あかり姫と坂本龍馬伝説 -11ページ目

フリーター 坂本龍馬さんを学ぶ 其の三十一

将軍家茂が孝明天皇に約束した5月10日の攘夷決行の勅令は、久坂玄瑞が朝廷に提案した建白書に基づくものでした。

 

久坂にとって攘夷とは、師吉田松陰に与えられた課題でもありました。

 

「もう攘夷は無理」と説きながら、「攘夷を止めるべきではない」という遺書を残した松陰の言葉は矛盾に満ちていました。この課題に久坂はどう答えるのか。いかにして松陰の理想を実現していくのか。攘夷の建白書の提出、それは、久坂たちが悩みながら出した一つの答えでした。

 

長州藩内でも、外国に国を開き、通商を通じて国を強くすべきだという主張が強くなっていました。朝廷は幕府に政権を委ねている。各藩は幕府に認められた存在に過ぎない。そうであれば、長州藩は幕府の指示に従うのが筋ではないか・・・。

 

しかし、久坂たちはそうは考えませんでした。

「幕府の言うとおり、外国の言いなりになっていてよいのか。真の通商とはどうあるべきか。攘夷とはただ、外国人を斬るようなことではない。欧米の商船が、国の武力を背景にして我が国の沖を自由に走行していることが、我が国の商業にとって良いことなのか。目の前を自由に航行する外国船を、我が藩は指をくわえて見ているだけでよいのか。我が国における通商の諸原則は、我ら日本人が自ら決めるべきことではないのか。」

 

久坂の演説は、村塾生を中心に、藩内で一定の支持を集めました。

 

そうはいっても、孝明天皇が攘夷派だと言っても、幕府と諸外国の通商は、事実として進んでいました。

 

そんなとき富永有燐はどこからともなくふらっと来て久坂に言うのでした。

「君は、松陰に攘夷は無理だと諌められたのではなかったか。幕府は朝廷から政権を預かっており、我々としてもまずは藩の指示に沿って動くべきが勤王の本筋ではないのか。」

「しかし、松陰先生も攘夷はやめるべきではないと仰っておられる。外国に馬関の海を外国に自由に通行させるのは、もはや我が国は外国の支配下にあるということです。」

「だからといって、勝手に何もしておらぬ異国船を攻撃すれば、それは無益な紛争を招くのではないか。君たちが殿様に諌められた異人斬りと同じではないか。単純な奴め。」

富永が馬鹿にしたように文句を言うのは昔からのことでした。

「この度の攘夷に大義はあります。悪戯に異人を討つのではありません。我らの商業の秩序は我々が作るということです。攘夷とは手段に過ぎません。」

「そんなことを言うが、所詮は武力で追い払うのであれば同じであろう。我が藩が異国に勝てる力があるのか。松陰ならどういうであろうかの、お医者殿。」

久坂はムッとしました。

「攘夷は当藩だけで行うことではありません。天子様が命令されて、幕府の責任で国を挙げて行うものです。あと、富永さんは松陰先生ではありません。先生のお力が無ければ貴方はまだ牢から出られなかったのではないですか。」

「ワシには松陰の声が聞こえるぞ。どうせ将軍は動かぬ。日本が滅びるからやめておけとな。松陰の大きな声が野山の獄に木霊しておるわ。ハハハ」

そういうと、有燐はまたどこかに立ち去りました。

 

誰でも自由に忌憚なく意見をぶつけ合う。それが松下村塾の流儀でした。こんなとき、高杉晋作は謹慎中でした。

 

朝廷からの攘夷の命令を得た今、久坂は低い身分の自分が天子様に認められたという思いに感極まっていました。

 

ー我が藩の海は、勝手に異国船に通らせぬ。お国の商業は我らの手で作る。異国船が従わぬなら討つー

 

これが久坂玄瑞が目指す「夢」であり、攘夷の5月10日とは、その計画であり実践なのでありました。

 

4月22日、玄瑞は藩によって正式に武士に取り立てられ、25石の禄高を与えられ、義助と名乗りました。そして26日、久坂は、50人の同志を率いて馬関の光明寺を本陣として、部隊を結成しました。部隊は「光明寺党」と呼ばれるようになりました。伊藤俊輔、赤根武人、入江九一、野村和作、吉田稔麿、山縣小助たち松下村塾の門下生たちが集まりました。攘夷のためには公家も武家もあるまいと、公卿中山忠光も駆けつけて加わりました。久坂たちは中山を党の首領に選出しました。また、久留米藩の真木和泉も党に加わりました。まさに、藩や身分を超えた草莽の志士を中心とする部隊が出来上がりました。5月10日に向けて、攘夷の準備をしていた長州藩の正規の部隊とは別に、異質な部隊が出来上がったのでした。

