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未だにその主旨と導入の意図が釈然としない現行の日本の裁判員制度には、

とても違和感を感じている。

 

仮に召集されても参加するつもりは無い。

 

裁判員裁判の判決の決定権は裁判官が握っていて、
裁判員の意向は反映されない。

 

 

ではなぜ裁判員が必要なのか?

 

裁判員を介在させる事で、責任を分散出来るし
裁判所に対する批判をかわしたい場合には、

とりあえず好都合だ。

 

世の中はさほど厳密に動いておらず、
人の考え方も流動的かつ結構無責任だったりする、

 

日頃から自分で考え出した答えを持っている人が、
どれくらい居るだろうか?

 

国民の半分も居れば、それはかなり成熟した社会でしょう。

 

要はお人好しで騙され易い人の割り合いが高くなれば、
それだけ、矛盾が矛盾として認識され難くなる。

 

 

また裁判では、裁判員を被告人と向き合わせ、質問をさせ、
被告人の量刑を左右するかも知れない供述を引き出させる。

 

これが何を意味するか?

 

判決を決定するのは裁判官だが、
被告人の恨みがどこへ向かうかは自明である。

 

裁判員やその親族に危害が加えられるおそれがあり、
裁判員の関与が困難な事件は、
裁判官のみで審理及び裁判をするという規定はあるが、
それが適切に機能する保証は無い。

 

お礼参りという言葉があるが、これは言葉だけでなく、実際にあるのです。

 

これまでは、裁判官に向けられていたものが、
すべてではないとしても、裁判員に向けられる事になるでしょう。

 

裁判官は自らその職を選んだもので、セキュリティー面の整備も出来るが、
そうではない裁判員にとって、それは大きなリスクでもある。

 

しかしそれよりも、もっと恐いのが、冤罪を出してしまう事。

 

裁判員裁判の場合は、
公判前整理手続によって争点や証拠が絞られてしまうので、
裁判員は犯行の動機や経緯などの重要な部分が、
実は正確には分からないのです。

 

そのような中で、量刑を決めるのは無理があり、無謀とさえ言える。

 

裁判員は匿名であり、
なにか問題があった場合の、金銭的賠償は国が行なうと規定されているが、
冤罪を出した事による精神的な苦痛や負い目を拭い去る事は出来ない。

 

無作為に選び、半ば強制的に召集するというのも釈然としないところだ。

 

裁判員制度を極端に言ってしまえば、裁判所の職務放棄である。

 

間違った判決を出しても、批判が集中しないとなれば、
これほど気楽な事は無い。

 

裁判員制度の下でしか裁判を行なえない裁判官などは、
絵に描いた餅であり、なんの意味も無いと言っても過言ではないだろう。

 

現行の裁判員裁判制度を見た感想は、ざっとこのようになってしまう。

 

国民が裁判に関わるという事は、重要で大切な事だと思うが、
現行の制度では、ただそこに顔を出しているに過ぎず、
本当の意味の参加は出来ない制度と言えるだろう。

 

裁判員制度の内容に違和感を感じている裁判官も大勢いるはずで、
早くこの制度の不備を無くし、
もっと充実したものにして行く必要があるのではないだろうか?

 

 

 


真の正義。


それは、人種、宗教、国境を超越して、
尚且つ揺るがないものでなければならない。

 

果たして、身の回りに、また今の世界で正義を口実ではなく、
実践しようとしている国があるだろうか?

 

突き詰めるとNOであり、YESと言える時代はかつても無かった。

 

とりあえず目に付くのは偏狭で危険な言葉だけの正義だ。


何故か?

