愛情表現は誰からも奪えない | 我が学習の変遷の記録(旧・宇宙わくわく共創局)

愛情表現は誰からも奪えない


昨日は、エッセンシャルマネジメントスクール(EMS)が主催したオンラインセミナーに参加しました。テーマは、「人生の最終段階を本質的に見つめるワークショップ」でした。そこでは、エンドオブライフ協会の創立者である小澤竹俊先生のお話を聞くことができました。

私たちは誰でもが例外なく死を迎えます。私たちの愛する人も、全て死を迎えます。そのプロセスの中で、私たちは様々な形で苦しみを体験します。愛する人を長い間介護したり、愛する人を送らなければならない悲しみを体験したり、自分自らが死を迎える苦しみを体験するなど、様々な形の苦しみがあります。

昨日のワークショップでも、小澤先生から様々な事例が紹介されたり、参加者の中から、こうしたプロセスの中で体験した様々な現在進行形の悩みや苦しさもシェアされました。

その中で普段は学べないような貴重なことを多く学ばせていただきました。その1つは、問題には解決できる問題と解決できない問題があると言うことです。

つまり、この人間の死と向き合うプロセスと言うのは、簡単に解決ができる問題ではないと言うことです。にもかかわらず、私たちは子供の頃から多くの学校教育の中で、1つの答えがあらかじめ用意されており、それに向けて限られた時間の中で急かされながらその答えに到達することが求められており、そうした問題に対する狭い認識が学校教育の中のデフォルトとなったりしているわけです。そうすると、なかなか解決策が見出せない、命に関わる問題に出くわした時、学校教育の無力さが露呈するわけです。

昨日のワークショップの中で学んだ事は、問題が解決できなくても、それでもその人に寄り添いながら、その人を真剣に理解しようとしながら、つながり合いながら、穏やかに幸せに生きていく事は可能であると言うことです。

そして、人間にとって、最も辛い根源的な悩みの1つとして、誰ともつながっていない、誰からも理解されていないと言う状況であると言うことも学びました。これは医療現場で、多くの患者さんたちが体験していることであり、これは切実な問題であると思いました。しかし同時に、これは学校教育の中で多くの子供たちも体験している苦しみではないかと思いました。

実は、あるクラスで、今週、男の子が突然教室の中の机を倒し、椅子を投げようとしたり暴れながら、教室を出て行ってしまったことがあったのです。私がこれから授業始めようと思った時にそのような展開になってしまったので、とても驚きましたが、考えてみれば、その子の抱える苦しみは、誰からも理解されない、孤独の苦しみだったんだと気が付きました。その子は、いわゆる「自閉症」とレッテルの貼られた生徒であり、大音量で話すその喋り方や、独特の考え方が、その他の多くの生徒たちから浮いてしまい、日ごろから辛い思いをしてきたようです。

このように、医療現場と教育現場は形は違いますが、その中で人々が体験している苦しみと言うのは、本質的に同じものであると思いました。どちらも、自分の思い描いている理想と現実の間で人々が苦しんでいるのです。

そして、医療現場であっても教育現場であっても、そうした苦しんでる命に寄り添い、紋切り型ではない、その人固有の形のつながり方というか、固有の愛情表現が必要であると言うことが見えてきました。

昨日、このワークショップに参加されたある女性から、私の父が生きていた時にしてあげたかった事はあるかどうかについて質問を受けました。あまり面と向かってこの問いに向き合ってこなかった私ですが、この形の問いによって、父との関係について掘り下げることができました。

父が亡くなった当初は、私は父に対して言葉でしっかりと感謝や愛情表現をしていなかった事を後悔しました。出棺の時に、棺に向かって「ありがとう」と何度も言うのが精一杯だった自分が情けなかったのを覚えています。

しかし、こうして時間が経ってみると、私も父も、お互いに様々な形で感謝や愛情の表現を行ってきたんだと言うことが見えてきました。もし、仮に生きている間に言葉で感謝や愛情を表現したとしても、私と父の固有の関係性において、普段からそういった事は言ってこなかったので、逆に不自然さやぎこちなさが残り、本当の感謝や愛の気持ちは伝わらなかったんじゃないかと思いました。むしろ、父と私の固有性に基づいた関係性の中で、どのような感謝や愛情表現をしてきたかの方が重要ではないかと思えるようになりました。

例えば、私は今現在オーストラリアのブリスベンの現地の公立小学校で日本語教師をしているわけですが、私の父も、長い間日本で教職についていました。思い起こせば、父の後を継いでいるわけであり、この事実が、父にとっては私の精一杯の感謝の気持ちの表れであると受け止められたのではないかと思いました。もし私が父の事や、父の職業のことを恨んでいたら、父と同じ職業に就く事はなかったでしょう。私は子供心に父の仕事ぶりを見ながら、言い方を変えると、父の仕事を通じて父の生き様を見ながら、その仕事に憧れ、父の背中を追っていたのだということに気が付きました。私は、父を尊敬していたし、愛していました。私が父と同じ教職に着いたのも、そうした父への思いが深いところであったことに気が付きました。

そして、ある時母からこんな後日談を放されたことを思い出しました。私はオーストラリアに住んでいるので、なかなか父が生きている時も日本に帰って会うことができなかったわけですが、2年に1回位オーストラリアの子供たちを連れて日本を訪れることがありました。その時に、父と母は教師である私に会いに来ることをとても楽しみにしていました。ある時、父の泊まり込みの予定と、私の日本訪問の時期が重なってしまったことがありました。母によると、父はそのことを大変残念がっていたと言うのです。私は正直、父が私に当時そんなに会いたがっていたのかと言うことが頭の中になかったので、とても涙が出る位嬉しかったことを覚えています。

このように、私や父は言葉でこそ感謝や愛情表現をしてこなかったわけですが、それぞれ固有の形で感謝や愛情表現をしてきたわけで、それが私たちにとっては最高の形であったと言うことを今では認識することができます。他の人から見れば、「なんて貧しい愛情表現なんだ」と見えるかもしれませんが、それはその人から見ればそう見えるかもしれませんが、私たちにとっては紛れもない純粋な形の愛情表現でした。

愛情表現は誰からも奪い取ることができません。言葉で表現できなくても、それは何らかの形で必ず存在しています。その愛情表現を発見できるかできないかで、人生や愛する人たちとの向き合い方が全く変わってくると思います。

何を愛情表現とするか、何を幸せとするかは、自分で決めていいんだと思うのです。愛情や幸せは、他人から決められるものではなく、自分で決められるものだと思います。

私は、先ほど紹介した、教室から出て行ってしまった孤独の生徒に対して、教師として私なりの固有な形で精一杯愛情表現をしていきたいと思いました。

あなたはどんな愛情表現をしてきましたか。あなたはどんな幸せを体験していますか。

オーストラリアより愛と感謝を込めて。
野中恒宏