あかり姫と坂本龍馬伝説 -13ページ目

高知競輪で再びTシャツ当選

今夜から久々の高知ミッドナイト競輪です。

明日も大晦日から元旦にかけてミッドナイト競輪がニコ生で配信されるという企画。

 

前に白いTシャツが当たったのですが、またしても今度は黒のTシャツ当選のご報告です。

 

高知競輪は一味違います。

明日は競輪で年越しです。

 

吉田松陰はテロリストだったのか

吉田松陰はテロリストだった!最近、そういう論稿を見かけました。本を読んでいないので軽率なことは言えませんが、私なりの考えを書いておきたいと思います。

テロとは、平和的秩序に対する実力的破壊行為です。

確かに、吉田松陰は老中間部を武力で殺そうと考えて、血判状を作って、藩に武器調達を打診しました。

これを非難するのは簡単ですが、江戸時代が封建社会だったという時代背景を考える必要があります。厳然とした身分制社会であり、身分の低い者が政治を批判することは、武士であってもできません。政治を批判した人は、何年も牢獄に服役したり、処刑されたりしています。富永有燐は、頭が良過ぎて周りを馬鹿にした態度が祟って、7年もの間獄中にいて、獄中で松陰と知り合ったのです。松陰にも藩を批判したり、幕府の政治を批判する言論の自由はありませんでした。いつ権力に一方的に抹殺されるか分からない不安の中で、牢獄の中で政治論を考えていた。

つまり、権力者は批判者を弾圧し、処刑する権限を持っているけれども、庶民はこれを批判したり、辞めさせたりする権限は何も持っていなかったのです。

要は、吉田松陰が提唱したのは、自由のない圧政の下で、それへの抵抗運動だったと考えられるのです。日本を変えろ!命がけで変えろ!というのは、何も不自然なことではない。身分格差のある目上の者に下の者が諫言をしても投獄されて命を奪われる危険が高い政治体制を変えようとする。そもそも不平等なのはおかしい。この人と自分は本来平等であるはずである。身分格差がある場合、何をするにも下の者は命がけになる。そうであれば上の者を討とうという考えになっても不思議ではない。

また、テロであれば他藩からの非難が強いはずですが、薩長同盟では、幕府寄りだった薩摩が長州を支持したわけです。粗暴なだけなら誰も従わず、長州は潰れていたでしょう。

今の時代は四民平等ですから、権力者の批判をするにしても、様々な機会があり、自由です。立候補して敵を負かすこともできる。だから現代社会で長州のやり方をやれば、社会の支持を得られず、テロとして非難されます。しかし、国や政治体制によっては、必ずしもそうとは限らない。それだけ幕府への信頼が崩れていた。

また、廃仏毀釈にしても、僧侶との度々の心の交流があった松陰が過激な行為を容認したとは思えません。神道も上からの強制論者もいるが、自分としては強制でなく、自ずとそうなるのが望ましいと述べて一線を画しています。

結論としては、吉田松陰は革命家だったと言えるかもしれませんが、封建制度の中ではその表現は抑えたものでした。身分道徳を尊重しなさい。主君がどんなに悪くてもその人の為に尽くしなさいと教えている。ここまで理解すれば十分でした。しかし、どんなに偉い人でも天皇の下では君たちと平等なんだよと、説いている。天皇のために、草莽の志士が偉い人を従わせることが可能になる。身分制を打ち壊すのはこの理屈なのですが、分かる人には分かるといった程度だったようです。弟子たちは身分制度を打破し、武士階層の特権の廃止まで突き進んだ。しかし、急進的な変革の中で、倒幕の主要メンバーはほとんどが死んでしまった。内部の調整がうまく行かず、多くの離反者を出して、ついには松陰先生の評価が高かった前原一誠が萩の乱を起こし、松陰を育てた玉木文之進の養子の玉木正誼と門弟の多くが参加したため松下村塾の関係者らが萩の乱に加わり、鎮圧されてしまい、玉木文之進は切腹する。松陰の親友で松下村塾を支えた富永有隣も参戦し、その後懲役7年になっています。結局富永有燐は人生のうち14年間もの間、獄中で暮らしたのでした。その後山口で帰来塾を開講。

