情報洪水の中で〈私〉を見失わないために | 我が学習の変遷の記録(旧・宇宙わくわく共創局)

情報洪水の中で〈私〉を見失わないために




  はじめに

最近読んだ岩内章太郎「〈私〉を取り戻す哲学」は、非常に深く、現代社会の〈私〉の問題を哲学的にかつわかりやすく掘り下げた本でした。「なるほど!」と膝を打つ箇所か無数にありました。


  〈私〉を見失った現代人

この本によると、現代人の多くは、毎日スマートフォンに目をやって、次から次へ洪水のように押し寄せてくる情報の前に〈私〉を見失っているのは、ズバリ、退屈しているからだと言う指摘がありました。これはすなわち、大量に押し寄せる情報の中で、それをしっかり〈私〉のこととして受け止められない状況が横たわっていることが見えてきます。


「それはちょっと違うと思うなぁ。ソーシャルメディアなんかで結構自分の意見をバンバン言って議論戦わせてるじゃない。ああいうのはしっかり〈私〉の意見を言えてるんじゃないのかな」


と言う声が聞こえてきそうです。


しかし、ソーシャルメディアで展開されてるような、敵と味方に別れて、非難しあっているような議論は本当に〈私〉を前提とした議論なのでしょうか。言い換えると本当に〈私〉の確信を前提にした対話になっているのでしょうか? 


  「〈私〉とつながる」とは?


この本からの私の理解では、本当に〈私〉自身とつながるということは、まず自分自身の体験と深くつながることだと思います。大雑把に言えば、人間は体験を通して物事の本質を直観し、思考し行動し学習し成長する存在だからです。ソーシャルメディアで展開されている議論の多くは、〈私〉の体験を置き去りにした、他者目線の議論になっているのではないでしょうか?


「それは別にいいんじゃない? だって自分の視点だけだったら主観的になっちゃうし、もっともっと他者の視点を入れていかないと、議論が客観的にならないんじゃないかな」


と言う声も聞こえてきそうです。


  人間は主観から出られない


確かに自分の主観だけを絶対視していたら、独我論になってしまい、ますます他者との共通理解が取れなくなってしまうでしょう。原理的に言っても、人間はその認識に限界があるので、他者と対話をする中で独我論を抜け出していく必要性はあると思います。しかし、だからといって〈私〉を全く置き去りにして良いということにはなりません。


それは人間は自分の主観の外に出ることができないからです。私たちが日常生活で何かを考えたりするのも主観の中ですし、何かを行動する際も、その行動の確信を得るのも主観の中なのです。さらには客観的なデータにアクセスしようと思っても、その信憑性を確認するのも主観の中です。つまり人間はどうあがいても〈私〉の外に出ることができません。


哲学的に言えば、人間は絶対的真理や客観的事実に到達することはできないのです。だからこそ、自分たちの中にある確信を持ち寄って、お互いにそれを検証し合う中で合意できることを見出していくことが、最も筋の通ったことなのです。


  暇つぶしの喧嘩と相対主義


にもかかわらず、ネット上の議論の多くは、客観的な事実について本当か嘘か、正しいか間違っているかのような永遠に決着のつかない形而上学的な議論が展開しているように思います。先ほども述べたように、人間は、客観的な事実に到達できないので、こうした客観性をめぐる議論は、いつまでたっても平行線になるか、やがては対立するかのいずれかにしかならないのです。


だとするならば、一度自分自身の中にある確信に立ち返ってみる必要があるんだと思います。〈私〉の中にある確信を置き去りにして「客観性」のみに焦点を当てていると、〈私〉の生きている実感が薄れて、単に退屈を埋めようとするだけの時間だけが過ぎていくことにもなりかねないのではないでしょうか?


ネット上で展開されている議論の多くは、私には、「〈私〉なき、暇つぶしのケンカ」に映るのです。


 そんなことを繰り返していたとしても、どんどんお互いの溝が深まるばかりで、また、自分自身の生きてる実感が薄まるばかりで、その結果、どんどんお互いの分断が進行してしまうのではないかと思うのです。そして、結局は「人は人、私は私」という相対主義に陥ってしまうのではないでしょうか。


  「オタク」現象の本質


一方で、他者に対して自分の意見を表明することに意義を見いださず、物理的•精神的に自分の世界にこもる多くの人たちもいることを忘れてはいけません。彼ら彼女らも日々の生活に退屈を感じ、だからといって、全く不幸せなわけではなく、また他者と積極的に関わらなくても、何とか毎日を生きていくことができるので、ゲームやビデオなどの趣味の世界で欲望を自分の中で満たすことで、「終わりなき日常」の退屈を潰そうとしているように見えます。


こうした自分の世界にこもっている人たちも、暇つぶしに喧嘩している人たちと同様に、お互いに共通了解を見出そうとしない意味において、社会的な分断や対立を結果的に認めてしまっていることになるのではないでしょうか? そして、両者ともに、大量に押し寄せる情報洪水の中で、〈私〉を見失い、ただ情報を処理するだけのうつろな日々を送る可能性を増大させているのではないでしょうか?


  〈私〉を深掘る必要性


こうした相対主義と「オタク的状況」の進行に対して、様々な視点から取り組みがなされる必要があると思いますが、1つ欠かせない視点としては、〈私〉をより深ぼる必要性があるのではないかと思います。


先ほど人間は観の外に出ることができないとは言いましたが、だからといって、主観の中で人間は個々バラバラに妄想の世界を生きればいいと言っているわけではありません。実は現象学で明らかにされていることですが、人間の主観を深いレベルで探求すると、そこには物事の本質にアクセスできる構造というか、他者との共通理解につながる「底板」を見出すことができるからです。


ここでは詳しく展開することができませんが、簡単に言えば、人間は、誰でも共通して、主観の中に、(1)物事を個別に知覚する個的直観、(2)個別のものの背後にある本質を知覚する本質直観、(3)物事の知覚に常に結びついた欲望•関心•目的、(4)身体的(構造)を体験しているのです。


こうした4つの観点を寄りどころにすると、絶対的真理や客観的事実には到達できないにしても、誰もが合意できる点を見いだすことが十分に可能なのです。客観(超越)は主観の中で、上記の構造で現象するからです。そして、繰り返しになりますが、これらは全て〈私〉の中にあるものなので、〈私〉抜きにして、他者との分断や対立を乗り越えて、共通理解を見出していく事は不可能なのです。


  おわりに


情報洪水の中では、こうした自分の中にある繊細で微妙でありながらしっかり存在している構造に気がつくことが難しいのですが、だからこそ、一旦情報洪水から距離を置き、不幸な議論については判断保留にして、〈私〉をしっかり探求してみる必要があるんだと思います。


どう思いますか。


ちなみに、今回の話のエッセンスとご提案をまとめた1分程度の動画を作成いたしました。もしよろしければご覧ください。



野中恒宏