無感覚と過剰反応を超えて | 我が学習の変遷の記録(旧・宇宙わくわく共創局)

無感覚と過剰反応を超えて


毎日ソーシャルメディアの中で、無数の言葉が交わされていますが、その中でも相手を誹謗中傷するような言葉も飛び交い、それによって追い詰められ自ら命を落とすケースが珍しくなくなってきました。しかし、私たちはこのような状況に対して「無感覚」になって、当たり前にしてはいけないんだと思いました。

というのは、先日トーマス・ヒューブルさんの集合的トラウマについての動画を見たのですが、その中で、彼は、トラウマを発生する体験は人様々であるが、その表現の仕方は「過剰反応」であり「無感覚」と言う共通点があると言う指摘がありました。すなわち、人間はトラウマを体験すると、自分をそれ以上トラウマの「痛み」を体験しないようにするために(自己防衛のために)「過剰に反応」したり、「無感覚」になる傾向があるそうなのです。

そのことを知ったとき、昨今のソーシャルメディアの無数の「尖った言葉」を目にするとき、ひょっとしたら世界的にも、日本的にも集合的トラウマがかなり深く根っこにあるのではないかと思えるようになったのです。

例えば、日本に置いて顕著な事例として、芸能人の不倫について、かなり大規模なバッシングや炎上騒ぎが起きたりしていますが、このように「過剰反応」するのは、ひょっとしたら家庭の中において多くの方々が何らかの形のトラウマを抱えているからではないかと思ったのです。

また、有名人に対してちょっとしたことであっても「過剰反応」して、その命を危機にまで貶めるような現象が起きると言うのは、自分の発した言葉が有名人本人にとってどんなに痛いものであるか、辛いものであるかを感じることのできない「無感覚」がそこにあるんではないかと思ったのです。

つまり、トラウマの共通表現である「過剰反応」と「無感覚」が一番先鋭化して見えてしまっているのが今日のソーシャルメディアの状況ではないかと思うのです。

では、そもそもトラウマとは何なのでしょうか。

トラウマは複雑な問題ではありますが、その定義の1つに、何か巨大で押しつぶされそうな「痛くて苦しい体験」をしたときに、その感覚が身体に残っている状態であるという定義があるそうです。さらに言えば、身体の自律神経系の働きとして、通常であれば、何か重大な脅威にさらされると、「戦うか、逃げるか」の反応するようになっているわけですが、トラウマの状態と言うのは、「戦うことも逃げることもできない状態である」と言う話を先日聞いたのです。

その意味では、私たちは日常的に多くの場面に於いて、「戦うことも逃げることもできない状態」を体験しているのではないか。そうすると、私たちは日常的にトラウマの海の中で生きていると言う例えもまんざら的外れではないんではないかと思えてくる位です。

つまり、魚は生まれた時から水の中にいるので、水と言うものを認識できずに生活していますが、ひょっとしたら私たちも生まれた時からトラウマと言う海の中で生きており、それをトラウマとして認識できない「無感覚さ」があるのではないか。そして、その1つの集合的な表現の仕方が今日のソーシャルメディアにおける「過剰な反応」ではないかと思ったのです。

具体的には、多くの学校生活において、子供たちは様々なルールに縛られたり、様々なプレッシャーを受ける中で「戦うことも逃げることもできない状態」を日常的に体験しているのではないか。そして、その苦しさや痛みは私たちの見えないところで多く蓄積されており、それ故他者の痛みや苦しさを感じることができない「無感覚さ」が生じ、その結果、現れてきた1つの現象が「いじめ」ではないかと思ったのです。そして、そうした状況から抜け出すためには、「不登校」しかないのではないかと思ったのです。しかし、その「不登校」であっても、本当の意味で「逃げる」ことにはならず、いつまでも身体感覚として、「逃げられない状態」が続いているんではないかと思ったのです。

また、少なくない会社組織においても、上司や周囲の人間から様々な嫌がらせやプレッシャーを受けている場合、それに対して、「戦うことも逃げることもできない状態」を無数に体験している人がいるんではないか。その結果現れてきた現象の1つが、「退社拒否」であり、「過労死」ではないかと思うのです。

