ちゃぶ台と哲学 | 我が学習の変遷の記録(旧・宇宙わくわく共創局)

ちゃぶ台と哲学




先日、とある哲学の学習会に参加していて「ちゃぶ台返し」という言葉が出てきた。最近の家庭ではあまり見かけなくなったシーンかもしれないが、昔は家族が全員で畳の部屋にある円卓を囲んで、食事をしたりしたものであるが、家庭の中の「頑固親父」が突然切れて、その円卓(ちゃぶ台)をひっくり返し、その円卓に持っていた食べ物や飲み物や茶碗などを畳の上に散乱させてしまう様子をちゃぶ台返しと言うわけだ。

しかし、この言葉の本当の意味は、文字通りの意味ではなく、これまで積み上げてきたもの(考え方など)を無にしてしまうというか、また最初からやり直しみたいな状態にしてしまうことを言うようだ。

つまり、哲学というのはこれまで波風立てずに話してきた日常会話について、突然その前提をひっくり返されるような、突然これまで話してきたことが全く無意味になってしまうようなことを引き起こすと言うような意味合いが冒頭で触れた「ちゃぶ台返し」に込められているようだった。

当然、いきなり、これまでの話の前提をひっくり返されてしまうと、周囲の人は唖然としたり、びっくりしたり、様々な反応をしたりして、ひいてしまう人もいるかもしれない。




しかし、いかなる哲学の学派であっても、物事の前提を問い返ということは、非常に重要な作法ではないかと思う。もちろん、前提をひっくり返せば哲学になると言うわけではない。哲学の文脈で前提をひっくり返すとは、あくまでも理性や知性のレベルで、きちんと筋道を立てて、論理的な根拠とともに、前提に疑問を呈することであると言うことをここで確認しておきたい。


つまり、哲学はその前提が本当に正しいのかどうかに対して理性的に問いを立てると言う側面があるように思う。


例えば、対話の中で「みんな違ってみんな良い」と言うようなことが前提となり、多様な意見が出ることについて、無前提で素晴らしいと思い込んでいるような場面に出くわすことがある。そういった場合は、本当に「みんな違ってみんな良いのか」と言う問いかけをしたりすることもあるわけだ。


つまり、「みんな違ってみんないい」と言うのは、相対主義の柔らかい表現であり、すべての意見や行動を、無線定に同価値として認めてしまうと、もしその中に、差別的暴力的な個人や集団がいた場合、彼らは問題行動を起こしても、相対主義の考え方からは論理的にすら批判できなくなってしまうのだ。


これは「哲学的なちゃぶ台返し」の一例であるが、このように一定の妥当性を根拠にして前提を論理的に問い返すのであり、決して暴力的ではないことがお分かりいただけるんではないかと思う。それどころか、暴力につながらないようにするためにのような「ちゃぶ台返し」をしていると言うことが見えてくるのではないかと思う。


別の言い方をすると、ちゃぶ台返しをしなかったら危険性を含んだ前提がそのままにされてしまって、いつか問題が起きた場合に取り返しのつかないことになってしまうのだ。つまり、ちゃぶ台返しをしたおかけで、新しい視点を獲得することができたわけだ。




ただ、全体の話の前提を覆すため、それなりのマナーというか正当性への確信というか、そういったものがしっかりないといけないと思う。


野中恒宏