このように松陰門下生の足並みは揃っていたわけではなく、最後は松陰の教えから大きく踏み外していくことになったのです。「聖賢におもねるな」とは、松陰の教えです。弟子たちが自分で考えて新国家を作ることは大いに歓迎だったことでしょう。ただ、久坂玄瑞が外国人を殺したいと言っていたのを、もう無理だやめておけと諌めた話があるように、弟子たちには入門前から松陰先生も驚くくらいの過激なところがあったというのもまた事実なのであります。

フリーター 坂本龍馬さんを学ぶ 其の二十八

「坂本は尊王攘夷ってどう思う?」勝がふと聞きました。

「塾内でも議論のあるところですが、そもそも理解しておらぬ者が多いのも実情です。」

勝塾の中では、尊王攘夷派と佐幕派で議論が噛み合わないことが多く、激論になることもしばしばでした。双方共に理解が不十分であると龍馬が指摘することが多くなりました。そこで、長州で久坂に尊王攘夷の思想を叩きこまれた龍馬が塾生たちに尊王攘夷派の動向を講義することになったのでした。

講義の当日、部屋の後方に勝先生の姿もありました。

「エヘンエヘン、講師の土州の坂本であります。この度は勝塾講師に就任しまして・・・。

外国から日本を守るためことを攘夷と言い、天皇のために命を投げ出すことを尊王と呼びます。外国が攻めてきたら日本を守るという点で両者の間に異論はなく、征夷大将軍様も天皇よりその位を戴いたものです。国のために尽くすことは天皇のために尽くすことであり、これを勤皇と言い、それ自体が大切な仕事であってその限りでは下層の者と大名や将軍の間ですら貴賤はありません。外国に媚びへつらって外国と通商条約を結ぶはもはやその義に反する。武士、農民や商人であっても国家のことを我がこととして考える気概を持つべきであり、幕府の誤った決定については異議を述べて政治を正すことが出来ます。そのためには命を惜しまないのが武士であり、尊王攘夷の運動を先頭に立って戦うべきであるという。これが長州の連中の基本的な考え方です。」

勝が口を出します。「それでは幕藩体制はどうなる。」

「勤王は命がけです。殿様を諌めようとすれば命を捨てる覚悟が必要になります。身を捨てて殿様に諫言せよということです。そういう覚悟ゆえ、反対派を容赦なく切り捨てるが如きこともやりよる連中が出て来ちょります。天皇のため、日本のためなら国が滅んでも構わんちゅう、草莽の志士が国を変え、日本を守るという気概に溢れちょります。」

勝がまた口を出します。もったいない。日本のために命を捨てる覚悟の若者の力が必要だと思うが、アメリカの軍艦には日本人が束になってかかってもかなわないねえ。国内でそういう対立をしている場合ではないし、いたずらに命を粗末にすべきではない。

佐藤政養が割って入ります。

「坂本先生、連中は幕府よりも朝廷を重んじており、幕府を否定しておるとも聞いております。幕府や藩の協力なくして攘夷などできるとは思えません。」

「彼らの考え方は必ずしも幕藩体制を否定するものではありません。むしろ今ある幕府や藩を利用しつつ、商人や農民をも巻き込んで、各自の立場から協力し合おうというものです。久坂たちの師匠であった吉田松陰も幕藩体制を否定しなければ国を守れないとは言うてはおりません。」

「嘘つけ!吉田松陰は老中の間部暗殺を企んだから処刑されたのだよ!」

勝の突っ込みが入ります。

「それは天皇に忠誠を尽くさない者は死ぬべきだという考えによるもので、たとえ老中様であっても非難されるべきだという思想です。間部様は朝廷に対して無礼を働き、尊王攘夷派を弾圧したためですが、吉田松陰はあくまで間部要撃を頭で考えただけで、何一つ実行されちょりません。あれで首をはねられるのは言いがかりであると長州のもんたちは憤っております。」

