ちゃぶ台と哲学
しかし、いかなる哲学の学派であっても、物事の前提を問い返ということは、非常に重要な作法ではないかと思う。もちろん、前提をひっくり返せば哲学になると言うわけではない。哲学の文脈で前提をひっくり返すとは、あくまでも理性や知性のレベルで、きちんと筋道を立てて、論理的な根拠とともに、前提に疑問を呈することであると言うことをここで確認しておきたい。
つまり、哲学はその前提が本当に正しいのかどうかに対して理性的に問いを立てると言う側面があるように思う。
例えば、対話の中で「みんな違ってみんな良い」と言うようなことが前提となり、多様な意見が出ることについて、無前提で素晴らしいと思い込んでいるような場面に出くわすことがある。そういった場合は、本当に「みんな違ってみんな良いのか」と言う問いかけをしたりすることもあるわけだ。
つまり、「みんな違ってみんないい」と言うのは、相対主義の柔らかい表現であり、すべての意見や行動を、無線定に同価値として認めてしまうと、もしその中に、差別的暴力的な個人や集団がいた場合、彼らは問題行動を起こしても、相対主義の考え方からは論理的にすら批判できなくなってしまうのだ。
これは「哲学的なちゃぶ台返し」の一例であるが、このように一定の妥当性を根拠にして前提を論理的に問い返すのであり、決して暴力的ではないことがお分かりいただけるんではないかと思う。それどころか、暴力につながらないようにするためにのような「ちゃぶ台返し」をしていると言うことが見えてくるのではないかと思う。
別の言い方をすると、ちゃぶ台返しをしなかったら危険性を含んだ前提がそのままにされてしまって、いつか問題が起きた場合に取り返しのつかないことになってしまうのだ。つまり、ちゃぶ台返しをしたおかけで、新しい視点を獲得することができたわけだ。
ただ、全体の話の前提を覆すため、それなりのマナーというか正当性への確信というか、そういったものがしっかりないといけないと思う。
野中恒宏