙に書いています。


ここまで書いて、龍馬の人生設計とその準備、実行力は、もの凄いものがあるように感じました。


ところで、龍馬の脱藩から、わずか二週間後に、佐幕派で開国派の吉田東洋が斬られました。東洋は、学問で立身出世を遂げた人です。私塾を開き、後藤象二郎、岩崎弥太郎らを育て、山内容堂の先生にもなりました。容堂公に大目付に取り立てられて、参政職まで上ったそうです。斬られたのは、容堂公への講義を終えた後だったと言われています。土佐勤王党員三名が、東洋の首を取り、首を高く掲げて通り、道には血が滴っていたそうです。


 東洋が龍馬の目の敵になるような人物だとは思えません。門閥打破・殖産興業、開国貿易等、富国強兵改革の姿勢は、龍馬の思想に通じるものです。また、東洋の弟子の後藤象二郎と龍馬は意気投合したと言われており、龍馬が東洋の暗殺を唆したとは考えられません。


それより重要なことは、もしあと二週間、龍馬が土佐に残っていたら、立場上、責任は免れなかっただろうということです。龍馬が事前に東洋暗殺を予測できなかったはずはありません。そうなれば自分に嫌疑がかけられることは予測していたはずです。実際、武市らは、藩のルールに基づいて裁かれました。これに対して龍馬は、勝先生のとりなしで、いち早く脱藩を許されています。これは、東洋暗殺についても疑いが晴れたということでもあります。


つまり、龍馬の脱藩は、「危ない空気を感じたら逃げる」という危機管理意識によるものだったと考えられます。私なんかは、龍馬脱藩時に東洋暗殺犯人の一人となる那須信吾の手助けを受けたという話を聞くと、那須は、龍馬の脱藩をどこか不思議に思っていたのではないかと感じます。龍馬さん、逃げるのか?という疑念を最後まで心の中で持っていたのではないでしょうか。案の定、脱藩後も龍馬に東洋暗殺関与の疑いがかけられています。勤王党内にも、逃げた?という反応は、少なからずあったと思われます。


所属する組織が危なくなってきたら、いち早く察知して一目散に逃げる!龍馬にとって、これが人生の分岐点になりました。これも現代に通じる、龍馬から学ぶべき危機管理ではないでしょうか。




フリーター 坂本龍馬さんを学ぶ 其の四

坂本龍馬という人は、知れば知るほど、興味深い人です。この人はどっちを向いているんだろうか。どんな哲学を持っていたのだろうか。本当はエリートだったのではないだろうか。どうして偉業を成し遂げられたのだろうか等々。


江戸で勝先生に弟子入りするまでの龍馬の行動は、理解が難しいところです。その思想と行動を理解するには、やはり、故郷である高知時代が重要だと思います。


以前も書いたように、龍馬の実家は才谷屋の分家で、郷士、つまり上士と下士に別れる身分の下士ですが、下士の中でも一番上の身分で、その上には白札という身分があり、上士同様の取り扱いを受けていたのが武市半平太です。


高知市の中でも上士と下士では住むところが違っていた。龍馬の自宅の裏の通りにある用水路は、今もあります。私も見ましたが、普通のドブ川と呼ぶには綺麗過ぎる水が流れています。当時はこの用水路は上士の専用、下士は使用禁止とされていたそうです。下士は下駄を履いてはいけないなど、いろいろな制約をうけていました。身分格差による「イジメ」のようなもので、下士の不満は蓄積していたと思われます。


そんな中、1861年3月4日、井口村刃傷事件が起きます。酔っ払った上士が、下士と肩がぶつかったことをきっかけに斬り合いになり、下士が上士を斬り殺してしまうという事件です。上士は山田広衛、千葉道場の玄武館で修業をし、鬼山田と呼ばれた剣の達人です。こんな人に下士が勝てるはずはありません。罵倒された中平は斬られてしまいます。山田は斬った後、しゃがみこんで川の水を飲んでいましたが、そこに駆け付けた中平の兄、池田寅之進は足音を立てないようにそっと近づきます。暗がりを、背後から斬りつけ、池田は見事、仇討ちを果たします。


そこで上士と下士の対立が深まり、龍馬らが池田の家に集まり、上士との間に一触即発の事態になります。半年後、下士が土佐勤王党を結成したのはこのような背景によるものでした。結成は江戸、武市が結成したものですが、下士の不満分子を武市がうまく利用して、尊王攘夷の運動を作っていこうとしたものと思われます。龍馬もいち早く土佐勤王党に加盟しました。


その龍馬ですが、正規の教育は受けていません。子供の頃通っていた漢学の塾をやめてから、乙女姉さんに武芸を教わりました。乙女姉さんは身長176センチと大柄です。龍馬は馬術も姉に教わったと言っています。齊藤孝先生も指摘していますが、龍馬は読み書きは達者ではなかったようです。


龍馬よりももっと身分が低かった岩崎弥太郎は、学業で頭角を現して出世していきましたから、龍馬は今でいう学歴エリートではない。龍馬は、父・八平の後妻・伊与の前夫の実家で、乙女とともに種崎を訪れ、長崎や下関からの珍しい土産話などを聞き、世界地図や輸入品を見て海外に憧れたといわれます。

龍馬が一人で熱心に本を読んでいるのを何度も見たという目撃談もあります。勉強熱心だったのは間違いないようで、西洋かぶれの佐久間象山の塾に入ったことからも、海外への関心が強く、兵学、砲術等、実学志向が強かったように思われます。


少年時代、海外に憧れて、藩の枠では無理だけど、一流の師匠の下で、最先端を行ってやるぞ!という

強い気持ちを抱いていたのでしょう。勝先生の門を叩いたのは、ある意味必然だったように思えます。


むしろ、無職、エリートコースを外れて、政治的主張を声高に叫ぶヘンな浪人を、その主張を聞いて評価して受け入れる度量のある人がこの時代にいたということに、驚きを隠すことは出来ません。


龍馬の書いたものを読むと、なるほどな!と確信できることが多々あるのですが、またそのうち書きます。


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