 

しかし身分を超えた部隊には頭の痛い問題がありました。特に、赤根や伊藤は党の実務を担う立場で、暗い顔をすることが多くなりました。

 

公家の中山が、光明寺で、次々と指示を出したのです。ニコニコしながら、

 

「勝ったら酒宴だ!君たちに私が酒を振る舞うから準備しなさい!」

 

特に、元々百姓身分の赤根と伊藤は主導的な立場でしたが、中山が次々と指示する聞いたことも無い高級食材の名前を聞いて、怪訝な顔をして、顔を見合わせて困り果てたのです。

 

「あの方は苦労を知らない。それ以前に、何を言っているのか分からぬ」

 

身分の低い隊員たちとお公家とは、使う言葉が違います。意思疎通がうまく行かず、混乱に陥ることがしばしばだったのでした。

 

そうこうするうちに、文久3年5月10日はついに到来しました。雨が降りしきる中、久坂たちは攻撃の指示を待ちました。しかし、いつまで待っても幕府からの指令は来ませんでした。幕府は孝明天皇との約束を無視したのです。それどころか、商船は長崎への書状を持っているから撃つな、との藩からの指示が久坂らに伝えられました。

 

久坂は黙って指示を聞き流しました。

ー天子様の命令には、将軍も殿様も、従わぬでは済まされません。天子様に忠義を示すのは我らの務めです。ー

そう反論したい気持ちに駆られましたが、藩士として、公然と思ったことを口に出すことは出来ません。グッとこらえるしかありませんでした。

 

そんなとき、公家の中山はニコニコとして言いました。

 

「とくせん如きの家来の戯言、聞くに及ばず。」

 

次々と無理難題を指示する中山に閉口することもしばしばの党員たちも、このときばかりは中山の存在を頼もしく思えました。その発言と存在には、不思議と幕府や藩の指示を跳ね返すだけの威力が備わっていました。

 

このとき伊藤も山縣も、朝廷の威光をはっきりと肌で感じたのでした。

 

そうはいっても、長州藩の砲台は青銅製で、飛距離はせいぜい1000メートル程度、海峡の狭いところでも780メートルもあります。攻撃しても当たらない可能性がありました。

 

久坂は伊藤や赤根らと協議を重ねました。その結果、松陰の教えを元に、奇襲をかけることにしました。夜中に商船に近づいて、次々と砲弾を放つという作戦でした。まず砲撃の対象となったのはアメリカの商船「ベンブローク」でした。

 

光明寺党員たちは雨の中、藩の艦船に乗り込んで暗闇の中をベンブローク号に接近します。

 

「撃て!」

 

久坂の甲高い声が暗闇の中に響き渡ります。山縣たちは一斉に砲撃を開始しました。砲弾はベンブローグ号を直撃しました。至近距離で放つ砲弾は次々と命中しました。ベンブローグ号はぐっと傾きました。

 

「あと少し!」

 

明け方まで砲撃を続けましたが、ベンブローク号は逃げて行きましたが、ついに沈没することはありませんでした。

 

「おのれ、しぶとい船じゃ」

「メリケン人め、これが神州の民の力である!」

「メリケンに勝ったぞ~!」

「黒船など恐れるに足りず!」

 

明け方の海峡、船の上に歓声が響きます。

玄瑞たちは今、まさに攘夷を決行し、成功した達成感と喜びに満ちていました。

 

「よし、酒宴ぞ、酒宴ぞ!」

知らせを受けた中山は嬉しそうに指示を飛ばします。

 

光明寺党の酒宴は大盛り上がりとなりました。

 

その後も光明寺党は引き続き、海峡を通る外国艦船を次々と追い払いました。藩内での光明寺党の名声は高まり、藩の正規軍の藩士たちが入党を希望するほどになったのでした。

 

このとき、伊藤のような身分の低い草莽の志士たちが、朝廷の威光を借りながら、攘夷の実践を通じて将軍や藩主と肩を並べ、歴史の表舞台に躍り出たのでした。

 

バイトを辞めた年の確定申告について衝撃の事実判明

みなさん、バイト辞めた年に、会社に源泉徴収票もらったことありますか?