さらに言えば、家庭においても、子供は親を選ぶことができず、好むと好まざるとにかかわらず、毎日親子は顔を合わせなければいけないわけですが、その中で「戦うことも逃げることもできない状態」を日常的に体験しており、それがトラウマとして身体に刻み込まれている可能性も否定できないと思うのです。

もっと言えば、私たち一人ひとりの個人のレベルにおいても、「どうせ自分はこんなものだ」とか、「どうせ自分は愛されていない」とか、「どうせ自分は一人ぼっち」とか、「いくら自分が価値を見出しても認められない」などの「戦うことも逃げることもできない状態」を体験しているんではないかとも言えるんではないかと思います。

このように、学校を見ても、会社を見ても、家庭を見ても、個人を見ても、かなり多くの人々が「戦うことも逃げることもできないトラウマ」を体験しているのではないかと思うのです。

別の言い方をすれば、こうした「戦うことも逃げることもできないトラウマ」があるからこそ、様々な相手を傷つける過剰な言動が生まれているわけですが、それは逆に言えばトラウマに苦しんでいることを示すSOSではないかとも思うわけです。

SOSであれば救われる必要があります。

でも、先ほども言ったように海の中の魚のように、周囲に蔓延しているトラウマの現象に対して「無感覚」になって、「あーまたあの人あんなこと言っている。それはいつものことだから」と言って受け流したり、「いくら私が何を言っても何も変わらないから、とにかくここは無感覚になって死んだふりをしていよう」とか、「こんなこと言うと相手は傷つくかもしれないけど、まあ大丈夫だろう。いっちゃえ」と言う行動様式がデフォルトになってしまったら、言い換えると、SOSが私たちの日常生活がデフォルトになってしまっているとしたら、そこには救いがなく、それは様々な形の「過剰反応」としていつか爆発してしまうんではないかと思うのです。

特に、今日のような新型コロナウィルスの状況が依然として現在進行形の問題として深刻な状況になっていると、地球上の多くの人々が「戦うことも逃げることもできない状態」を体験していることであり、世界的にこの問題に対してトラウマを体験しているということであり、それ故、様々な形の「無感覚」と「過剰反応」が進行していると言うことではないかと思うのです。そして、人々の現在実際に体験している痛みや苦しみに対して「無感覚」が極みになった時、今日の「過剰反応」が爆発してしまうんじゃないかと思うのです。

その爆発の兆しが、アメリカにおける人種主義かもしれませんし、シリア難民をめぐる命の問題かもしれませんし、香港で展開している人権の問題かもしれませんし、米中の対立かもしれませんし、様々な形で「無感覚」と「過剰反応」の破裂の兆しが広がっているように感じるのです。

しかし、そうした状況に対して、私たち人類は決して諦めていないんだと思います。

私たちの生きているこの時代は、これまで当たり前だと思っていた古いものが消えていき、これまで見えていなかった新しいものが生まれてくる時代だと思います。

それは、新型コロナウィルスと闘い続ける医療現場の方々やワクチンを作ろうとする科学者であったり、グローバルなコミュニティーで展開しているU理論のガイアジャーニーなどの取り組みであり、SDGsのグローバルな様々な取り組みであり、新しい教育や学びを探究する未来のための営みなどの形があるんだろうと思っています。

そのような動きを体で感じ、さらに俯瞰してみると、やはり個人の癒しと集合の癒しはつながっているんだなぁと言うことを感じます。

私たちが身近なレベルから世界的なレベルまで体験している様々な形の「戦うことも逃げることもできない状態」としてのトラウマに対しても、個人と集合の2つのレベルから癒しを体験することが重要ではないかと強く思う次第です。

そのための第一歩として、私たちは一人ひとりの心身の中に潜んでいるSOSにしっかり耳を傾けることから始めることが重要ではないかと思います。その出発地点が「個人」ないしは「家族」ではないかと感じています。

オーストラリアより愛と感謝を込めて。
野中恒宏