「生かされている」という体験のパワー | 我が学習の変遷の記録(旧・宇宙わくわく共創局)

「生かされている」という体験のパワー


私は人生の中で何度か「自分は生かされている」と感じた瞬間がありました。それはプールで溺れかけているときに、自分はもうダメだと思って諦めかけた時に、家族や友人に助けられた時でもありましたし、幼い頃にひきつけを起こして、意識を失ない、あと10分遅れたら私の命はなかったと言われた瞬間でもありました。


また、私にとっての「生かされている体験」は、自分にとって身近だった人がなくなり、それに伴って自分には生きている価値がないと思った時に、朝校門をくぐった時に、ある生徒から言われた「おはようございます」という言葉を聞いた瞬間でもありました。


またドクターディマティーニのセミナーに参加して、自分にとって大きな心の重荷となっていた生徒に対してワークを行い、その生徒が私に対して行ってきた様々な「授業妨害」は、私は人間として教師として成長させるためのかけがえのない経験だったことがわかり、心の底から感謝の念が湧いてきた翌日に、同じ生徒ががらりと態度を変え、私の授業に真剣に打ち込む姿を見た瞬間でもありました。


こうした様々な体験を通して、人生と言うのは、私個人が「生きている」と言う側面だけではなく、その背後に「生かされている」と言う重要な側面があるということに気がついたのです。


今日、インターネットでニュースをチェックしていたら、トップニュースは、日本で高齢者の生きがいや、人間の生死について様々な提言を行ってきた医師の日野原重明氏の死去のニュースでした。日野原さんは、105歳に至るまで現役の医師として、活躍し、人生について、生死について、生活習慣病について、様々な本も出版してこられました。その日野原さんは、59歳のときに、よど号ハイジャック事件の人質の1人となり、機内に四日間の閉じ込められた体験をしたそうです。そして、4日後に解放されタラップを降りたときに、「私は生かされている」という強い感覚を感じたそうです。その後、彼は「与えられた人生」を懸命に生きぬき、1995年の地下鉄サリン事件の時は聖路加病院で担ぎ込まれた数百人の人たちを救う懸命の努力をされたり、先ほど述べたような人間の人生について、生きがいについて、高齢者のあり方について、様々な提言を精力的に行ってきたのです。


つまり、日野原さんの人生においても、「生かされている」という体験が、その後の人生に於いて大きなインパクトを与えたと言う事は間違いないようです。


また、世界的に人間行動学の権威として著名な、ドクターでマティーニも、ハワイでヒッピーのような暮らしをしていたときに、ふと口にした雑草の猛毒が、彼の命を奪いかけたことがありました。しかし、「偶然」そこを通りかかった女性に助けられ、彼はその後彼のメンターとなるポール・ブラグ氏に出会い、その後の人生を決定づけるビジョン見て、今もそのビジョンに基づいて彼は自分のミッションをまっしぐらに生きているわけです。こうした1連の出来事は、ドクターでマティーニ個人の意思ではどうにもならないことであり、やはりここでも個人の意思を超えた大きな力が働いていたと言う意味で、彼は自分は「生かされている」という感覚を持っただろうと言うことを想像する事ができます。


このように生死に関わる出来事を体験することによって、「生かされている」という体験をされたことがある方は少なくないでしょう。しかし、「生かされている」という体験は、何も生死に関わるという形だけではないように思われます。もっと身近な生活の中で、自分は、人知を超えた存在によって生かされているというふうな体験をした方も大勢いらっしゃるのではないでしょうか。


つまり、私たちが通常五感を通じて感じるのは、「生きている」という感覚であり、それは言葉で表現できたり、「形」で認識したりすることができます。それは、呼吸活動であったり、歩く活動であったり、人と話す活動であったり、食べる活動であったり、仕事をする活動であったり、様々な「形」で認識することができるのです。言い換えると、「生きている」という感覚は、「活動(doing)」の側面であると言えると思います。

一方で、「生かされている」という感覚は、「形」を通してその背後にある形を超えた存在を感じる感覚だと言えると思います。つまり、私たちの日常生活の様々な活動の背後にある「存在(being)」を感じる感覚だと言えると思います。


先程の例で言えば、私の「問題生徒」に変容をもたらした「存在」であり、日野原氏の命を救いその後の人生へと導いた「存在」であり、ドクターディマティーニのもとに女性を導き、その後の彼のビジョンを見せてミッションを生きる方向へと導いた「存在」でもあるといえます。


こうした存在は、実は私たちの生活の中で様々な形を通して体験することができます。


それは例えば、


車を運転してる時に、前方の車とぶつかりそうになったり、急に飛び出してきた人間や動物をひきそうになったりして、それを避けることができてひやっとした瞬間であるかもしれませんし、


前の晩にどうしても解けなかった問題が、一晩寝て翌朝目を覚ましたときに、その問題の解決方法は頭に思い浮かんだりした瞬間かもしれませんし、


ある人との出会いが自分の人生を大きく左右した瞬間だったかもしれませんし、


自分が試練を体験した瞬間に、サポートをもたらしてきた人を認識した瞬間だったかもしれませんし、


どこか遠い外国の人の描いた絵画であるにもかかわらず、その絵画を見ているうちに何かとても懐かしい気持ちになったりした瞬間かもしれませんし、


前の日までたくさんの時間とエネルギーをかけて準備した原稿を家に忘れてしまったにもかかわらず、実際に発表の場になってみると、手元に原稿がないのに、口から様々な言葉が出てきて助けられた瞬間かもしれませんし、


さっきからずっと考えていた人から、突然電話がかかってきたり、メールが送られてきた瞬間かもしれませんし、


自分が頭の中に思い描いていた言葉を、そこに通り掛かった通行人が口に出したり、


予想もしなかった突発的な出来事に巻き込まれて、意識が今ここに引き戻され、自分の力を最大限に発揮することができ、心が生き生きして来た瞬間かもしれませんし、


私たちが「生かされている」と感じる体験は、様々な形をとるんだと思います。


そして、忘れてはいけないのは、私たちがこの宇宙に生かされていると言うことです。つまり、私たちの住んでいる地球は太陽から適切な距離にあるため、気温が保たれ、私たちは生きることができるわけです。もし、この地球と太陽の距離がもう少し近づいていたら、地球上は灼熱地獄で生物が存在することができなかったでしょう。また大気中の成分も、適切な配合で酸素や二酸化炭素やその他の分子が存在しているので、私たちは今こうして呼吸していけることができています。太陽の距離も、大気中の成分も、私たち個人の力を超えています。つまり、こうした、宇宙や自然の中で私たちが生きていると言う事は、個人の意思を超えた、まさしく「生かされている体験」なのです。


しかし、そうした「生かされている経験」の全てに共通しているのは、先ほども述べたように、私たちの人生と言うのは、目に見える五感の「活動(doing)」の世界だけではなく、その背後に存在する形を超えた「存在(being)」の世界があると言うことを示していることであります。そして、その「活動」と「存在」を統合したときに、その後の人生の質が飛躍的に向上すると言う点だと思います。


言い換えると、自分を生かしてくれている存在に対する感謝を忘れず、常に今ここでその大いなる存在とつながり続けながら日々の活動することが、私たちの人生をより充実させる秘訣なのだと思います。

今日も読んでいただいて、ありがとうございました。

オーストラリアより、愛と感謝を込めて。

野中恒宏