 

今まで私はバイトを辞めた年には会社から源泉徴収票をもらったことがありませんでした。

毎年、手渡しでもらっていたので、向こうからくれるもんだと思っていて、辞めた年はもらったことがありませんでした。

 

だから、もらえなくても全く気にしていなかったし、知識もなかった。

 

昨年の所得は全然で、辞めたのは紹介会社で、紹介先企業で働いていたわけで、前年の源泉徴収票は、紹介会社に電話して、そこから紹介先企業に送ってもらうというなんとも複雑な仕組みで源泉徴収票をもらっていた。

 

とはいえ、源泉徴収票を出すのは、紹介先企業という点では同じです。

 

前年の源泉徴収票を見ると、数万円が引かれていた。

 

その点、昨年二か月分は大したことないはずだし、紹介会社に電話するのも嫌なので、今年の確定申告は断念しようかと思っていた。

 

しかし、調べてみると、会社を辞めた場合、会社は数カ月以内に源泉徴収票を発行すべきことになっているようだ。

 

紹介会社に電話をしてみると、各自で各社に取りに行けという話で、働いていた頃とは全く違う、冷たい対応だった。電話代が・・・

 

どうせそうなるだろうと思って、フリーダイヤルにかけてやったので、電話代はかからずに済んだのでした。

 

昨年は、辞めて以降、紹介先にマイナンバーを提出していなかったため、前年度は出てるのに、ネットに社員番号を入れても今年度の源泉徴収票だけ出て来ない会社もあった。これは、懲罰か・・・。

 

ある会社は、結構引くんだよなあ、と気になっていました。たとえ数千円でも、働いた分がパーになるのは恐ろしく、この程度で負けてはいられない。私は思い切って、紹介先の会社三社に電話をしてみた。

 

正確には、社員番号を紛失していてしまって、社員番号から問い合わせをしていた。

 

勇気を出して源泉徴収票が出ていないと告げると、あっさりと自宅に郵送しますとのこと。ほとんどゼロに近い会社も含めて、三社とも自宅に郵送してくれるとのこと。

 

この対応はなんだ!会社にとって、税金関係はよほど非常に重要なことなのだろう。税務署に睨まれると、変な因縁を付けられたりして大変になるからなのだろう。

 

なあんだ!こんな簡単なことだったのか!

 

税務署に問い合わせると、還付請求は5年間は出来るとのこと。

 

収入が少なかった場合、所得はゼロの扱いだから、源泉徴収分が帰ってくることがあるのですが、過去5年に遡って申告できるのです。

 

確定申告は3月15日までなので、市役所では手続きが取れないとのことだったので、私は、税務署に行き、還付申告を無事終えたのでした。

 

源泉徴収されていた額は、何と4万円を超えていました。

 

二か月しか働いてないし、給料も大したことないのに、前年よりも所得税で引かれてる額を超えてるってどういうことだ!?

 

誰でも知ってるあの有名会社ですが、悪意すら感じるのは気のせいだろうか・・・。

 

本当に、辞めた年の源泉徴収票をもらうことって、大切なんですね。盲点でした・・・。

 

フリーター 坂本龍馬さんを学ぶ 其の三十

ある日、勝海舟は龍馬に言いました。

「私もね、その、君の言う尊王攘夷の志士たちを見習ってだね、上様に直訴してみようかと思うんだよ。神戸に海軍学校を作ろうと思ってね。君が言うように、外国と戦うには既存の幕府や藩の組織だけではダメだ。君たち「草莽の志士」の力が必要だ。幸い、家茂公は稀にみる優秀なお方であらせられるからね、おれの話も聞いてくれると思うんだ。」

「それを将軍様に直訴をされるということですか?」

「ああ、そうだ。君たち若い浪人たちが命がけで国に尽くそうというときにね、この私もね、独りの志士としてだね、将軍様にだね、言うべきことをいおうじゃないかとだね。」

「さすがは先生です。以蔵のような京で暴れちょる連中でも塾に入れるということですか」

「そうだよ。彼らこそ、異国から国を守るために働いてもらわないと。」

それを聞いて、龍馬は顔をほころばせました。

「いくら過激な主義主張を唱える者でも、金を与えられ、生活ができるようになればコロッと態度を翻すことはこの塾の面々がを見れば分かる通りです。今は討幕を唱えて京で悪さをしている輩たちも、きっと先生の志に胸を打たれ、心を入れ替えて先生の下で修行に励むことでしょう。以蔵のように腕の立つ浪人が京にはまだまだ大勢おります。私が説得して、連れて参りましょう」

 何かをやろうとしても、金が要るということは痛切な問題です。交通費を考えただけでも外出するのが億劫になるものです。ましてや大きな事業を興そうとすれば、問題は比較にならないほど大きくなります。自分の稼いだ金だけでは事業は興せません。事業資金を誰が出すか、お金を融資してくれる人を説得してそのスポンサーを探さなければなりません。