 

正義という言葉は、自由と良く似ていて、非常に響きが良く魅力的だが、
どちらも観念の域を出たことは無い。

 

正義や自由は、その対極の現象が起きた時に意味を持つもので、
不正義や不自由が襲って来なければ、
正義や自由を意識する必要も無い。

 

正義も自由も相対的なものであり、
独立して存在するものでは無く、またその必要も無い。

 

愛は自由や正義などと並べて語られることが多く
同じ次元のものだと勘違いされ易いが、
自由も正義も愛と比較出来るような高尚なものではないのだ。

 

愛は単独でも存在出来るが、正義は単独では存在出来ないし、
例え特殊な状況で存在し得るとしても、
一時的なもので、普遍性は無く、それは自由も同じだ。

 

何事につけても強硬に正義を振りかざす強欲な支配者が、
自由の為に戦え、それが正義だ、愛だ、自由の為だと民衆を唆しながら、
世界に不安を蔓延させている。

 

アメリカを筆頭に殆んどすべての国でそれが行われている(日本も例外ではない)

 

彼等は間違っているし臆病者でもある。

 

支配者は、ただの概念に過ぎない正義と自由に、不当に付加価値を付け、
ちらつかせることで、民衆に恐怖を植え付け、己の権力の礎としている。

 

愛という言葉を巧妙に交えながら、己の欲を満たしているに過ぎない。

 

私は肝に銘じておきたい。

正義は振りかざした瞬間に正義ではなくなると。

 

私は騙されない。

 

振りかざす正義が一時の気休めには成り得ても

そこには決して正当性も愛も無い。

 


いつからだろう?


説明責任という言葉を頻繁に耳にするようになった。


まるで、口癖のように発せられるその言葉にとても違和感を感じている。


説明責任とはどう果たせば良いのか?


そもそも説明責任などという言葉は言葉として成立しているのだろうか?


「説明責任を果たせ」


一見もっともらしく響くが、これほど不可解で曖昧で馬鹿げた言葉は無い。


本当のことが知りたいのなら、そんな言葉で迫るのは間違いである。


私には、とにかく謝れと言っているようにしか聞こえないし、
謝っても許さないとさえ聞こえる。


本当のことが知りたくて言っているとは、到底思えないのだ。


しかしそこを忍んで、説明を試みる人が居たとしよう。


ほぼ間違いなく言い訳するなと罵られ、更に批難されるのがオチだ。


説明責任?


この言葉は、使う者には便利だろうが、
それを口癖のように使われた日にはたまったもんじゃない。


答えようも、説明しようも無いのだ。


自分が言われた場合を考えてみれば、
安易に使ってはならないし、使えない言葉だと、すぐに分かるはずだ。


良くない口癖は早く直した方が良い。


説明責任という言葉で、
誰かをただ追い詰めようとする人物を信用してはいけないし、
私は心底軽蔑している。




上品とは?

 

下品とは?

 

とても立派な身なりをし、下品な人が居る。

 

綺麗な言葉を使い、時々見せる笑顔も、良く計算されていて、

本物かそうでないかすぐには見破れない。

 

そんな人を見掛ける度に、
中途半端な観察では、上品か下品かを見極めるのは難しいと感じる。

 

すぐに尻尾を出す者も居れば、なかなか尻尾を出さない者も居る。

 

明らかに騙されていると思える人に助言しても、
殆んどの人が聞く耳を持たない。

 

私の助言が的外れだからではなく、
自分の判断を否定されていると感じて抵抗しているようだ。

 

そのような人は、だいたいひどい仕打ちに合い、私のところにやって来ては、
耳を覆いたくなるくらいの勢いで相手の批判を始める。

 

だから、言ったでしょうと言うしかないのだが、
そこまで行くとどっちが下品なのか分からない。

 

手放しの罵り合いが見苦しいのは、双方が下品だからだ。

 

結局は、装っている者も、それを見破れない者も下品という事になる。

 

上品でいる為に必要なのは、
装わず、真に下品な者を見極める能力だろう。

 

放送禁止用語を使っても上品さを失わない人も居れば、
綺麗な言葉を使えば使うほど下品になる人が居る。

 

礼儀作法を習い身に付けたところで、
なんの役にも立たないなどと言うと身も蓋も無いが、
誰に教えられたわけでもないのに優雅に振る舞える人が居るのも確かだ。

 

ここのところ、下品な人間が尻尾を掴まれる、

事件というか事態が続けて起きている。

 

証拠改竄に関わった検察官などはその代表で、

逮捕されてからの言動を聞いても呆れるほど下品である。

 

まあ当該検察官の、ご家族、親類、その他周辺の方々には申し訳ないが、

近くに居てというか近過ぎて見破れなかった悔しさを思えば同情に値する。

 

他にも似たような官僚が大勢居るわけで、

我々、国民が汗水垂らして養う値打ちがあるのだろうか?