「つまるところ、吉田松陰は赤心を重視しておったということです。赤子の心で政治を見ておかしいと感じた心を大切にしちょります。しかし、それを監獄でも貫いたのが失敗じゃった。松陰は官吏に考えたことをそのまま話して死刑相当だと笑っただけだったと聞き及びました。その程度で首をはねられたら、我々志士たちは消えていなくなるでしょう。松陰は、さまざまな情報に触れてそこから考えることが大事で、外国に渡り、外国の情報を集めて外国のよいところを取り入れるべきだというておったようです。私の場合、子供のころ、外国の舶来品を見たことがありますが、小さな装飾品一つを取っても外国人の繊細な感性など、学ぶべき点は多いのではないかと感じております。今の尊王攘夷派には天皇のためと称していたずらに外国人を斬れなどと叫ぶ者も多いですが、その点は慎重さに欠け、むしろ付け入る隙を与えるものであり同意できません。」

「う~ん、やはり吉田松陰処刑は誤りであったのか。吉田松陰、悪くないねえ」勝はうんうんと肯きながら呟きました。

「外国人を斬れば対外的に大問題になります。戦争になりかねません。」佐藤政養が言います。

「天皇を中心に攘夷をするというのは分かったけど、幕府を中心にまとまるのはダメなのかな。征夷大将軍は公方様なのだが。」勝が言います。

「吉田松陰は、天下は万世一系の天皇のモノと考えます。天下を人民のモノと考える外国とはこの点で大きくちごうちょります。将軍様も天皇のために尽くす立場に過ぎず、勤王の志士たちと対等な立場ということになります。勤王とは、身分秩序に捕らわれず、自由に国家のあるべき姿を追求する考え方です。尊王攘夷の志士たちは、大いに議論し、勤王の活動に励んでおります。」

「だから過激なことをやるわけか」

「身分秩序をわきまえぬとは、国が内側から崩れてしまうであろう」

塾生たちは口々に言います。

「どこかで聞いたことのある考え方だな。ただ、天皇のためっていうところが引っ掛かるね。本当は他のことを考えてるんじゃないのかな。それで浪人って普段何してんの?」勝が聞きます。

「沢村君、浪人は普段何をしておるのですか?」龍馬が指名します。

「え!?いや、その、内職などをしながら宿を借りたり、野宿をしたりして、文武に励む者が多いかと。私はつてで公家侍をしておりましたが。」

「浮浪者同然の者も多いです。商家よりモノを盗んでお縄になる者も多いです。」

「切腹させられそうになったのもおった。恥ずかしい限りじゃ。今は行方不明になっとるがじゃ。」

ガハハハハ!と土佐の者たちが大笑いしました。龍馬の親戚筋に当たる山本琢磨が、柱時計を佐州屋から盗んだとして切腹させられそうになったところ、龍馬が逃がしたという話でした。

「う~む、そういう若い連中の有り余った力をなんとか国のために利用できないものかなと幕府の奉行としては考えておるところだ。」

「そうでしたら私に良い案があります。船を手に入れて浪人たちを集めて蝦夷地開拓をするのはいかがでしょうか。当然隊士には相応の報酬を与えます。天皇のため皇国のために尽くすことができるのですから、蝦夷開拓を希望する浪人も多いでしょう。長州の連中も私の案に必ずや賛成するであろうと確信します!」

「それは良い考えじゃ。」

龍馬は勝塾の皆の前で、船を手に入れて蝦夷地の開拓を進めようという夢を自分の案として語りました。これには佐幕派も攘夷派も聞き入り、異論なく賛成しました。蝦夷地開拓案自体は龍馬の発案ではありません。しかし、龍馬は佐幕派と攘夷派を前にして、両者が意気投合出来る一致点を探り、双方の協力を現実化する計画を提唱することを通じて、みんなの士気を盛り上げていったのでした。かくして勝塾生たちのまとまりが強まると共に、龍馬の人望も高まっていったのでした。

                                                  つづく

 

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先日、高知移住フェアに行ってみました。高知の企業や役所の人々と直接話をしました。坂本龍馬や中岡慎太郎を生んだ遥かなる土佐へと想いを馳せつつ、新たなインスピレーションを得たのでした。