かくして、勝海舟は将軍家茂公に海防の必要性を説き、神戸海軍操練所の創設の提案を直言したところ、家茂はその場で許可を出したのでありました。

勝海舟の海軍操練所も、幕府から3000両の資金が提供されることになりましたが、それでは足りないということで、理解あるスポンサーを探すことになりました。この時代の各藩の財政は火の車、財政改革に成功した越前藩の殿様、攘夷に理解のある松平春嶽公に、1000両の資金提供を頼もうということになりました。

「おれは上様に直言して神戸の海軍操練所建設の計画を申し上げ、認めてもらうことが出来た。今度は春嶽公に直訴して資金提供を、と申し入れたいところだが、あいにく多忙でね、この勝に忠義を尽くす者はおらぬか?春嶽公に命がけで直訴する者はおらんか?」

「私がやります」龍馬が申し出ました。

「貴殿に出来るのですか。責任重大ですよ。藩の公金を引き出すのですよ。私はしかるべき者が交渉に当たるべきではないかと。」佐藤が口を挟みました。

「私は春嶽公と面識があります。勝先生を紹介して下さったのも春嶽公で、春嶽公は私と意見がよく合います。勝先生の書状をいただけるならば、身命を賭して資金提供をしていただけるよう努めます。」

「私は坂本さんが心配です。行く前によく打ち合わせをしましょう。」庄内藩士である佐藤が打ち合わせのサポートを申し出ました。沢村と近藤も入って綿密な検討を行いました。

かくして、龍馬は越前藩に、勝の書状を持って乗り込んだのでした。

「坂本龍馬、久しいのう。よう参った。ゆっくりしていきなさい。」

「殿様のお口添えのおかげをもちまして、勝先生の門人としていただくことができました。ありがとうございました。」

「うむ、勝の書状の仔細は承知した。そなたの意見を述べてみよ。」

「はい。恐れながら申し上げます。異国が大阪を攻めれば、現在の幕府は対応できません。京大阪には朝廷の家臣と称する浪人が多くおり、討幕を唱えております。異国が強力な武器をもって攻めて来るかもしれぬ中では、国を挙げてこれを迎え撃つ準備が必要です。国元で出世できず不満を持つ者や浪人者にしかるべき職と活躍の場を与え、国防に尽くさせることが必要ではないかと思います。また、京大阪の治安が良くなれば、越前の商業にも良い影響が出てくると思います。」

「なるほどな。」

「私ども勝先生の塾生は、攘夷の命令があれば、命を投げ出す覚悟で日々、修行に励んでおります。日頃討幕を唱えて乱暴狼藉を働いてきた浪人者たちが、勝先生の下で目を輝かせて修行するようになりました。」

「うむ。わしとしては1000両の供出に異存はない。だが、藩の財政のこともある。当藩の財政の担当者が何というか。彼らを説得できるならば供出を認めよう。」

そう言うと、春嶽公は引継ぎを指示して立ち去りました。

別室に通されると、産業を振興し、産品の流通路を開拓して越前藩の財政を立て直したという由利公正と、学者の横井小楠が出てきました。

「お久しぶりです。越前までようこそおいで下さいました。お殿様が貴殿のことを立派になったと褒めておられました。こちらが由利公正殿、越前藩の財政を立て直した立役者です」横井が挨拶しました。

「いやいや、それはまだまだ課題がある話でして、この度の勝様からのお申し出について、私は藩の財政を預かる者として、一つ伺いたい点があります。海軍操練所なら江戸にありますが、なにゆえに神戸で?しかも私塾まで・・。」

由利が聞きました。

「はい。確かに、江戸でやればよいという話もあります。しかし、大阪が異国に攻められた場合には対応できません。また、京大阪には討幕を唱え、京の天子様の家臣を名乗る者が多く、土佐や長州の者、浪人者が暴れております。いざとなれば、彼らが暴発するでしょうが、異国との間に無用の争いが生じかねません。元より今の幕府の力では異国に勝てないというのが勝先生の見立てであります。そこで、京大阪に海軍の拠点を作り、各藩の子弟を軍人として教育すると同時に、京大阪におります不満分子を雇い入れ、国防に尽くさせることを幕府としても行っていくべきではないかと考えます。尊王攘夷、討幕を叫ぶ連中は、しかるべき職と金を与えれば、おとなしくなります。私は多くの浪人を勝先生の下に入門させてまいりましたが、見事に大人しくなり、今は修練に励んでおります。」

