オーストラリアの料理番組を見ていて思ったこと | 我が学習の変遷の記録(旧・宇宙わくわく共創局)

オーストラリアの料理番組を見ていて思ったこと

オーストラリアでは、リアリティーテレビと言うジャンルの番組がはやっています。すなわち、一般参加者が、お互いに料理の腕を競ったり、家のリノベーションの腕を競ったりするわけです。

特に料理に関しては、もう何年も前にオーストラリアで日本の「料理の鉄人」と言う番組が放映されて、人気を博したので、それをきっかけにして、似たような料理の腕を競う番組がいっぱい作られていたのです。
 
昨日、久しぶりにその番組の1つである「マスターシェフ」と言う番組を見ました。
 
そこでは、何人もの若者が、自分たちの才能を最大限に使って、見た目も味も素晴らしい料理を制限時間内でどんどん作り上げていきました。その時には、BGMを使われたりして、まるでドラマを見ているかのような感覚になるほど、盛り上がった雰囲気が漂っています。
 
しかし、私は、それを見ていて、何か重要なことが抜けているなと感じました。

確かに、次々に盛り付けされる食べ物を見ていると、美しい形をしているのですが、どうも、形や見てくればっかりにこだわって、その形を成り立たせている、空間の美が感じられないと思いました。
 
さらには、料理を作っている人間も、料理を見守っている人間もとても騒々しいのです。確か、日本の「料理の鉄人」の番組の中では、彼らはとても静かに料理をひたすら作っていました。つまり、今回の番組を見ていて、非常に激しい動きを感じ、日本の静寂の中作る料理のあり方と大きな違いを見た感じがしました。
 
まとめて言うと、オーストラリアの料理番組は形や動きや音にこだわる傾向がありますが、日本の料理番組は形の背景にある空間や静寂も含んだ美があると感じたのです。
 
なぜこれほどまでに対照的なものを感じたかと言うと、実は昨日、病院に入院しながらも、ブログを更新し続けるある女性の写真を見たからです。その女性は、自分の朝食の写真を紹介していました。その写真はとても質素で、そこには具が見えない味噌汁、お粥、すりつぶした梅干のようなもののように、全く硬い固形物がないように思われました。その質素さが、その病室の空間を際立たせているように感じたのです。
 
私はその質素な料理や、その料理の周辺の空間が、ガンとの闘病に疲れたその女性を癒しているような優しさを感じたのです。
 
そして、その後に、私は先程の「マスターシェフ」を見たので、その音や色や声や匂いなどの形で満たされた番組に、ちょっと圧倒されたというか、何か不自然なものを感じた次第です。
 
日本の文化は、その多くが質素で静寂の中にあります。しかし、その質素で静寂の中にあるからこそ、その文化に携わっている人々の目に見えない想いや、平安が明確に表現されているように思うのです。
 
例えば、書道は薄い半紙の上に墨で文字を書くわけですが、それは静寂の中行われます。その半紙の上の筆遣いや、線の太さなどから、その文字を書いた人の想いが明確に伝わってきます。
 
茶道にしても、その空間はとても質素です。そして、そこで出されるお茶もとても見た目も味も落ち着いた雰囲気があります。だからこそ、そのお茶に込められたその人の思いが明確に伝わってきますし、その茶道を作り上げてきた日本の伝統のエネルギーを明確に感じ取ることができるのです。
 
先程の「マスターシェフ」が、形を前面に出せば出すほど、私はその形の背後にある静寂を感じざるをえなくなり、その静寂から、私は日本の伝統文化につながることができたのです。
 
私は、日本とオーストラリアの料理の違いを考えるとき、やはり空間や静寂の中に込められた人々の思いがその料理に反映されているかどうかが大きなポイントになってくると思いました。形にこだわればこだわるほど味が薄っぺらくなり、その形の背後にある静寂や空間に込められた想いを込めると、味にどんどん深みが増すということが最近ようやく分かってきました。
 
{434B34B8-C389-41E7-A3CB-17DD6C4FCB15}
今日も読んでいただいて、ありがとうございました。

オーストラリアより愛と感謝を込めて。
野中恒宏