楽しいか退屈か
4年生のクラスで、いつもふざけてあまり授業に真面目に参加しない生徒がいる。私がその生徒に、席を移動するように言ったところ、不満を言ってきた。
「日本語の授業は退屈で、やりたくない」
私は、この言葉に反応してしまい、ついさっきやったばかりの内容を質問してみたが、その生徒は答えることができなかった。
「だから、日本語を勉強しなきゃいけないんだ」
と言ってしまったのだ。
しかし、私はその後に大きな変化を見ることができた。
確かに、最近年生のクラスが移動中に集中せずに、おしゃべりが増えてきたように感じていた。そこで今回の授業から、クロスワードパズルやワードサーチのアクティビティーを加えてゲーム性やクイズ性を出すようにしたのだ。言い方を変えると、子供たちに知的なチャレンジを与えるようにしたのだ。
すると、多くの生徒が積極的に参加しただけでなく、笑顔も増え、内容の理解も進んだように思った。
なんと、先ほど叱った生徒も積極的に手を挙げて、そのアクティビティーに参加したのだ。ホワイトボードに映し出されたワードサーチの中に日本語の単語を発見し、それについてマーカーで印をつけたいと言ったのだ。
そして、授業が終わった後にようやくアクティブリスニングをする心の余裕が生まれた。その生徒が授業中にしたことについて反射をしていると、また日本語の授業がつまらないと言ってきた。そして、さらに聞いていると、今日の授業に関しては参加したと言っていた。そこで、今日のようなアクティビティーをやれば参加するのかと聞いたら、うなずいていた。
子供の行動の基準は正しいか間違っているかではなく、楽しいか楽しくないかなのだ。そこが大人と大きく違うところなのだ。
これまで私は私の体の中から、あるいは社会的に合意された枠組みの中からのみ子供たちを見てきたが、実際に子供たちの視点で感じる反射をしてみると、子供たちは楽しい活動をやってみたい思いが非常に強い生き物だということが再認識された。
授業の冒頭では、ちょっと反応してしまったが、でも自分の怒りを爆発させることなく、生徒たちの声に耳を傾け、生徒たちが積極的な方向に態度を変容することができたのは大きな収穫だった。さらには、この授業の直前に6年生に対して怒りを爆発させた直後だったにもかかわらず、それを表にあまり出さずに授業ができた事を褒めてあげたいと思った。
オーストラリアより愛と感謝を込めて。
野中恒宏