「ふむ、尊王攘夷を叫ぶ浪人どもが実利に負けて幕府に恭順するとは片腹痛い話」

「左様。浪人者の活用は、幕府が難色を示すでしょうから、藩士の操練所と勝先生の私塾も隣接して作り、そちらとの二段構えでいこうということで思うちょります。」

「そこで当藩に資金援助せよとは?」

「海軍操練所は、京大阪の治安の悪化を防ぐという役割もあります。この地域の治安の悪化は越前の商業や交易に影響を及ぼすことが予想されます。」

「そうですね。正直なところ、貴殿がそこまで言われるとは思いませんでした。京大阪の治安については、当藩としても無視できないものがあります。せっかく藩の産業が育って財政が上向いたのに、わけのわからぬ連中が京大阪を荒らしまわっているというのは、頭が痛いところで・・・」

「いずれにせよ京大阪の治安を良くする。浪人者に職を与え、生活の基盤を保障することで国防にも役立つとあれば、当藩としてもこれに反対する理由はありません。むしろ、当藩にも有利になるところがあります。もし操練所が出来れば、当藩からも積極的に藩士を差し向けることになりましょう。」

「今後発展するであろう異国との通商を考えても、地域の治安と海防がしっかりしていることは、貴藩の財政にとってよい影響をもたらすでしょう」

「その通りですね。」

「当藩の財政について、大阪の海防と関連して考えるなど、正直なところ私には思いもよらぬことでした。坂本さんの発想は素晴らしいです。」

「いえ、お殿様のご教示下さいましたおかげです」

「お殿様が貴殿を当藩で召し抱えたいと仰っておられましたが。」

「いえいえ、私にはもったいないお言葉畏れ多いです。私など何のお役にも立てぬもので。土佐の芋掘りとも泥をかぶったしじみとも区別のつかぬ者でして。」

あくまで頭を低くして分をわきまえる姿勢は、由利と横井にも良い印象を与えたのでした。

 かくして龍馬は、天下の由利公正、横井小楠という当代最高の知識人を納得させて、1000両を越前藩から引き出すことに成功したのでした。しかも越前藩からのスカウトを申し出られるという浪人にとって最高の栄誉が与えられたのです。土州浪人坂本龍馬の実力が認められ、その名声が広まったのは、まさにこのときなのであります。

 

「おい、ワシはやったぞ!春嶽公から1000両引き出したぞ!」

「やりましたね!心配しておりました!」沢村が言います。

「私が申し上げたあれが認められたということですね。」佐藤と沢村と共に最後まで案を練った近藤長次郎がぼそぼそと肯きながらしゃべっています。

「よし!お前らにも報酬を与えよう、ワシが10両、沢村に10両。近藤も10両じゃ」

そう言うと、龍馬は二人を伴って、勝塾での費用として越前藩から拠出されて奉行所で預かっている資金を降ろしに出かけ、担当者から30両を降ろしたのでした。

「あの、追加で20両下さい。私が佐藤さんたちにも渡しますから」近藤長次郎が言い、追加で受け取りました。

 三人は大役を果たしたことを称え合い、お祝いにと祇園に繰り出して盛大に遊んだのでした。手柄を自分独りのものとせず、喜びを分かち合い、相応の報酬を与えようと、どこまでも仲間を思う龍馬なのでありました。

 祇園ではお金持ちが来たと大騒ぎ。沢村も近藤も初めての遊びで大興奮。羽目を外して大騒ぎしたのでした。

かくして龍馬たちは50両をあっという間に使い果たしてしまったのです。

 

その後、塾頭の佐藤が勝の指示で越前藩からの資金を降ろそうとすると、1000両あるはずの資金のうち50両が足りないことが判明しました。

「や、やられた・・・あ奴ら・・・!だから言わんことかと・・・」

出羽の国の出で色が白く、温和な性格で普段はめったに怒らない佐藤でしたが、このときばかりは顔を真っ赤にして怒りました。

龍馬に聞くと「10両を借りて、入門を考えている浪人者たちの支援に使いました。大藩の名のある者ゆえ今は名は明かせぬが、必ず返すと言っています。」と苦し紛れにいいます。沢村は「確かに、10両借りましたが、紛失しました。盗まれたに相違ありません。盗賊が増えている故、佐藤様もお気を付け下され!」と真顔でいいました。

「近藤君、君は30両ですか。君が坂本よりも多いとはどういうことですか!」

「実は、塾の書籍購入のために30両を借用しましたが、腕っ節の強い強盗に取られました。私は饅頭屋の出なので剣の方は全くダメで、すべて巻き上げられてしまいました。この通り、肩が上がりませんイテテ!」と、わざとらしい仕草でいいました。

佐藤は呆れ果てつつも、塾生たちの活躍を認めないわけにはいかず、真っ赤になって

「お前たちいいな!か、必ず返せよ!」

と言うのが精いっぱいなのでした。