 

検察官の逮捕が前代未聞の事態という言葉の響きには、

現在、他にはそのような事は無く、過去にも無かったように聞こえるが、

今回の事で、なにが前代未聞かというと、

そのような事が表に出た事と、逮捕に至った事が前代未聞なわけで、

今後も似たような事が起こるし、今も行なわれているのだ。

 

話が少々膨らんでしまったが、

 

この国の中枢に下品が蔓延していると思うと不愉快だし、

自分の我慢の限界を耐え続ける自信も無い。

 

貴重な時間は上品な人と過ごしたいが、

 

下品な者を追っ払っている暇も無い。

 

心当たりはみずからそこを立ち去って貰いたいものだ。

 


上品と下品。

 

ちなみに、私はとても上品なホームレスの人を知っているし、
とても下品なセレブも知っている。

 

 

どちらも短い付き合いだが、もう一度会いたいと思うのは、
当然ながら上品なホームレスの人だ。

 

 

私は、上品な人を見習いながら生きて行きたいと思う、

今日この頃であります。

 


検察審査会は、無作為に抽出された11名の国民という事になっていて、
ここでの決定がいかにも民意を反映したもののように報道されているが、
果たしてそうだろうか?


無作為に抽出するから公平だというのが、そもそもおかしいし、
検察審査会で、その人数を11名にした根拠も不明である。


検察審査員の職務に就くことができない者を大まかに挙げれば、
天皇関係者、国務大臣、裁判官、検察官、会計検査院検査官
裁判所の職員、法務省の職員、国家公安委員会委員、警察職員、自衛官、
知事及び市町村長、弁護士、弁理士、公証人及び司法書士、前科者等。


但し法律に関する専門的な知見を補う必要があると認めるときは、
事件ごとに審査補助員として弁護士に委嘱することができる。


検察審査員はあくまでも一般国民という事になっていて、
審査の過程を他に漏らした者や、審査員に不正の請託をした者に対する、
罰則も決められているが、だからといって安心するのは早い。


検察審査員になるにはそれなりの審査、手続きがあり、
裁判員裁判の裁判員に選ばれるのとは訳が違う。


そのような成り立ちの検察審査会を、
政治的、思想的に中立な者の集まりと言えるだろうか?


今回、小沢氏の審査については、
政治的、思想的な側面が大きく作用しているのは間違いないが、
報道はあくまでも建て前論を前面に押し出し、
いかにも民意であるかのような言い方をしているが、
在特会の意向が強く反映された結果であるのは明らかである。


在特会には在特会の思想があり、言い分もあるだろうし、

それはそれで、大いに結構で、もっと表に出せば良い。


マスコミの意向か、在特会の意向か、確かな事は分からないが、
問題は、その事が表に出ないで(もしくは表に出さないで)
事態が進んで行く事である。


今回、小沢氏が強制起訴になっただけで、悪人だ、辞任しろと騒ぐ国である。


まだ有罪になったわけでも無いのに、(なんとお馬鹿で恐い反応だろう)
一部の国会議員まで、小沢氏の進退を取り沙汰して、
自民党の谷垣氏に至っては、この時点で、絶対辞任に追い込むという姿勢である。


政敵である事は分かるが、虎の意を借る狐のようで、見苦しいし、下品である。


意見の違いはあっても良いし、無くてはいけないし、無くなる事はないが、
だからといって敵対する必要がどこにあるのか?


敵対的に物事を考える者が為せる事はたかが知れているし、有害である。


公約、マニフェストと口では何とでも言えるが、
このような時の対応でその人物の本性が見えて来る。


谷垣氏を含め、そのように下品な人物にこそ、今すぐ議員を辞めて貰いたい。


例え清廉潔白であっても、下品さがそれを上回るようでは意味が無いのだ。